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5.慣れてきてる


 ――僕を呼んだユリの注意は、視界の端の一点を示していた。


 ここからはフロアの反対側になる、ちょうど吹き抜けと天井がある奥との境界あたりの、本棚と本棚の間――。

 そこだけ照明が壊れているのか、暗がりになっている場所に……しっかりした足取りの人影が入っていくのが見える。


「あれは――」


 ……あれは、あの動きは――普通の人間?


 何か奇妙なものを感じて、僕はその人影を見失わないよう、一直線にフロアを横切り……暗がりになっている本棚の間へと駆け寄っていく。


 果たしてそこには――見かけた通り、スーツ姿の男性がいた。

 僕に背を向けて、奥の方へとゆっくりとした歩調で歩き去ろうとする。


 その所作は、ごく普通の人間のものだ。

 もしかすると、ここを寝床にしていたり、あるいは僕らと同じように何かを調べに来た人なのかも知れない――。


 声をかければはっきりするのだけど、僕は正直迷った。


 今の状況下では、もう普通の人間だからというだけじゃ安心出来ないからだ。

 むしろ、自分たち以外は、とにかく悪意を持つ危険要素と判断しておく方がいい――っていうぐらいに。

 だけどだからと言って、相手が普通の人間なら、さすがにいきなり有無を言わさず襲いかかるわけにもいかない。

 やっぱりここは一応、声をかけるべきだろうか……。


「――おい、景司けいじ!」


 そう心を決めかけていた僕は、名を呼ばれて振り返る。

 泰輔たいすけたちみんなが追い付いてくるところだった。


「何いきなり1人で突っ走ってんだよ、慎重に行こうってさっきお前自身が言ったところだろうが、まったく……」


「あ、ごめん、人を見かけたから。つい――」


 何気なく言って、僕はもう一度振り返る。

 スーツの男性も、僕らのやり取りで存在に気付いたのか……こちらに向き直るところだった。



 そして――僕は戦慄した。



「! まさか、そんな……!?」


「まあ、確かに人ではあるよな、一応。――見かけだけは」


 不快そうに顔を歪めながら、泰輔は手製の槍を構える。

 岩崎いわさきもそれに続いて鉄棒を握り直す。


 一方、スーツの男性は、穏やかな微笑みさえ浮かべながら……つかつかと確かな足取りでこちらに近付いてくる。


 しかし、その目は――その瞳だけは、あの嫌らしい痙攣を続けていて……!


「なに、あれ……? アイツら特有のぎこちなさがまるで無いじゃない!

 どうなってるのよ――まさか、元に戻りかけてるの……!?」


 芳乃よしのがそう言った瞬間だった。

 男は、大きく口を開いたかと思うと――


 いや、その表現がどこまで正しいかは分からない。

 ただ、真っ当な人の声でないことだけは確かで……どうやったら人の声帯がこんな音を出せるのかというような――多分相当な高音域と思われる、断続的な音を発したのだ。


 そしてそれは――今まで聞いたことのあるあらゆる音の中で、最も不快だと断言出来るものだった。

 巨大な虫が激しく羽を打ち合わせるような、触角を擦り合わせるような、歯を噛み合わせるような……それでいて金属質で無機的で、世界のどんなものの声にも属さないことだけは明白な、聞いているだけで脳が直接掻き回されるような不快感を催す――『声』。


 さらに、その忌々しく禍々しい『声』は――『同族』に何かを伝えるものだったのか。

 立て続けに、この広い図書館のあちこちから、応えるようにして同じ類の音が響いて……空間に木霊し始めた。


「――ッ! あれが元に戻りかけてる人間の出す声かよ! 逆だ!!

 きっとこいつら、慣れてきてやがるんだよ……人の身体を動かすことに!!」


 『声』に負けじと放った泰輔の叫びに、僕はふっ、と……以前富永とみながさんが言っていた、『小さい何か』という言葉を思い出す。



 じゃあ本当に、そんな『何か』がいて……。

 夢を通して、人に入り込んでいるのか……?



 疑問が浮かんでも、単に耳障りというだけでは表しきれない、不快な『声』に邪魔されて……まともに考えることが出来ない。

 不安や胸焼けに加えて、苛立ちがふつふつと沸き上がってくる。


「――うるさいッ!!」


 ただただ、この音を消したいという欲求に突き動かされて、僕は自分でも驚くほどに素速く――半ば反射的に銃を抜き、間近まで迫るスーツの男の頭を撃ち抜いていた。


 額を撃たれて仰向けに倒れた男は、まだ辛うじて生きてはいるようだったけど――今の銃声で我に帰ったらしい岩崎が、鉄棒を振りかざし、すぐさま止めを刺しにかかっていた。

 これでひとまず、目の前の音だけは消え去った。

 けれど、それ以外の『声』が……まるで輪唱でもするかのように、フロアに響き渡っていて……!


「……泰輔……!」


「ああ。とにかく、アイツら全部黙らせるぞ。

 ――皆殺しにしてやる……!」


 あまりに不快な『声』のショックからだろう、必死に耳を塞いで泣き出す美樹子みきこを見ていた泰輔が、歯ぎしりしながら視線を上げ、ぐるりとフロアを見渡しながら僕の呼びかけに応える。


 これまではたまたま見えなかっただけなのか、それとも巧妙に隠れていたのか――。

 この最下層だけでなく、吹き抜け越しに見渡せるフロア全域に、気付けばいくつかの人影が蠢いていた。


 ……とにかく、1人たりとも生かしておけない……!


 その気持ちはまるで熱に浮かされているようだと、自分でも思う。

 はっきり言って冷静じゃない。


 けれど泰輔や岩崎、いや、きっと芳乃でもそうだろう。


 障害を排除しておくという義務的な計算でも、正義感のような倫理的な感情でもなく――僕らの中にあるのは、本能が訴える、異常なまでの生理的嫌悪感から解放されたいという、その一心だった。

 それはきっと、窒息しかけて、酸素を求めて必死に喘いでいるのと同じようなものだ。


 さらに加えて、僕にとってこの『声』は――記憶の白く塗り固められた部分を、執拗に引っかき回してきていた。

 ――なぜか、なんて分からない。

 けれどそれがただひたすらに不快で、とにかく苛立たしくて仕方がなかった。




 ……そうして。

 あの『声』を出す存在を、1人ずつ潰し続けた僕らが――最後に遭遇したのは、小学校高学年ぐらいの男の子だった。

 だけど、たとえ相手が『子供』でも……躊躇ってなんていられない。


 僕と泰輔が、槍のリーチを生かして前方から胴を串刺しにし、動きを止めている間に――後ろに回り込んだ岩崎が、後頭部目がけて全力で鉄棒を叩きつける。


 人の額というのは想像以上に固い、頭を叩き割る気で狙うならやはり後ろか真上から――それは、僕らが今の状況を生きる中で、経験から身につけたセオリーの1つだった。


 『あの状態』にある人間は、痛みを感じていないのか、とにかくしぶとくて……普通なら致命傷になるはずの傷を負っても動いてくる場合が多い。

 ……康平こうへいだってそうだった。

 きっと、古宮こみやによって顔を潰されたとき、まだかろうじて息があって……だから『あの状態』にもなったし、僕らを襲ってもきたんだろう。


 そう、だから――予想外の反撃に遭わないためにも、手早く、そして確実に息の根を止める必要があるんだ。


 岩崎の渾身の一撃を受けた子供は……黒みがかった濃い血をまき散らしながら、前のめりに倒れる。

 普通なら充分に致命傷だけど――まだ完全には死んでいないと分かっている僕らは、そこで手を止めたりしない。

 全体重をかけた槍の穂先で、砕けた後頭部の傷口をなおも抉るように貫く。

 槍を通して伝わる感触は、いい加減慣れたとは言え、決して気持ちのいいものじゃないけど……だからといって躊躇えば、こちらが死ぬことになりかねない。


 子供――あるいは、子供の体を動かしていた何か――は、小さく何度か断末魔の痙攣を繰り返した後、完全に動かなくなる。


 ――とにかく、これでようやく……すべての『声』が消え去った。



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