――僕を呼んだユリの注意は、視界の端の一点を示していた。
ここからはフロアの反対側になる、ちょうど吹き抜けと天井がある奥との境界あたりの、本棚と本棚の間――。
そこだけ照明が壊れているのか、暗がりになっている場所に……しっかりした足取りの人影が入っていくのが見える。
「あれは――」
……あれは、あの動きは――普通の人間?
何か奇妙なものを感じて、僕はその人影を見失わないよう、一直線にフロアを横切り……暗がりになっている本棚の間へと駆け寄っていく。
果たしてそこには――見かけた通り、スーツ姿の男性がいた。
僕に背を向けて、奥の方へとゆっくりとした歩調で歩き去ろうとする。
その所作は、ごく普通の人間のものだ。
もしかすると、ここを寝床にしていたり、あるいは僕らと同じように何かを調べに来た人なのかも知れない――。
声をかければはっきりするのだけど、僕は正直迷った。
今の状況下では、もう普通の人間だからというだけじゃ安心出来ないからだ。
むしろ、自分たち以外は、とにかく悪意を持つ危険要素と判断しておく方がいい――っていうぐらいに。
だけどだからと言って、相手が普通の人間なら、さすがにいきなり有無を言わさず襲いかかるわけにもいかない。
やっぱりここは一応、声をかけるべきだろうか……。
「――おい、
そう心を決めかけていた僕は、名を呼ばれて振り返る。
「何いきなり1人で突っ走ってんだよ、慎重に行こうってさっきお前自身が言ったところだろうが、まったく……」
「あ、ごめん、人を見かけたから。つい――」
何気なく言って、僕はもう一度振り返る。
スーツの男性も、僕らのやり取りで存在に気付いたのか……こちらに向き直るところだった。
そして――僕は戦慄した。
「! まさか、そんな……!?」
「まあ、確かに人ではあるよな、一応。――見かけだけは」
不快そうに顔を歪めながら、泰輔は手製の槍を構える。
一方、スーツの男性は、穏やかな微笑みさえ浮かべながら……つかつかと確かな足取りでこちらに近付いてくる。
しかし、その目は――その瞳だけは、あの嫌らしい痙攣を続けていて……!
「なに、あれ……? アイツら特有のぎこちなさがまるで無いじゃない!
どうなってるのよ――まさか、元に戻りかけてるの……!?」
男は、大きく口を開いたかと思うと――
いや、その表現がどこまで正しいかは分からない。
ただ、真っ当な人の声でないことだけは確かで……どうやったら人の声帯がこんな音を出せるのかというような――多分相当な高音域と思われる、断続的な音を発したのだ。
そしてそれは――今まで聞いたことのあるあらゆる音の中で、最も不快だと断言出来るものだった。
巨大な虫が激しく羽を打ち合わせるような、触角を擦り合わせるような、歯を噛み合わせるような……それでいて金属質で無機的で、世界のどんなものの声にも属さないことだけは明白な、聞いているだけで脳が直接掻き回されるような不快感を催す――『声』。
さらに、その忌々しく禍々しい『声』は――『同族』に何かを伝えるものだったのか。
立て続けに、この広い図書館のあちこちから、応えるようにして同じ類の音が響いて……空間に木霊し始めた。
「――ッ! あれが元に戻りかけてる人間の出す声かよ! 逆だ!!
きっとこいつら、慣れてきてやがるんだよ……人の身体を動かすことに!!」
『声』に負けじと放った泰輔の叫びに、僕はふっ、と……以前
じゃあ本当に、そんな『何か』がいて……。
夢を通して、人に入り込んでいるのか……?
疑問が浮かんでも、単に耳障りというだけでは表しきれない、不快な『声』に邪魔されて……まともに考えることが出来ない。
不安や胸焼けに加えて、苛立ちがふつふつと沸き上がってくる。
「――うるさいッ!!」
ただただ、この音を消したいという欲求に突き動かされて、僕は自分でも驚くほどに素速く――半ば反射的に銃を抜き、間近まで迫るスーツの男の頭を撃ち抜いていた。
額を撃たれて仰向けに倒れた男は、まだ辛うじて生きてはいるようだったけど――今の銃声で我に帰ったらしい岩崎が、鉄棒を振りかざし、すぐさま止めを刺しにかかっていた。
これでひとまず、目の前の音だけは消え去った。
けれど、それ以外の『声』が……まるで輪唱でもするかのように、フロアに響き渡っていて……!
「……泰輔……!」
「ああ。とにかく、アイツら全部黙らせるぞ。
――皆殺しにしてやる……!」
あまりに不快な『声』のショックからだろう、必死に耳を塞いで泣き出す
これまではたまたま見えなかっただけなのか、それとも巧妙に隠れていたのか――。
この最下層だけでなく、吹き抜け越しに見渡せるフロア全域に、気付けばいくつかの人影が蠢いていた。
……とにかく、1人たりとも生かしておけない……!
その気持ちはまるで熱に浮かされているようだと、自分でも思う。
はっきり言って冷静じゃない。
けれど泰輔や岩崎、いや、きっと芳乃でもそうだろう。
障害を排除しておくという義務的な計算でも、正義感のような倫理的な感情でもなく――僕らの中にあるのは、本能が訴える、異常なまでの生理的嫌悪感から解放されたいという、その一心だった。
それはきっと、窒息しかけて、酸素を求めて必死に喘いでいるのと同じようなものだ。
さらに加えて、僕にとってこの『声』は――記憶の白く塗り固められた部分を、執拗に引っかき回してきていた。
――なぜか、なんて分からない。
けれどそれがただひたすらに不快で、とにかく苛立たしくて仕方がなかった。
……そうして。
あの『声』を出す存在を、1人ずつ潰し続けた僕らが――最後に遭遇したのは、小学校高学年ぐらいの男の子だった。
だけど、たとえ相手が『子供』でも……躊躇ってなんていられない。
僕と泰輔が、槍のリーチを生かして前方から胴を串刺しにし、動きを止めている間に――後ろに回り込んだ岩崎が、後頭部目がけて全力で鉄棒を叩きつける。
人の額というのは想像以上に固い、頭を叩き割る気で狙うならやはり後ろか真上から――それは、僕らが今の状況を生きる中で、経験から身につけたセオリーの1つだった。
『あの状態』にある人間は、痛みを感じていないのか、とにかくしぶとくて……普通なら致命傷になるはずの傷を負っても動いてくる場合が多い。
……
きっと、
そう、だから――予想外の反撃に遭わないためにも、手早く、そして確実に息の根を止める必要があるんだ。
岩崎の渾身の一撃を受けた子供は……黒みがかった濃い血をまき散らしながら、前のめりに倒れる。
普通なら充分に致命傷だけど――まだ完全には死んでいないと分かっている僕らは、そこで手を止めたりしない。
全体重をかけた槍の穂先で、砕けた後頭部の傷口をなおも抉るように貫く。
槍を通して伝わる感触は、いい加減慣れたとは言え、決して気持ちのいいものじゃないけど……だからといって躊躇えば、こちらが死ぬことになりかねない。
子供――あるいは、子供の体を動かしていた何か――は、小さく何度か断末魔の痙攣を繰り返した後、完全に動かなくなる。
――とにかく、これでようやく……すべての『声』が消え去った。