――とにかく、今後の方針は定まった。
そこで、先に約束していた通りに
市庁舎内はほとんど安全が確認されたから、この先使えそうな道具が手に入るような場所がないか、見回りついでに近辺を探しておこうと思ったんだ。
市庁舎の周囲は、雰囲気で言うならオフィス街のような様相なので、
ひとまず目標は達成したし、あんまり1人で長く外に居続けて厄介事に巻き込まれるのも困ると考えた僕は……見回りは適当なところで切り上げ、市庁舎前に戻る。
そうして、いざ敷地内に足を踏み入れようとした矢先――。
僕は「
……あまり聞き慣れない声に、不審に感じながらそちらを振り返る。
果たして、街路樹の陰に隠れるように立っていた声の主は――見覚えのある白人女性だった。
ホテルで待機していたときに一度話した、エマ・ゴールドフィンチと名乗った女性だ。
「あなたは……エマ、さん?」
「覚えていてくれたみたいね」
エマさんは控えめに、口元だけでごく僅かに微笑む。
一見したところ、『あの状態』にはなっていないようだし、精神的にもまだ正常のようだ。
だけど――彼女が無事だったということを、手放しに喜ぶ気にはなれなかった。
適当に頷いて答えとしながら、慎重に相手の様子を窺う。
この状況に慣れきったせいで、泰輔たち友人以外の人間に対して基本的に疑り深くなっているというのもある。
だけどこうまで身構えてしまうのは、何より、この人が……何か、僕らも含めた他の人と違うからだ。
この状況について、何かを知っていると……そう感じるからだ。
『あの状態』の人間とはまた別の意味で、油断出来ないと――感じるからだ。
「ところで、あなたたち……
「…………!」
下手な対応をしないようにと内心身構えていたにもかかわらず、その不意打ちのような一言はあっさりと僕を動揺させた。
だけど、だからといってそれを簡単に
僕は表情が見えにくいよう俯き加減になりながら、慎重に声を絞り出す。
「どうして……そのことを」
「そんなに驚くことでもないと思うわよ?
島の外へ出ようにも、鐘森駅から本州への連絡橋が使用不能で、船も飛行機も使えない、助けも来ない――となると、残る手段として思いつくのは、使われなくなって久しいような、一般的ではない陸路ぐらいのもの。
そしてあなたたちは、それについて調べるのに適当な、図書館と郷土資料館が併設されているこの市庁舎に来ている。
――なら、槻島トンネルのことを知ったと考えるのは、そう不自然でもないでしょう?」
……僕は、上目遣いにじっとエマさんを見る。
駆け引きのようなことは相手の方が一枚も二枚も上手で、こうして観察したところで分かることなんて無いだろうと思っていたけど……。
意外にも、そんな僕にも分かるほどに――エマさんの表情からは、焦りのようなものが見て取れた。
もっとも、それすら演技だっていう可能性もあるわけだけど……。
「それで……僕らが槻島トンネルに行くとして、それがどうだって言うんですか?」
「――止めておきなさい」
冗談なんかじゃない真剣な、しかも威圧感すら漂う表情でエマさんが発したのは……予想外の忠告だった。
いや――それはもう、口調といい、雰囲気といい、命令と表現した方が正しいようなものだ。
「……どうしてですか」
当然、僕はそう問い返す。
それにエマさんは、すぐには答えなかった。
言うべきかどうか迷っている、そんな風に感じられる仕草を交えたしばしの間を置いてから――ようやく口を開く。
「……危険だからよ。
拮抗による時間の停滞が、これほど長引くとはさすがに思わなかったけれど……それでもまだ待つ方が、あそこに足を踏み入れるよりはよほどマシなはずだわ。
――あそこは、この
侵食がこれほど進んでいる状態であんなところへ行くなんて、自ら最悪の悪夢を覗き込むようなものよ」
エマさんのその答えは要領を得ないものの、だけど今の状況にまつわる何かを
だけど……肝心なところがぼやけたままじゃ、忠告を素直に受け止めることなんて出来やしない。
「危険だからっていうのは分かりますけど、その理由が……まるで分かりませんよ。
どういうことなんです、あなたは何を知ってるって言うんですか?
もっと詳しく、分かるように話して下さい!」
「……分かるように?」
言って、エマさんは小さく首を横に振った。
「あなたは分かってる――いえ、
教えてもらっていたのだから」
……教えてもらっていた?
僕が? 何を? 誰に――?
「とにかく、具体的に何が起こるとは私にも言えないわ。
そもそも人間の感覚で理解出来るものかどうかすら定かでない。
……けれど、これだけは言える。あの場所は危険よ。
ただでさえ、表か裏かすら判然としない――薄紙のような体裁さえ保てていないこの世界にあっては、あそこはもはや、裏側そのものかも知れないのだから」
「夢を見なくても――夢に、見られる……?」
何ら自覚することなく――僕の唇は、そんな言葉を紡いでいた。
言ってから、何よりも……僕自身が驚く。
しかしそんな戸惑う僕に構うこともなく、エマさんは頷いた。
「そして人は誰もが、本来いるべきでない領域の中で、その存在を見失う。
けれど――」
彼女は、その青い目を僅かに細める。
それは、僕という存在を見透かすようでいて――なのに、まるで僕を見ていないかのようだった。
――背筋が寒くなる。いや、その程度じゃない……。
骨の髄、そして心底から悪寒が広がって――自分というものが根底から崩れ去っていくような錯覚を覚える。
白く塗り固められた記憶の向こう側――。
沈んでいたはずの、見ることも触れることも許されない禁忌が、蠢く感触。
取り返しのつかないことをしたという、恐怖。
そして……ありもしないのに鼻腔を抜ける、血と死の臭い。
……それらが、僕を満たした悪寒の正体だった。
「けれど、景司くん――。
その場所で、あなただけは……また別に、どうなるか分からない」
思考までが凍り付いたようになる僕に、一語一語、噛み締めて、含めるように……エマさんは、不吉な感触の言葉を告げた。
「僕、だけ……が?
どうして……どうしてなんです――なんで!」
詰め寄っても、エマさんはただ、何かを待つように、観察するように、じっと僕を見つめるだけで――。
結局、諦めと失望がありありと感じられるため息がもれるまで、その唇から言葉が出てくることはなかった。
「――まだ明確な反応は無い、か。
でも、これ以上は……」
「え……」
独り言なのか、そうぼそりと呟いて、エマさんはきびすを返す。
そして、
「……とにかく、槻島トンネルへ行くのだけは止めておきなさい。
いい? これは、あなたたちのためを思って言っているの」
それだけをもう一度言い置いて、この場から立ち去っていった。
その背中に向かって一度は呼び止めたものの、聞き入れられるはずもなく……しかしだからといって後を追ってなおも詰め寄るだけの気力は、僕には無かった。
いや……僕は恐ろしかったのかも知れない。
ただただ、これ以上、僕自身を掻き乱されるような言葉を聞かされるのが……。
「――おい、景司!」
ぼうっとしていたところにいきなり背後から声をかけられて、僕は慌てて振り返る。
――いつの間にやって来ていたのか、そこには泰輔が立っていた。
「あんまりぼけっとしてると危ねえだろ」
「あ、ああ、うん……ごめん」
「気を付けろよ。
――それで……さっきの女は何モンだ?」
エマさんが立ち去った方向を見ながらの泰輔のそんな一言に、思わずびくりとする。
「泰輔、もしかしてさっきの話……聞いてたの?」
恐る恐る――何を恐れているかも分からずに――そう尋ねると。
聞こえているのかいないのか、しばらく視線を動かさずにいた泰輔は……ぽつりと逆に聞き返してきた。
「――話、って?」
「あ、ううん、大したことじゃないんだ。
ただ、さっきの女の人、前にホテルでも一度会って話したことがあるんだけど……槻島トンネルは危険だから行くな、って……」
「どう危険なんだ?」
「それは……よく分からない。
理由を聞いても、要領を得なかったから……」
答えながら、僕はつい視線を逸らしてしまう。
分からなかったのは事実なんだから、嘘をついているわけじゃないのだけど……それでも、どこか後ろめたい。
もしかしたらもう少し掘り下げて尋ねられるかとも思ったのだけど――泰輔は意外なほどあっさりと納得してくれた。
「――そっか。なら
……どのみち、俺たちにはあのトンネルに行くしか道が無いんだから、あまり気にするなよ」
「それだけど、泰輔……。
やっぱり、どうしても行くしかないのかな」
戻ろう、と市庁舎の方へ踏み出す泰輔の背に、僕は思わずそんなことを尋ねていた。
先にみんなで相談したとき、それしかないと納得したはずなのに――エマさんの言葉で、また心が揺れたのだろうか……。
泰輔は、困ったような、不機嫌なような複雑な表情で、そんな僕を振り返った。
「なあ、景司……そりゃあさ、あと何日――いや、何時間かガマンすれば事態が好転するって保証があるなら、行かないって選択もいいだろうさ。
でも、そんなのどこにもないんだ。
そんな状態で、他にあるかどうかも分からない手段を探し続けるなんてことになったら、それこそ、今でも相当参ってる
それに――お前自身が言ったじゃねえか。やれることからやっていこう、ってさ」
……確かにそうだ。
泰輔の言うように、そもそも、希望を追い続けることをみんなに訴えたのは――他ならない僕自身じゃないか。
泰輔は美樹子を例に挙げたけど、彼女はもちろんのこと、僕らも含めて誰もが……いかにこの状況に慣れてしまったとはいえ、さすがに疲れているのは間違いないんだ。
そんな中、ようやく形をもって見えた希望の1つを、どうして手放せるだろう。
それに、危険だと言うけれど……では逆に、今の世界のどこに安全があるというのか。
――やっぱり、選ぶ道は……1つしかないんだ。
僕は、改めて泰輔に頷き返すことで――僕自身の答えとした。