これまで以上に足下に気を付けながら、僕らは……緩やかに地の底まで続くような坂道を、少しずつ先へと進んだ。
物音一つしない、完全に凍り付いたかのような空気の中に――僕らの足音だけが響き渡る。
そうしていると、僕らをすっぽりと包み込む闇は、急に無限の広がりを持っているような気がしてきた。
明かりを向けて初めて、そこに限界が生まれ、世界が形作られていくような……そんな気が。
それが、光源が少なくなったことへの心細さによるものだと、頭では理解していても……踏み出す一歩一歩が、何か別の空間、別の次元、別の世界――そんな場所へ近付いていっているような、静かな恐怖を伴った不安は、どうしても拭い去れない。
いや……それは本当に、ただの杞憂なんだろうか?
この闇は、静寂だけど――どこか、騒がしい気がする。
何かが、潜んでいる気がする。
闇の奥の至るところ……背後、頭上、足下――あらゆる場所に、『何か』の気配を感じるような気がするんだ。
「ねえ、何か……いない?
こっち……見られてるような気が……するよ?」
「気のせいに決まってるだろ。あんまり気にするな」
震える声で訴えた
いや、その真剣極まる口調からして……泰輔自身も、きっと同じような感覚を抱いたんだろう。
その上で、自分自身にも言い聞かせるつもりだったに違いない。
やがて……底に辿り着いたということなのか。
傾斜は終わり、トンネルは平坦になった。
歩きやすくはなったけど、暗闇の重苦しさ、息苦しさは、ますます増したように感じる。
いや、それだけじゃない――。
懐中電灯に照らし出される光景が時折、奇妙に揺らぐ気がする。
頼りないような、儚いような……まるで他の光景に重ねて映し出されているだけのような、そんな不確かな感じが、ふっと意識を過ぎる。
さらには、足下の感覚にも困惑させられるときがあった。
普通に歩いているだけで、しかもきちんと確認しているから何かを踏んだというわけでもないのに……急に足下が何かおぼつかないような、不安定な感覚になる。
そして――それらは、僕だけが感じているわけじゃなかったみたいで。
改めて不吉なことを口に出して言うわけでもないけど、この場の誰もが……急に訝しげに辺りに視線を彷徨わせたり、足を大きく上げたり歩調を変えたりして、奇妙な感覚の正体を探ることがあった。
引き返した方がいいんじゃないか――正直なところ、そう思わないわけでもなかった。
もしかしたら、他にも誰かが同じように考えていたかも知れない。
でも、それでも、僕も含めて誰も引き返そうとは口にせず……僕らは進み続けた。
「これは……」
やがて、先頭を行く泰輔が声をもらして立ち止まる。
その理由は、あえて聞かなくても、懐中電灯の光に浮かび上がるものを見れば一目瞭然だった。
――それは、一面の土砂だ。
天井もろとも崩れ落ちてきたらしい大量の土砂が、通路を完全に埋め尽くしていたのだ。
「掘り返してどうにか、って量じゃないな……。
天井近くなら、小さい穴ぐらいなら何とか開けられるかも知れねえけど……」
土砂の様子を調べ、天井の方を見上げながら、泰輔は唸る。
僕も一緒になって首を傾けていると……後方から、
「――おい、こっち!
ここ通っていけばいいんじゃないかっ?」
呼びかけに応えて、みんなで土砂の山を離れ、岩崎の方へ近付く。
……彼が示しているのは、トンネル側面の壁に、ぽっかりと開いた穴だった。
無理矢理開けられたようなものじゃなく、どうやら作業用か非常用か、詳しい用途は分からないけど……きちんと設計の段階から考慮して作られた、細い脇道らしい。
「なるほど。前に来た人も、さすがにここで引き返したのかと思ったけど……この脇道を通って先に行ったってことね」
そう考えを述べる
きっと、この崩落による行き止まりを理由にして引き返す方がいいんじゃないか、とでも考えていたんだろう。
けれど迂回する道があるなら、先へ進むという僕らの総意――もしかするともう、強制のようになっているのかも知れないけど――を優先するしかない。
僕らは、穴の横幅に合わせて細い列を成して、脇道へ入り込む。
脇道は確かに、真っ直ぐ、土砂に埋もれたその先の方まで続いていたけど……それ以外にも、幾つかの分岐路がトンネル本道とは逆の方へ延びているようだった。
もっとも、僕らの目的はただひたすらに真っ直ぐ進むことだから、それらで迷うようなこともない。
「……え?」
そんな脇道へ入って何歩と歩かないうちに――僕は声を上げる。
いきなり、懐中電灯の明かりが消えたのだ――弱くなるといった前兆などなく、唐突に、しかも全員分すべての明かりが。
慌てて点けなおそうとスイッチをいじっても、まるで反応がない――。
……いや、そんなことよりも……。
僕の背中を、冷たいものが伝い落ちる。
こんな事態になってるのに……誰も、一言も発しないのは、どういうことなんだ……!?
周囲を包む完全な暗闇に向かって、思わずみんなの名を叫びそうになった瞬間――また唐突に、辺りに景色が灯った。
――それは、どこかのホテルの中らしい、赤いカーペットが敷かれた廊下だった。
どこかは……分からない。
パークを脱け出してから待機していた、今回の旅行の宿泊先のホテルでもない。
でも……確かに、見覚えがあった。
近くには窓がある。
外を見ると、夕日に赤く彩られた、一面の雪景色が見えた。
バタバタと慌ただしい足音が、色んな場所から聞こえてきた。
逃げられない、という声が飛び交う。
そして――耳を覆いたくなるような悲鳴が、そこへ幾重にも折り重なった。
血飛沫が舞い、人が倒れる。
恐ろしくなって、逃げ回っても……。
向かう場所向かう場所、あらゆる場所が血に染まり、死で埋め尽くされていた。
窓の外、浮かぶ夕日は、そんな世界を嗤っていた。
――もがく僕らを、嗤っていた。
そんな中で……僕は誰かの手を握っていた。
囁くような声が――女の子の声がした。
『夢を見たんだよ、夢から裏側を見たんだよ。
だから繋がった、見られたんだよ』
『裏側に見られたの。
真っ白でのっぺりな、小さいピエロに見られたの』
『夢に――見られたの。夢を――見られたの』
また血が吹き出し、飛び散った。真っ赤に染まった人が倒れる。
足がもつれた。僕も倒れる。
悲鳴は止まない。
どこもかしこも、何もかもが赤い。
カーペットが赤い、壁の血が赤い、死体が赤い。
夕日が染める世界そのものが、赤い。
――赤い。怖い。赤い、怖い……!
こんな世界から逃れたくて、目をぎゅっとつむったそのとき。
『見たらダメ――見たらダメだよ!』
耳元で、一際大きな声がした。一際大きな声が――
「うわぁっ!?」「きゃあっ!?」
……ハッとなった。
幾つもの声が、狭い空間に反響し、耳を打つ――そう感じた瞬間、暗闇に光が灯る。
――気付けば懐中電灯の光が、細い脇道を照らしていた。
元通りの、古びたトンネルを。
じゃあ……今のは、全部、一瞬のことだった――のか?
「あぁ、びっくりしたあ……。
何だよ、急に……接触不良でも起きたのか?」
岩崎が、訝しげな顔をしながら懐中電灯を振っている。
「接触不良ってそんな、みんながみんな同時に……?」
誰もが、不思議がったり不安そうにしたりするものの……誰も、僕と同じ光景を見てはいないようだった。
――『あなただけは、どうなるか分からない』
市庁舎前で受けた、そんなエマさんの忠告が脳裏を過ぎる――。
「……とにかく、みんな、大丈夫なんだな?」
みんなの無事を確認する泰輔の声に、何とか平静を装って返事を返すも――心臓は早鐘のように鳴り、冷や汗が全身を包み込んでいた。
とりあえずみんなに目立った異常が無いということで、再び僕らは前へと進み……今度は何事もなく脇道から本道へと戻る。
……見たところ、ちょうど上手い具合に土砂崩れの向こうに出られたようだった。
「そこ、また
ちょうど脇道から出てすぐのところに、以前見たものと同じような壁の窪みと、祭られている祠があった。
そこで何かを見つけたらしく、泰輔は一旦しゃがみ込むと……小さな丸い物を拾い上げ、明かりにかざす。
綺麗に丸く削られた小石のように見えたそれは――カタツムリの殻だった。
「何だ……何かと思えばカタツムリの殻かよ。
けど……なあ
場を少しでも和ませようと考えてのことだろう……泰輔はわざとらしく明るい調子でそんなことを言いながら、殻をポケットにしまい込む。
だけど――彼の予想に反して、僕は戸惑うことしか出来なかった。
……何のことか、分からない。
そんな僕の気持ちを表情から察したのだろう……彼は眉を寄せてゆっくりと、諭すように僕に語りかける。
「何だよ、この辺の記憶は事故の影響受けてないはずだろ? 素で忘れてたのか?
――ほら、アイツ気が弱いから、うつむいて小さい声で自己紹介しちまってさ……。
名前をはっきり聞き取れなかったクラスの奴らが、アイツのちょっと鈍くさいところとかけて、俺たちが止めさせるまで、からかって呼んでやがっただろ? そう――」
「! カタツ、ムリ……カタツムリ。
金色の、カタツムリ――!」
――自然と、口がそう言葉を紡いでいた。
今まで思い出さなかったのが不思議なくらい鮮やかに、そのときの情景が頭に浮かぶ。
そうだ……確かにユリは初め、名前がはっきりと言えなくて、そんな風にからかわれていた。
いかにも子供らしい、安直な呼び方だったけど、それがエスカレートして、ノートの名前の欄に落書きとかされて、それで……さすがに見かねた僕らが止めさせたんだ。
それで、僕らはユリと仲良くなったんだ。
でも――どうして。
当のユリにとっては愉快な話じゃないだろうに、どうして彼女がいる前でわざわざそんな話をするんだ……?
「ちょっと泰輔、そんなの、本人がいる前でなんて――」
泰輔に苦言を呈しながら、ユリの様子が気になって、彼女の方へ視線を移そうとしたそのとき――
「イヤアアアアァーーーッ!!」
絶叫としか言えない悲鳴が――トンネル内に響き渡った。