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5.出よう


 ――頭の中が、真っ白になりそうだった。


 鬩ぎ合う頭痛や目眩の代わりに、急に何もない空間が際限なく広がって、すべてを飲み込もうとするかのような――。

 思考にも感情にも見境無く手を伸ばすそれは、きっと、虚無感だ。


 でも、僕の精神は――それが幸運なのか、それとも不運なのかは分からないけれど――何もかもを捨てて空っぽになるのを、まだ受け入れようとはしなかった。

 一度は止まった手をなおも動かして、さらに何かを探し求めようとする。



 ……次が、履歴の最後のようだった。

 『特別監視員の音声記録』とある。



 再生してみるけど、始まりは完全なノイズだった。

 機械の不調か、それとも何か他の原因があるのか……聞けるものじゃないのかと思ったものの、しばらくするとノイズは薄れて――ザーザーと耳障りな音の中に、聞き覚えのある人の声が現れる。


《……つまりあなたは、あのとき、私と彼の話を聞いていたということね?》


 これは――そう、エマさんの声だ。

 そして、それに答えるのは――


《ああ。……やっぱり、アイツ――》


 たとえもっとノイズに掻き乱されていても、聞き間違えるはずなんてなかっただろう。

 それは――泰輔たいすけの声だった。


《アイツだけが、何か特殊なんだな? 普通とは違うんだな?

 アンタとアイツの話からしても、アイツだけ夢を見ても大丈夫なのは……アイツがこの状況と、何らかの関係があるからなんだろう?

 そしてアンタがこうして距離を置いてアイツを観察しているのも、そのためなんじゃないのか?

 ――話せよ。

 お互い、こんな状況を生き延びるには……情報を共有して協力する方がいいだろう? 

 アンタだって、この間わざわざアイツと接触したのは、このまま見ているだけじゃどうしようもないと踏んだからじゃないのか?》


 少しの間を置いて、ため息のようなものが聞こえた。エマさんだろう。



《思っていた以上に頭が働くみたいね、あなた。

 ……そう、あなたの言う通りよ。

 彼は……一般に雪崩とされている鹿毛鳥山かげとりやまの事故のとき、今と同じ状況に遭遇しているの。

 その際、我々が裏側と呼んでいる存在――そう、あなたも薄々勘付いているようだけど、簡単に言って、この事態を引き起こしている原因のようなものね――その裏側の干渉を受けて彼は、一度変質しているのよ……。


 あなたたちもこれまで散々に見てきた、へと。


 そして、事態が収束した後……彼一人だけが、その変質した状態のまま、しかも生きて発見されたわ。

 その後、我々で保護し、しばらく様子を見た結果……常人と変わりない状態にまで戻ったと判断されたから、平穏な生活に不適切な記憶は事故の影響として封印した上で、社会復帰させたの。

 もちろん、彼は非常に稀なケースだから、経過観察は続けていたわ……生活に干渉しない程度にね。

 そしてこれまでは何事も無かったのだけれど……彼は今回、裏側の影響が他所より大きいと危険視されている、この鐘目島かなめじまに来ることになってしまった。

 それで、私のように直接監視する人員まで派遣されることになったのよ――万が一のときの対処のために》



《万が一のとき……ね。

 で、結局――アンタの言う『我々』ってのは何者なんだよ?》


《そうね――簡単に言えば研究機関、かしら。裏側についての》


《……は? 研究?

 ハハハッ、アレをか? アレを研究するだって? クソったれな冗談だ――まったく。

 ふん……まあいい。

 とにかく、アイツが元に戻ったかに見えたのは表面上だけで……実際はまるで違ったってわけだ。

 もし、アイツに本当にユリが見えているとしたら……いないはずの人間が見えているとしたら、それも、この島に来たせい、裏側ってやつのせいかも知れないわけだ。

 アイツの中に残ってると、大元の裏側が影響しあった結果が……今の、この状況かも知れないってわけだ》


《……恐らく、としか言えないけれど。

 あなたが笑うように、裏側というのは研究したところでおいそれと解明出来るものではないから。

 しかしだからこそ、状況を把握するためにも、彼を観察し続ける必要があるのよ》


《そうは言っても、多少なりと予測はしていたんだろう?

 だが――事態は、アンタらが想像していたよりもはるかに悪いものになっちまった。

 だから実際に現場の真っ直中にいるアンタは、何とか状況を打開する糸口にならないかと、現場判断ってやつでアイツに思わせぶりなことを言って、反応を窺ってたってわけだ》


《そういうこと。

 ……さあ、これだけ話したのだから、納得してもらえたでしょう?

 生きてこの状況を抜け出す、その手掛かりを得るためにも……これからは私に協力して、彼の観察を――ッ!?》


 ――パァン!


 ノイズ混じりの音声の合間、いきなり響いた乾いた炸裂音に、思わず身を竦ませる。

 その後、聞こえてきたのは……静かな怒気をはらんだ、泰輔の声だった。


《――馬鹿言ってんじゃねえ。

 結局……程度の差はどうあれ、こうした状況になること、それ自体がお前らの望みだったんだろうが。

 そんなヤツらと、誰が協力なんてするかよ。――甘く見んな》


 そこから先は、しばらくノイズが続いただけで……音声記録は終わっていた。


 だけど、良く見れば――。

 この音声記録が最後と思われた資料閲覧履歴のあとさらに、長い空白を空けて……前の論文のときのような、後から書き加えたらしいメッセージが残されていた。




   『見てるんだろう、景司けいじ?』


   『後ろだ』




 思わず弾かれたように顔を上げて、背後を振り返る。


 そこ――ちょうど入り口ドアの脇にあたる壁には、簡単な連絡に使うらしい、小さなタッチパネル式のディスプレイがかけられていた。


 その画面上には今日の日付と、『特別対策室室長、モニター室にて実験を見学』との走り書きがあり……さらにその文中のモニター室という単語から、下に矢印が伸ばされて、今居るこの場所からの行き方が簡単な地図で記されている。


 それを見て取るや、僕は部屋を飛び出していた。

 死体が幾重にも折り重なる、天井も壁も血に塗れた廊下を駆け抜け……描かれてあった通りの場所に向かう。



 ――果たしてそこには……確かに『モニター室』と銘打たれたドアがあった。

 鍵は――かかっていない。


 入ってみると、中はここだけ……まさについ今まで何かを視聴していたみたいに薄暗くて。

 その名の通り、壁一面を使った大きなモニターと、それを取り囲むように居並ぶPCのディスプレイの白い光が、ぼんやりと室内を照らし出していた。


 部屋の奥には、何人か、明らかに他とは違うスーツ姿の男の死体が倒れているのが見える。

 あの中の誰かが、ホワイトボードにあった、特別対策室室長――だろうか。


 部屋の中程まで足を踏み入れたとき、ディスプレイが並ぶデスクの上に、真空パックに使うようなビニールを思わせる袋と……もとはその袋に入っていたらしい、見覚えのある薄汚れたノートが置いてあることに気付いた。


 袋には、『参考資料○七番』とタグが付けられている。

 そして、ノートの方は――。


 手にとって、パラパラとめくってみる。



 ――間違いない……。

 僕自身があの異変の中で、日記代わりにつけていたものだった。


 そう――決定的な、物的証拠だ。

 あれが、あの出来事が――現実で、事実だったという……。



 何か、抜け殻のような気分になって……手にしていたノートをデスクに戻す。


 そのとき目に止まったのは、側のディスプレイに表示されている項目だった。



  《監視カメラ映像 20XX/06/XX》



 ……どうやら、記憶再生実験とやらの様子を流していたこのモニター室の、監視カメラの映像らしい。

 見たところ、普通のPCと同じようにマウスで操作出来るようなので、再生してみる。


 ――資料室のメッセージは恐らく……ノートだけでなく、この映像のことも指していたのだろうから。


 再生された映像は、ちょうど実験を中断しているところなんだろうか――真っ白いままのモニターを前に、スーツ姿の男たちと、白衣の男たちが何ごとかを話し合っている場面から始まった。



《……唐津 ユリを、自らの心情の自己確認のように、矛盾が生じない程度に知覚していることについては、幾つかの資料とも符合しますし、裏側の影響ということで、記憶としては問題ないでしょう。

 が……予測の範疇ではあるものの、やはり『記憶』という関連性には、封印させていたさらに過去の記憶まで引きずられています。

 それが、幻覚という形で表れているあたり……少し混濁が見られますね。どうしますか?》


《些少だ。構うことはない》


 まだ若い白衣の男の問いに、責任者らしい、同じく白衣の初老の男が首を横に振る。

 加えて、あのノートに目を通していたスーツ姿の男が、それをデスクの上に放って初老の男に同意した。


《資料とも概ね一致する。問題は感じられない》


 さらに、他のスーツの男たちが、その一言に続いていく。


《下手に余計な手を入れるのは、却って良くないのでは?》


《その通りだ。変わってしまっては意味がない》


《その通りだ。大変貴重なのだ》


《その通りだ。失うわけにはいかん》


 初めに発言していた若い男は、異口同音に実験の続行を促した全員を見渡した後、一礼して席に戻り、キーボードを操作し始める。


《――では、続行します》


 そのときだった。

 ドアが荒々しく開かれたかと思うと、また別の白衣の男が駆け込んでくる。


《何だ、騒々しい!》


 苛立たしげに、怒声を向ける初老の男。

 ドアが開かれたせいだろう、バックでは、廊下を他の人間たちが走り回っているらしい騒がしい音が聞こえている。


《……大変です、休憩室の方で、職員が――!》


 初老の男の剣幕に、息を整え、白衣の男が答え始めたその瞬間。

 ――ぶつりと、映像は途切れた。



 真っ暗になったディスプレイは、それ以上何も映し出そうとはしない。


 でも僕は……それを惜しいなどとは思わなかった。



 ……外に、出よう――。



 ただ、それだけを考えた。

 もうこれ以上ここにいたら、本当に頭がどうにかなってしまいそうだったから。



 いい加減、真っ当な景色が見たかった。

 狂っていない光景を見たかった。

 あるがままの本来の世界を見たかった。

 銀色に輝く月を見たかった。瞬く星を見たかった。


 ……夢でも現実でも、どっちでもいい。

 ただ、普通に移り変わる空を――見たかった。



 ――出ると決意して周囲を見渡せば、案内のようなものはいくらでも見つかった。

 僕は色んな場所にあるそれを逐一確認しながら、出口へ向かって足早に進む。


 初めに気が付いた場所は、どうやら地下だったらしい。


 死体を踏み越えながら辿り着いた長い階段を上り、地上階へ出ると……疲れ切っていた足に喝を入れて、まだ続く白い廊下を一気に駆け抜け――。

 そして勢いのまま、外への非常口となっている両開きの扉を体当たり気味に押し開く。



 ……勢い余って、たたらを踏む。


 ようやく外に出た僕を包んだのは――目を刺すばかりの、まばゆい光だった。



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