『来るな!!』
子どもの叫び声が、鋭く空間を切り裂く。
懐中電灯の光がぶれた。
そして――ガチャン!
錆びた金属トレイが宙を舞い、鋭い音を立てて美琴の肩を打った。
「っ……!」
美琴は避けなかった。
衝撃で肩が小さく震えたけど、そのまままっすぐ影を見つめていた。
「美琴!?」
思わず声を上げて、一歩踏み出す。
光が美琴の腕を照らすと、彼女は軽くそれを押さえ、首を横に振った。
「大丈夫です、少し……痛いだけですから。」
落ち着いた、驚くほどやさしい声だった。
「心配しないでくださいね。」
ふっと、ほんの少しだけ微笑む。
その笑顔が、空気の重さをわずかにほどいていく。
そのとき――
『ここ……せいやの場所なのに……なんで……?』
誠也がこちらを睨んだ。
声は震えていて、怒りと寂しさが絡まったようだった。
『せいや……悪いことしてないよ。ただ……待ってるだけなのに……』
小さな肩が揺れていた。
その言葉が、部屋全体に染み込むように響く。
美琴がゆっくりと膝をついた。
誠也の目線まで降りて、そっと視線を合わせる。
「君が寂しかったの、私たちわかってるよ。」
その言葉には、彼を想う心…あたたかさが宿っていた。
冷たい空気の中で、やさしく芯を持って届く声…。
「お兄ちゃんも、お父さんも、お母さんも……みんな君のことを想ってた。」
美琴はボロボロな木彫りの犬の人形を、そっと差し出した。
「これ、君のお兄ちゃんが作ったんだ。君に届けたかったんだよ。」
張りつめていた空気が、すこしずつ緩んでいく。
誠也の影が揺れ、ぽつりと、かすれた声がこぼれる。
『…これを…お兄ちゃんが?』
美琴がやさしくうなずいた。
「うん。お兄ちゃんはね、君のために作ったんだ。
君のこと、ずっと忘れてなかったよ。」
ぽたっ――
誠也の目から涙が一粒、静かに落ちた。
その光景を見ながら、僕は気づいた。
美琴はただ言葉をかけてるんじゃない。
彼女は“誠也という存在”に、ちゃんと向き合ってる。
目線を合わせて、心を寄せて、まるで……
……まるであの時の母さんのように。
十年前、母さんもこんなふうに、霊に寄り添っていた。
怖がるでもなく、否定するでもなく。
ただ、そこに“ひとりの人”として関わっていた。
――美琴は、まさに今、それをやってる。
気づくと、美琴が僕のほうを見て、ふっと笑った。
「誠也くん、落ち着いてくれましたね。」
やさしく、静かな声だった。
そして、僕に目を向けて言う。
「先輩。ちゃんと、この子のことを見てあげてください。」
「……」
言葉が、うまく出なかった。
でも、美琴の言うとおりだ。
今だけは――この子を“霊”じゃなく、“ひとりの子ども”として見る。
「…お兄ちゃん……」
誠也が、そっと木彫りの犬に触れた。
細くて冷たい指先が、そっと撫でる。
『……お兄ちゃん……お父さん……お母さん…会いたいよぉ…。』
その声には、ぽっかりと空いた心の穴が滲んでいた。
美琴が、そっと寄り添う。
そして、優しくその肩に手を添えた。
「みんな……君を待ってるよ。暖かい場所で。」
彼女の言葉が、手術室の冷たさを静かに溶かしていく。
僕も、自然と口を開いていた。
「君がここにいたこと、ちゃんと感じたよ。」
誠也の瞳が、かすかに揺れる。
「君のお兄ちゃんたちが、君に会いたがってる。……私、ちゃんと知ってるから。」
美琴の声に、嘘はなかった。
それを聞いて、誠也の輪郭が淡く揺れはじめる。
「先輩。……私たちで、この子を送りましょう。」
美琴が、やさしく微笑んだ。
「……うん。」
僕も、静かにうなずく。
「……その前に、やりたいことがあるよね?」
美琴が誠也に向き直り、そっと問いかけた。
誠也の目が、ほんの少しだけ光を帯びた。
そして、ぽつりとつぶやく。
『……せいや、遊びたい。』
その一言に、僕の胸の奥で何かが弾けた。
そうだ――
この子は、ずっと一人だったんだ。
誰にも気づかれず、誰とも話せず。
ただ、暗いこの病院で、ずっと“待って”いた。
家族が迎えに来るのを、信じて。
そのまま霊になって、ここに縛られていたんだ。
「……かくれんぼ、しよう。」
僕は静かに言った。
美琴が、ふっと笑う。
「ふふ、いいですね。
先輩と私で、誠也君のことを見つけるからね。」
その言葉に、誠也が小さく笑った。
それは、たぶん――
ようやく“子ども”としての時間が戻った、小さな、小さな笑顔だった。