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十一話 母の面影


『来るな!!』


子どもの叫び声が、鋭く空間を切り裂く。

懐中電灯の光がぶれた。


そして――ガチャン!


錆びた金属トレイが宙を舞い、鋭い音を立てて美琴の肩を打った。


「っ……!」


美琴は避けなかった。

衝撃で肩が小さく震えたけど、そのまままっすぐ影を見つめていた。


「美琴!?」


思わず声を上げて、一歩踏み出す。

光が美琴の腕を照らすと、彼女は軽くそれを押さえ、首を横に振った。


「大丈夫です、少し……痛いだけですから。」


落ち着いた、驚くほどやさしい声だった。


「心配しないでくださいね。」


ふっと、ほんの少しだけ微笑む。

その笑顔が、空気の重さをわずかにほどいていく。


そのとき――


『ここ……せいやの場所なのに……なんで……?』


誠也がこちらを睨んだ。

声は震えていて、怒りと寂しさが絡まったようだった。


『せいや……悪いことしてないよ。ただ……待ってるだけなのに……』


小さな肩が揺れていた。

その言葉が、部屋全体に染み込むように響く。


美琴がゆっくりと膝をついた。


誠也の目線まで降りて、そっと視線を合わせる。


「君が寂しかったの、私たちわかってるよ。」


その言葉には、彼を想う心…あたたかさが宿っていた。

冷たい空気の中で、やさしく芯を持って届く声…。


「お兄ちゃんも、お父さんも、お母さんも……みんな君のことを想ってた。」


美琴はボロボロな木彫りの犬の人形を、そっと差し出した。


「これ、君のお兄ちゃんが作ったんだ。君に届けたかったんだよ。」


張りつめていた空気が、すこしずつ緩んでいく。


誠也の影が揺れ、ぽつりと、かすれた声がこぼれる。


『…これを…お兄ちゃんが?』


美琴がやさしくうなずいた。


「うん。お兄ちゃんはね、君のために作ったんだ。

君のこと、ずっと忘れてなかったよ。」


ぽたっ――


誠也の目から涙が一粒、静かに落ちた。


その光景を見ながら、僕は気づいた。

美琴はただ言葉をかけてるんじゃない。

彼女は“誠也という存在”に、ちゃんと向き合ってる。


目線を合わせて、心を寄せて、まるで……


……まるであの時の母さんのように。


十年前、母さんもこんなふうに、霊に寄り添っていた。

怖がるでもなく、否定するでもなく。

ただ、そこに“ひとりの人”として関わっていた。


――美琴は、まさに今、それをやってる。


気づくと、美琴が僕のほうを見て、ふっと笑った。


「誠也くん、落ち着いてくれましたね。」


やさしく、静かな声だった。


そして、僕に目を向けて言う。


「先輩。ちゃんと、この子のことを見てあげてください。」


「……」


言葉が、うまく出なかった。

でも、美琴の言うとおりだ。

今だけは――この子を“霊”じゃなく、“ひとりの子ども”として見る。


「…お兄ちゃん……」


誠也が、そっと木彫りの犬に触れた。

細くて冷たい指先が、そっと撫でる。


『……お兄ちゃん……お父さん……お母さん…会いたいよぉ…。』


その声には、ぽっかりと空いた心の穴が滲んでいた。


美琴が、そっと寄り添う。

そして、優しくその肩に手を添えた。


「みんな……君を待ってるよ。暖かい場所で。」


彼女の言葉が、手術室の冷たさを静かに溶かしていく。


僕も、自然と口を開いていた。


「君がここにいたこと、ちゃんと感じたよ。」


誠也の瞳が、かすかに揺れる。


「君のお兄ちゃんたちが、君に会いたがってる。……私、ちゃんと知ってるから。」


美琴の声に、嘘はなかった。

それを聞いて、誠也の輪郭が淡く揺れはじめる。


「先輩。……私たちで、この子を送りましょう。」


美琴が、やさしく微笑んだ。


「……うん。」


僕も、静かにうなずく。


「……その前に、やりたいことがあるよね?」


美琴が誠也に向き直り、そっと問いかけた。


誠也の目が、ほんの少しだけ光を帯びた。

そして、ぽつりとつぶやく。


『……せいや、遊びたい。』


その一言に、僕の胸の奥で何かが弾けた。


そうだ――

この子は、ずっと一人だったんだ。

誰にも気づかれず、誰とも話せず。

ただ、暗いこの病院で、ずっと“待って”いた。


家族が迎えに来るのを、信じて。


そのまま霊になって、ここに縛られていたんだ。


「……かくれんぼ、しよう。」


僕は静かに言った。


美琴が、ふっと笑う。


「ふふ、いいですね。

先輩と私で、誠也君のことを見つけるからね。」


その言葉に、誠也が小さく笑った。


それは、たぶん――

ようやく“子ども”としての時間が戻った、小さな、小さな笑顔だった。



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