目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

十二話 かくれんぼ

「かくれんぼなら……ここでできるよね?」


僕がそっと言うと、美琴が小さく笑って、頷いた。


「ふふ、いいですね。先輩と私で探しますよ。」


誠也の影がふわりと揺れた。

無邪気な笑顔が浮かび、小さな声が響く。


「じゃあ……誠也、隠れるね!」


カタ、カタ……

小さな足音が遠ざかり、影は薄闇に溶けていく。


静寂が戻った廃病院の中で、僕たちはゆっくりと立ち上がった。

懐中電灯の光が床をなぞり、埃が柔らかく舞い上がる。


「……もう、隠れたかな?」


僕がつぶやくと、美琴が首をかしげて微笑んだ。


「もう少しだけ待っててくださいね。先輩、せっかちです。」


その穏やかな声に、さっきまで張り詰めていた空気が、ふっと和らぐ。


“かくれんぼ”――

それは、誠也が望んだ、たったひとつの願い。


家族を待ち続けて、どれだけの時間をここで過ごしたんだろう。

暗くて冷たいこの病院で、ただひとり……名前を呼ばれるのを待っていた。


そう思うと、胸がきゅっと締めつけられる。


「美琴……その人形だけど」


僕が声をかけると、美琴は手にした人形を、宝物のように優しく撫でた。


「この人形は……桜織市の外れの道路で拾いました」


静かな声が、闇に溶けていく。


「誠也君のご両親は、その当時、彼の医療費を稼ぐために共働きをしていたそうです。

50年前と言えば、結核は治らない病気で……。それでも、必死にお金を集めていたんです」


「ようやく三人そろって、お見舞いに来られる……そんな日でした」


美琴の声がほんの少し震える。


「でも……その道中、対向車がスピードを出しすぎていて……。誠也君のご家族の車と、正面からぶつかりました」


「みなさん……その場で、命を落とされたそうです」


言葉を失う。

喉の奥がひゅっと狭くなったような感覚がする。


「事故にあってからも、ご家族は助けを求めて彷徨っていて……。ちょうど私がその場所を通ったとき、声が届いたんです」


「もう……存在を保てないほど弱っていました。まるで……祈るような想いで、すがるように」


「そんな……」


僕は言葉を飲み込んだ。

胸の奥に、鉛のような重さが広がっていく。


「……そして、この人形ですが」


美琴はふと、視線を人形へと落とした。


「夕暮れ時、事故現場だった草むらに転がっていたんです。

衝撃で車の外に投げ出されて……誰にも気づかれず、何年もそこに眠っていました」


「私がそれを見つけたとき、お兄ちゃんの霊が『誠也に渡してください』とお願いしてきたんです。」


美琴の瞳が、静かに潤む。


「だから私は……この人形を、どうしても届けたかったんです」


「……それを拾って、ここに来たんだね」


僕が言うと、美琴は小さく頷いた。


「だけど……誠也君の家族が、気の毒だ……」


そう呟くと、


「……ですよね。でも、もう大丈夫です。私が、彼らを成仏させてきましたから」


力強く、それでいて穏やかに、彼女は言い切った。


「……良かった」


胸の奥が、少しだけ、温かくなった気がした。


「……じゃあ、僕、倉庫の方を探してみるよ。」


「お願いします。」


美琴がそっと微笑んだ。


――


倉庫の扉を開けた瞬間、ほこりっぽい空気とともに、倒れた人影が目に入る。


「……っ!」


クラスメイトの3人は、ぐったりと気を失っていた。

翔太だけが、かすかにうめき声を上げている。


「翔太……」


名前を呼びながら、僕は立ち尽くした。


安堵と不安が交差する中、視線は廊下の先へ向く。


(……今は、誠也が優先だ)


心の中でそうつぶやいて、僕はもう一度振り返った。


「……後で必ず戻るから。待ってて。」


翔太にそう伝えて、僕は再び廊下へと戻った。


――


院長室の扉を開けると、月明かりが静かに差し込んでいた。

茶色のデスクが壁際に置かれ、その左手、窓の前には黒いソファーがある。


そのソファーに、美琴が座っていた。

誠也の小さな頭が、そっと彼女の膝にのっている。


彼女の指先が、誠也の髪をゆっくりと撫でていた。

その手つきは、どこまでも穏やかで――まるで母親のようだった。


誠也の影は、ふわりと揺れながら、木彫りの犬を胸に抱えている。

その表情は、ようやく安心したように静かだった。


机の上には、一枚の似顔絵が置かれている。

『じいちゃん』と書かれた、丸く笑った顔が描かれていた。


「……誠也、お父さん…お母さん…お兄ちゃんに…会いたい……」


その囁きは、やわらかな月光に溶けていった。


美琴が、そっと語りかける。


「うん。きっと、会えるよ。でもね、今は……少しだけ、休もう。」


その優しい声に、誠也は小さく頷いた。

輪郭がゆっくりと淡くなり、光の粒のように溶けていく。


眠るように。

夢を見るように。

家族のもとへ、帰るように。


僕は、その光景をただ見つめていた。


母さんが霊に寄り添った、あの日の姿。

今、目の前で美琴が――その姿と重なって見えた。


まだ、かくれんぼは終わっていない。

でも今は、この静かであたたかな時間を、ちゃんと見届けたいと思った。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?