「かくれんぼなら……ここでできるよね?」
僕がそっと言うと、美琴が小さく笑って、頷いた。
「ふふ、いいですね。先輩と私で探しますよ。」
誠也の影がふわりと揺れた。
無邪気な笑顔が浮かび、小さな声が響く。
「じゃあ……誠也、隠れるね!」
カタ、カタ……
小さな足音が遠ざかり、影は薄闇に溶けていく。
静寂が戻った廃病院の中で、僕たちはゆっくりと立ち上がった。
懐中電灯の光が床をなぞり、埃が柔らかく舞い上がる。
「……もう、隠れたかな?」
僕がつぶやくと、美琴が首をかしげて微笑んだ。
「もう少しだけ待っててくださいね。先輩、せっかちです。」
その穏やかな声に、さっきまで張り詰めていた空気が、ふっと和らぐ。
“かくれんぼ”――
それは、誠也が望んだ、たったひとつの願い。
家族を待ち続けて、どれだけの時間をここで過ごしたんだろう。
暗くて冷たいこの病院で、ただひとり……名前を呼ばれるのを待っていた。
そう思うと、胸がきゅっと締めつけられる。
「美琴……その人形だけど」
僕が声をかけると、美琴は手にした人形を、宝物のように優しく撫でた。
「この人形は……桜織市の外れの道路で拾いました」
静かな声が、闇に溶けていく。
「誠也君のご両親は、その当時、彼の医療費を稼ぐために共働きをしていたそうです。
50年前と言えば、結核は治らない病気で……。それでも、必死にお金を集めていたんです」
「ようやく三人そろって、お見舞いに来られる……そんな日でした」
美琴の声がほんの少し震える。
「でも……その道中、対向車がスピードを出しすぎていて……。誠也君のご家族の車と、正面からぶつかりました」
「みなさん……その場で、命を落とされたそうです」
言葉を失う。
喉の奥がひゅっと狭くなったような感覚がする。
「事故にあってからも、ご家族は助けを求めて彷徨っていて……。ちょうど私がその場所を通ったとき、声が届いたんです」
「もう……存在を保てないほど弱っていました。まるで……祈るような想いで、すがるように」
「そんな……」
僕は言葉を飲み込んだ。
胸の奥に、鉛のような重さが広がっていく。
「……そして、この人形ですが」
美琴はふと、視線を人形へと落とした。
「夕暮れ時、事故現場だった草むらに転がっていたんです。
衝撃で車の外に投げ出されて……誰にも気づかれず、何年もそこに眠っていました」
「私がそれを見つけたとき、お兄ちゃんの霊が『誠也に渡してください』とお願いしてきたんです。」
美琴の瞳が、静かに潤む。
「だから私は……この人形を、どうしても届けたかったんです」
「……それを拾って、ここに来たんだね」
僕が言うと、美琴は小さく頷いた。
「だけど……誠也君の家族が、気の毒だ……」
そう呟くと、
「……ですよね。でも、もう大丈夫です。私が、彼らを成仏させてきましたから」
力強く、それでいて穏やかに、彼女は言い切った。
「……良かった」
胸の奥が、少しだけ、温かくなった気がした。
「……じゃあ、僕、倉庫の方を探してみるよ。」
「お願いします。」
美琴がそっと微笑んだ。
――
倉庫の扉を開けた瞬間、ほこりっぽい空気とともに、倒れた人影が目に入る。
「……っ!」
クラスメイトの3人は、ぐったりと気を失っていた。
翔太だけが、かすかにうめき声を上げている。
「翔太……」
名前を呼びながら、僕は立ち尽くした。
安堵と不安が交差する中、視線は廊下の先へ向く。
(……今は、誠也が優先だ)
心の中でそうつぶやいて、僕はもう一度振り返った。
「……後で必ず戻るから。待ってて。」
翔太にそう伝えて、僕は再び廊下へと戻った。
――
院長室の扉を開けると、月明かりが静かに差し込んでいた。
茶色のデスクが壁際に置かれ、その左手、窓の前には黒いソファーがある。
そのソファーに、美琴が座っていた。
誠也の小さな頭が、そっと彼女の膝にのっている。
彼女の指先が、誠也の髪をゆっくりと撫でていた。
その手つきは、どこまでも穏やかで――まるで母親のようだった。
誠也の影は、ふわりと揺れながら、木彫りの犬を胸に抱えている。
その表情は、ようやく安心したように静かだった。
机の上には、一枚の似顔絵が置かれている。
『じいちゃん』と書かれた、丸く笑った顔が描かれていた。
「……誠也、お父さん…お母さん…お兄ちゃんに…会いたい……」
その囁きは、やわらかな月光に溶けていった。
美琴が、そっと語りかける。
「うん。きっと、会えるよ。でもね、今は……少しだけ、休もう。」
その優しい声に、誠也は小さく頷いた。
輪郭がゆっくりと淡くなり、光の粒のように溶けていく。
眠るように。
夢を見るように。
家族のもとへ、帰るように。
僕は、その光景をただ見つめていた。
母さんが霊に寄り添った、あの日の姿。
今、目の前で美琴が――その姿と重なって見えた。
まだ、かくれんぼは終わっていない。
でも今は、この静かであたたかな時間を、ちゃんと見届けたいと思った。