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十三話 誠也の記憶

院長室の中に、静かな闇が広がっていた。

割れた窓から滲む月明かりが、白い光となって床を照らしている。


その光の中で、誠也の影がふわりと揺れていた。


美琴はソファに腰かけ、膝の上で誠也の髪を静かに撫でていた。

指先が影に触れ、ゆるやかに揺れる空気に、彼女の祈りのような温もりが漂っていた。


「先輩、こちらへ。」


美琴が振り返り、穏やかな声で僕を呼ぶ。


僕は頷いて、彼女の隣に腰を下ろした。

冷たい床から、じんわりと夜の気配が染み込んでくる。


「目を閉じてください。」


その一言に従って目を閉じると――

額に、やわらかい温かさが触れた。


その感覚は、どこか懐かしくて、静かに心を包んでくる。


ドクン……。


胸の奥で、何かが脈打った。


美琴の声が、深い闇にやさしく響く。


「刻還しの響(ときかえしのひびき)……汝、過ぎし時の断影よ。

我が静かなる祈りに応え、魂の記憶を映せ。」


淡く赤い光が僕の事を包んだ。


その光に包まれて、誠也の記憶が、静かに流れ出した――



【誠也の記憶】


車の中。

後部座席に座る誠也が、窓の外をじっと見つめていた。


「ごめんね、誠也。お母さんたちも頑張るから……誠也も、頑張ってね」


「うん!」


明るく返事をしながら、誠也は小さな手で母の服の袖をきゅっと握る。


「お母さん……誠也、早く元気になりたい」


かすかに震えた声。

母親はそっと、誠也の髪を撫でてくれた。


「うん、大丈夫。きっとなるよ。誠也は、強い子だから」


優しい声が、車内に静かに満ちていく。


誠也は窓に顔を寄せ、遠くの空を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。


「……お兄ちゃんに、会いたいな……」



やがて車が病院の前で止まる。

灰色の建物が目の前に現れ、誠也は母の手をぎゅっと握った。


不安を含んだ声に、母親は笑顔をつくって答える。


「ここで誠也が元気になるの。きっと、ここなら治してくれるよ」


冷たい風の中で、誠也は車を降りた。

父親が荷物を持ち、病院の扉が近づいてくる。


「……すぐ、帰れるよね?」


「うん。すぐだよ」


母親はしゃがみ込み、誠也の目線に合わせて優しく抱きしめた。


父親も荷物を置き、誠也の頭を撫でる。


「帰ってきたら……また釣りに行こうな」


そう言った父の声は、どこか頼りなさを含んでいた。


そのとき、白衣を着た中年の男性が病院の扉から出てくる。


両親はその医者に深く頭を下げた。


「どうか……よろしくお願いします」


「手を尽くします」


医者が静かに頷き、微笑む。


誠也の手を取り、病院の中へと歩き出す。

扉が閉まる、その瞬間。


誠也は立ち止まり、寂しげな声でつぶやいた。


「お母さん……お父さん……」


母親が小さく手を振る。

その姿が遠ざかり、扉の向こうへと消えていった。



廊下の奥、誠也は影に身を潜め、こっそりと会話を聞いていた。


「……状況は、あまり良くありません」


院長の低い声。

母親が、その場に崩れ落ちる。


「どうして……どうして誠也が……」


涙が床に落ち、静かな音が広がった。


父親が、震える母の背を支える。


誠也は、遠くからそれを見つめながら、壁に寄りかかってつぶやく。


「……誠也、悪い子だったのかな……?」


その声は、暗い廊下の中へと、静かに溶けていった。


「……頑張るから。お母さん、泣かないで……」


小さな手が膝を抱きしめ、堪えていた涙が、頬をつたう。



病室。

誠也は、弱った体でベッドに横たわっていた。


白衣の男性が、口を重たく開く。


「誠也君……家族が、事故に……」


その言葉に、誠也の瞳がゆっくりと開く。


「……え……?」


男性は目を伏せ、何も言えずにいた。


誠也の手が、シーツを握りしめる。


「じいちゃん……嘘……だよね……?」


「…………」


沈黙の中、医者はただ立ち尽くしていた。


「お兄ちゃん……お母さん……お父さん……誠也、会いたいよ……!」


声が震える。

怒りと悲しみが混ざって、喉の奥がかすれる。


「なんで……どうして……! ひとりにしないでよ……!」


枕に顔を埋め、泣きじゃくる声が病室の空気に滲んでいく。


「じいちゃん……誠也、さみしいよ……」


それが、誠也の最後の言葉だった。


呼吸が、静かに途切れる。


「誠也君……? 誠也君……!」


“じいちゃん”と呼ばれていた白衣の男性の声が、かすれながら遠のいていく。

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