院長室の中に、静かな闇が広がっていた。
割れた窓から滲む月明かりが、白い光となって床を照らしている。
その光の中で、誠也の影がふわりと揺れていた。
美琴はソファに腰かけ、膝の上で誠也の髪を静かに撫でていた。
指先が影に触れ、ゆるやかに揺れる空気に、彼女の祈りのような温もりが漂っていた。
「先輩、こちらへ。」
美琴が振り返り、穏やかな声で僕を呼ぶ。
僕は頷いて、彼女の隣に腰を下ろした。
冷たい床から、じんわりと夜の気配が染み込んでくる。
「目を閉じてください。」
その一言に従って目を閉じると――
額に、やわらかい温かさが触れた。
その感覚は、どこか懐かしくて、静かに心を包んでくる。
ドクン……。
胸の奥で、何かが脈打った。
美琴の声が、深い闇にやさしく響く。
「刻還しの響(ときかえしのひびき)……汝、過ぎし時の断影よ。
我が静かなる祈りに応え、魂の記憶を映せ。」
淡く赤い光が僕の事を包んだ。
その光に包まれて、誠也の記憶が、静かに流れ出した――
⸻
【誠也の記憶】
車の中。
後部座席に座る誠也が、窓の外をじっと見つめていた。
「ごめんね、誠也。お母さんたちも頑張るから……誠也も、頑張ってね」
「うん!」
明るく返事をしながら、誠也は小さな手で母の服の袖をきゅっと握る。
「お母さん……誠也、早く元気になりたい」
かすかに震えた声。
母親はそっと、誠也の髪を撫でてくれた。
「うん、大丈夫。きっとなるよ。誠也は、強い子だから」
優しい声が、車内に静かに満ちていく。
誠也は窓に顔を寄せ、遠くの空を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……お兄ちゃんに、会いたいな……」
⸻
やがて車が病院の前で止まる。
灰色の建物が目の前に現れ、誠也は母の手をぎゅっと握った。
不安を含んだ声に、母親は笑顔をつくって答える。
「ここで誠也が元気になるの。きっと、ここなら治してくれるよ」
冷たい風の中で、誠也は車を降りた。
父親が荷物を持ち、病院の扉が近づいてくる。
「……すぐ、帰れるよね?」
「うん。すぐだよ」
母親はしゃがみ込み、誠也の目線に合わせて優しく抱きしめた。
父親も荷物を置き、誠也の頭を撫でる。
「帰ってきたら……また釣りに行こうな」
そう言った父の声は、どこか頼りなさを含んでいた。
そのとき、白衣を着た中年の男性が病院の扉から出てくる。
両親はその医者に深く頭を下げた。
「どうか……よろしくお願いします」
「手を尽くします」
医者が静かに頷き、微笑む。
誠也の手を取り、病院の中へと歩き出す。
扉が閉まる、その瞬間。
誠也は立ち止まり、寂しげな声でつぶやいた。
「お母さん……お父さん……」
母親が小さく手を振る。
その姿が遠ざかり、扉の向こうへと消えていった。
⸻
廊下の奥、誠也は影に身を潜め、こっそりと会話を聞いていた。
「……状況は、あまり良くありません」
院長の低い声。
母親が、その場に崩れ落ちる。
「どうして……どうして誠也が……」
涙が床に落ち、静かな音が広がった。
父親が、震える母の背を支える。
誠也は、遠くからそれを見つめながら、壁に寄りかかってつぶやく。
「……誠也、悪い子だったのかな……?」
その声は、暗い廊下の中へと、静かに溶けていった。
「……頑張るから。お母さん、泣かないで……」
小さな手が膝を抱きしめ、堪えていた涙が、頬をつたう。
⸻
病室。
誠也は、弱った体でベッドに横たわっていた。
白衣の男性が、口を重たく開く。
「誠也君……家族が、事故に……」
その言葉に、誠也の瞳がゆっくりと開く。
「……え……?」
男性は目を伏せ、何も言えずにいた。
誠也の手が、シーツを握りしめる。
「じいちゃん……嘘……だよね……?」
「…………」
沈黙の中、医者はただ立ち尽くしていた。
「お兄ちゃん……お母さん……お父さん……誠也、会いたいよ……!」
声が震える。
怒りと悲しみが混ざって、喉の奥がかすれる。
「なんで……どうして……! ひとりにしないでよ……!」
枕に顔を埋め、泣きじゃくる声が病室の空気に滲んでいく。
「じいちゃん……誠也、さみしいよ……」
それが、誠也の最後の言葉だった。
呼吸が、静かに途切れる。
「誠也君……? 誠也君……!」
“じいちゃん”と呼ばれていた白衣の男性の声が、かすれながら遠のいていく。