院長室には、静寂だけが残った。
月明かりが割れた窓から差し込み、廃病院の冷えた空気がゆっくりと流れを変えていく。
誠也は成仏した。
最後に見せた寂しげな笑顔が、ゆっくりと薄闇に溶けて消えた。
もう、彼は一人じゃない。家族の元へ、戻れたんだ。
僕の胸には、不思議なほどの静けさが広がっていた。
きっと、あの過去を見たからだ。
誠也に、同情していたのだと思う。
だからこそ。
彼が成仏できて、本当に良かったと思えた。
心の底から、そう思えた。
僕はそっと息をつき、床に手をついた。
まだ、心臓の奥が微かに震えている。
――美琴の力。
赤い光が、誠也の過去を映し出し、そして彼を導いた。
「美琴…今の力は…?」
そう問いかけると、美琴は膝の上の木彫りの人形を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
月明かりが彼女の横顔を淡く染め、長い睫毛の影が頬に落ちる。
「私は…巫女の血を引いています。」
「巫女…?」
驚きを隠せず問い返すと、美琴は静かに頷いた。
「はい。でも…“穢れた血”なんです。」
その言葉に、胸がざわりと揺れる。
「巫女が…なんで”穢れた血”だなんて…?」
彼女の表情が、ほんの一瞬だけ翳った。
まるで風が止まったみたいに、彼女の微笑みが薄れる。
「私の先祖は…禁忌を犯しました。」
それだけを告げ、美琴はそっと目を伏せた。
まるで、それ以上は語る必要がないと言うように。
何を聞いてはいけないのか。
何を踏み込んではいけないのか。
彼女の言葉の裏にあるものを、僕はまだ知らない。
でも、それでも。
「…それでも、美琴は。」
僕が言葉を探していると、彼女はふっと笑った。
「それでも、私はこの力を使います。」
「この血が穢れていたとしても、助けを求める人がいるのなら。」
その声には、確かな強さがあった。
夜風に乗って遠ざかっていく彼女の言葉を、僕はただじっと聞いていた。
⸻
美琴が立ち上がると、床に転がる懐中電灯を拾い上げた。
「…先輩、そろそろ戻りましょう。」
倉庫へ向かう途中、僕はふと翔太たちのことを思い出した。
まだ彼らは、気を失ったままだ。
「4人は……?」
「私が起こします。」
美琴が静かに言い、倉庫へと足を進める。
僕は何も言わず、それに続いた。
──
倉庫の中には、まだ静寂が満ちていた。
美琴が膝をつき、そっと手をかざす。
ふわり、と空気が震えた。
次の瞬間、柔らかな赤い光が4人を包み込む。
「……う、うぅん……?」
最初に目を覚ましたのは翔太だった。彼はぼんやりと天井を見つめ、次に僕の顔を認識すると、驚いたように目を瞬かせた。
「悠斗……? なんでここに……?」
「お前こそ、なんでここで寝てるんだ。」
翔太は頭を押さえながら起き上がり、困惑した顔を浮かべる。
「……いや、わかんねぇ……。確か、配信の準備してて……そのあと……何してたっけ?」
言葉が途切れる。
翔太だけじゃない。他の3人も目を覚ましたが、同じように戸惑った顔をしていた。
「俺たち、何してたっけ?」
「マジで覚えてねぇ……」
記憶が、抜け落ちている。
「おそらく霊障によるものです。」
隣で美琴が、僕にだけ聞こえるように小さく呟いた。
霊障――つまり、霊の影響で意識や記憶が曖昧になる現象。
確かに、誠也の霊は強い未練を抱えていた。彼の存在が強くなりすぎたことで、翔太たちも影響を受けたのかもしれない。
4人は眉をひそめ、お互いに顔を見合わせる。
「なんか……頭がモヤモヤするな……」
「思い出そうとすると、すっげぇぼんやりする。」
「変な夢でも見てたみたいな感じ……」
自分たちの記憶が曖昧なことに、気味の悪さを覚えているのが伝わってくる。
そんな彼らを見つめながら、僕は翔太にだけ視線を向けた。
――話すべきか、迷った。
昨日の出来事を、翔太に伝えるべきなのか。
でも、彼には関係ない話じゃない。
「……翔太…昨日のこと覚えてないの?」
僕が静かに尋ねると、翔太は困惑したまま首を振った。
「いや、マジで分かんねぇ。なんか……時間が飛んだみたいな感じ。」
少しの間を置いて、僕は小さく息をついた。
「……とりあえず、簡単に説明するよ。」
翔太だけに、小さな声で昨日の出来事を伝えた。
誠也という少年の霊がいて、彼がここでずっと一人でいたこと。彼の家族が事故で亡くなり、彼だけが取り残されたこと。僕と美琴が彼を見つけ、そして――成仏させたこと。
翔太は黙って聞いていた。
「……嘘みてぇな話だな。」
ぽつりと呟いた後、彼は「いや、でも……」と考えるように視線を泳がせる。
「確かに、何か見たような気もするんだよな……でも、それが何だったのか思い出せねぇ……。」
彼は曖昧な表情のまま、後頭部を掻いた。
「まあ……いっか。とにかく、お前も無事でよかったわ。」
僕も軽く頷く。
「……そうだね。」
その時、倉庫の隅で誰かが時計を確認した。
「ちょ、今何時?」
「……うわ、もう深夜じゃん。」
4人が慌てて立ち上がる。
「ヤバいヤバい、早く帰らねぇと!」
翔太が「お前も帰るよな?」と僕に視線を向けた。
僕は軽く頷き、「うん、帰ろう」と返す。
美琴も何も言わず、静かに倉庫を後にした。
⸻
病院の外に出ると、夜風がひんやりと肌を撫でた。
空を見上げると、雲の切れ間から月が覗いている。
「……あ。」
足元に、ひらりと何かが落ちた。
桜の花びら。
こんな場所に桜の木はないのに。
風が吹き抜ける。
まるで――誠也がありがとうと言っているかのようだった。
「……行こうか。」
僕が呟くと、美琴がふっと微笑む。
「はい。」
そうして、僕たちは静かに廃病院を後にした。