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十五話 穢れた血

院長室には、静寂だけが残った。

月明かりが割れた窓から差し込み、廃病院の冷えた空気がゆっくりと流れを変えていく。


誠也は成仏した。

最後に見せた寂しげな笑顔が、ゆっくりと薄闇に溶けて消えた。

もう、彼は一人じゃない。家族の元へ、戻れたんだ。


僕の胸には、不思議なほどの静けさが広がっていた。


きっと、あの過去を見たからだ。


誠也に、同情していたのだと思う。


だからこそ。


彼が成仏できて、本当に良かったと思えた。


心の底から、そう思えた。


僕はそっと息をつき、床に手をついた。

まだ、心臓の奥が微かに震えている。


――美琴の力。

赤い光が、誠也の過去を映し出し、そして彼を導いた。


「美琴…今の力は…?」


そう問いかけると、美琴は膝の上の木彫りの人形を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。

月明かりが彼女の横顔を淡く染め、長い睫毛の影が頬に落ちる。


「私は…巫女の血を引いています。」


「巫女…?」


驚きを隠せず問い返すと、美琴は静かに頷いた。


「はい。でも…“穢れた血”なんです。」


その言葉に、胸がざわりと揺れる。


「巫女が…なんで”穢れた血”だなんて…?」


彼女の表情が、ほんの一瞬だけ翳った。

まるで風が止まったみたいに、彼女の微笑みが薄れる。


「私の先祖は…禁忌を犯しました。」


それだけを告げ、美琴はそっと目を伏せた。

まるで、それ以上は語る必要がないと言うように。


何を聞いてはいけないのか。

何を踏み込んではいけないのか。


彼女の言葉の裏にあるものを、僕はまだ知らない。


でも、それでも。


「…それでも、美琴は。」


僕が言葉を探していると、彼女はふっと笑った。


「それでも、私はこの力を使います。」

「この血が穢れていたとしても、助けを求める人がいるのなら。」


その声には、確かな強さがあった。

夜風に乗って遠ざかっていく彼女の言葉を、僕はただじっと聞いていた。



美琴が立ち上がると、床に転がる懐中電灯を拾い上げた。


「…先輩、そろそろ戻りましょう。」


倉庫へ向かう途中、僕はふと翔太たちのことを思い出した。

まだ彼らは、気を失ったままだ。


「4人は……?」


「私が起こします。」


美琴が静かに言い、倉庫へと足を進める。

僕は何も言わず、それに続いた。


──


倉庫の中には、まだ静寂が満ちていた。


美琴が膝をつき、そっと手をかざす。


ふわり、と空気が震えた。


次の瞬間、柔らかな赤い光が4人を包み込む。


「……う、うぅん……?」


最初に目を覚ましたのは翔太だった。彼はぼんやりと天井を見つめ、次に僕の顔を認識すると、驚いたように目を瞬かせた。


「悠斗……? なんでここに……?」


「お前こそ、なんでここで寝てるんだ。」


翔太は頭を押さえながら起き上がり、困惑した顔を浮かべる。


「……いや、わかんねぇ……。確か、配信の準備してて……そのあと……何してたっけ?」


言葉が途切れる。


翔太だけじゃない。他の3人も目を覚ましたが、同じように戸惑った顔をしていた。


「俺たち、何してたっけ?」

「マジで覚えてねぇ……」


記憶が、抜け落ちている。


「おそらく霊障によるものです。」


隣で美琴が、僕にだけ聞こえるように小さく呟いた。


霊障――つまり、霊の影響で意識や記憶が曖昧になる現象。


確かに、誠也の霊は強い未練を抱えていた。彼の存在が強くなりすぎたことで、翔太たちも影響を受けたのかもしれない。


4人は眉をひそめ、お互いに顔を見合わせる。


「なんか……頭がモヤモヤするな……」

「思い出そうとすると、すっげぇぼんやりする。」

「変な夢でも見てたみたいな感じ……」


自分たちの記憶が曖昧なことに、気味の悪さを覚えているのが伝わってくる。


そんな彼らを見つめながら、僕は翔太にだけ視線を向けた。


――話すべきか、迷った。


昨日の出来事を、翔太に伝えるべきなのか。


でも、彼には関係ない話じゃない。


「……翔太…昨日のこと覚えてないの?」


僕が静かに尋ねると、翔太は困惑したまま首を振った。


「いや、マジで分かんねぇ。なんか……時間が飛んだみたいな感じ。」


少しの間を置いて、僕は小さく息をついた。


「……とりあえず、簡単に説明するよ。」


翔太だけに、小さな声で昨日の出来事を伝えた。


誠也という少年の霊がいて、彼がここでずっと一人でいたこと。彼の家族が事故で亡くなり、彼だけが取り残されたこと。僕と美琴が彼を見つけ、そして――成仏させたこと。


翔太は黙って聞いていた。


「……嘘みてぇな話だな。」


ぽつりと呟いた後、彼は「いや、でも……」と考えるように視線を泳がせる。


「確かに、何か見たような気もするんだよな……でも、それが何だったのか思い出せねぇ……。」


彼は曖昧な表情のまま、後頭部を掻いた。


「まあ……いっか。とにかく、お前も無事でよかったわ。」


僕も軽く頷く。


「……そうだね。」


その時、倉庫の隅で誰かが時計を確認した。


「ちょ、今何時?」


「……うわ、もう深夜じゃん。」


4人が慌てて立ち上がる。


「ヤバいヤバい、早く帰らねぇと!」


翔太が「お前も帰るよな?」と僕に視線を向けた。


僕は軽く頷き、「うん、帰ろう」と返す。


美琴も何も言わず、静かに倉庫を後にした。



病院の外に出ると、夜風がひんやりと肌を撫でた。


空を見上げると、雲の切れ間から月が覗いている。


「……あ。」


足元に、ひらりと何かが落ちた。


桜の花びら。


こんな場所に桜の木はないのに。


風が吹き抜ける。


まるで――誠也がありがとうと言っているかのようだった。


「……行こうか。」


僕が呟くと、美琴がふっと微笑む。


「はい。」


そうして、僕たちは静かに廃病院を後にした。



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