あれから、数日が経った。
それでも、頭の中にはまだ薄い霧が残っているようだった。
ぼんやりとした感覚が消えないまま、僕は教科書を開いた机に肘をつき、窓の外を眺めていた。
春の風が校庭を撫で、枝先の新芽がふるふると揺れている。
空は少しずつ朱に染まりはじめ、遠くで体育館のシャッターが軋む音が聞こえた。
誠也の寂しげな笑顔。
廊下に漂っていた冷たい空気。
まだ体のどこかに、それが残っている気がしていた。
けれど、もっと強く心に残っているのは――
あの夜の、美琴の姿だった。
霊に怯えるでもなく、ただ静かに、手を差し伸べる彼女。
そして、その口から零れた「穢れた血」という言葉が、胸の奥で引っかかったままになっていた。
「お前、またボーッとしてんな。テスト近いぞ?」
軽い声と一緒に、背中をポンと叩かれる。
「うるさいよ。ちゃんとやってるって。」
「いやいや、さっきから1ページも進んでねぇじゃん。」
翔太が笑いながら覗き込んでくる。
その顔を適当にあしらおうとしたところで、ふと聞き捨てならない言葉が飛び出した。
「ついでに言うと、また美琴ちゃんが心霊スポットで目撃されたって噂、流れてきたぜ。今回は……風鳴トンネルだってよ。」
「……え?」
胸がざわつく。
風鳴トンネル――
郊外にある、古くて、誰も近づかないと言われている場所。
事故が起きて封鎖されたという噂もある。
「“髪の長い女”と一緒にいたって書き込みもあったけど……そっちは幽霊かもな。」
翔太が冗談交じりに言うけれど、笑えなかった。
その情景が、ありありと浮かんでしまったから。
美琴がまた、誰かの痛みのそばに立っている。
あのときのように――。
もう一度、彼女に会いたい。
話を聞きたい。
いや……たぶん、それ以上に、ただ会いたかった。
僕は席を立ち、翔太には適当な理由を告げて校舎を出た。
⸻
放課後の空に、橙色の光がゆっくりと広がっていく。
校舎裏の桜の木の下。
そこに、美琴はいた。
風に揺れるポニーテール。
静かに空を見上げるその横顔が、夕暮れの色に溶けていた。
「美琴!」
声をかけると、彼女がゆっくりと振り返る。
微笑みが、風に乗ってふわりと広がった。
「先輩。どうしたんですか?」
「君が、また心霊スポットにいたって噂が流れてきたんだ。」
その言葉に、美琴の表情が少しだけ翳る。
「……皆さん、心霊スポットがお好きなんですね。」
小さな声で、どこか寂しげに呟いた。
霊の話になると、彼女は決まって、少し遠くを見るような目になる。
言葉の奥に、触れてはいけない静けさがあった。
「……そのトンネルにも、誠也君みたいな霊が?」
僕の問いに、美琴は驚いたような目をして、それから静かに頷いた。
「はい。深い後悔を残した方です。」
「そっか……」
あの夜の誠也の記憶が、ゆっくりと胸に戻ってくる。
彼の最後の願いを叶えられたことが、少しだけ誇らしく思えた。
「先輩も、一緒に来てみますか?」
美琴が、夕陽の中でふと問いかけてくる。
「……うん。」
純粋に…気になってしまっていた。そして、彼女と一緒に居たら僕にも何か出来ることがあるんじゃないだろうか…
不思議とそう思えたんだ。
僕の答えに美琴が微笑む。
「分かりました。では、後日行きましょう。」
「今日は行かないの?」
「はい。今日は……誠也君の人形を埋めようと思って。」
そう言って、彼女は制服のポケットから小さな木彫りの犬を取り出した。
あの夜、美琴が大切そうに抱えていたもの――
誠也が、心の拠りどころにしていた、兄の形見。
「このまま持っているのもいいのですが……
彼にとって一番落ち着ける場所に、返してあげたいんです。」
彼女の言葉が、空気に優しく染み込んでいく。
僕は、黙って頷いた。
「……じゃあ、一緒に行こう。」
⸻
廃病院の裏庭。
西の空が色を落とし始め、影がゆっくりと伸びていく。
ひっそりとした草むらの中、僕たちは並んで地面を掘った。
根が絡まる土を指で崩しながら、誠也がここで過ごした時間を思う。
一人で、暗くて、誰もいない廊下を、ずっと。
美琴は、小さな穴の前で手を合わせた。
「誠也君……ここで、安らかに眠ってね。」
人形をそっと土の中へ置く。
そして、静かに埋めた。
風がふわりと吹いた。
それは、夜の冷たさではなかった。
春の匂いをほんのりと含んだ、優しい風だった。
「……行こうか。」
僕が呟くと、美琴がふっと笑う。
「はい。」
廃病院の影が、夕暮れに溶けていく。
もうこの場所に、あの寂しさは残っていなかった。
⸻
孤独の病棟編 [完]