美琴の声に頷きながら、僕も後に続く。
トンネルの中は、まるで湿った息を吸い込んでしまったように重苦しかった。
足元の小石を踏む音がカツンカツンと響き、音が妙に大きく感じる。
コンクリートの壁には苔が生い茂り、時折水滴がぽたりと落ちる音が静寂を切り裂いた。
喉が渇く。空気がまとわりついてくる。
廃病院とは、全く違う感覚だった。
あの場所には、「誰かがそこにいる」ことを感じさせる温度があった。
けれど、ここは違う。
どこまでも冷たく、どこまでも孤独だった。
美琴が歩みを止め、ふわりとポニーテールが揺れる。
「……来ますよ」
その瞬間、霧がさらに濃くなった。
懐中電灯の光がぼやけて広がり、視界がじわじわと滲む。
霧の粒が光を乱反射し、まるで世界がぼやけるみたいに。
――その先に、いた。
黒い影が、ゆらりと揺れる。
最初は形を成していなかった。だが、少しずつ―― 輪郭を得る。
白く、薄紫がかった肌。
肩より少し長い乱れた黒髪。
クリーム色のトレンチコートは血と泥で汚れ、黒のタートルネックとスキニージーンズが暗闇に沈む。
左手の薬指には銀の指輪。
爪には赤いマニキュア。
そして、震えるように両手で顔を覆っていた。
『ごめ…ん…なさい……』
『……ごめんなさい……』
低く掠れた声が、トンネルの中に響く。
「っ……!」
背筋が凍りつく。
けれど、美琴は恐れることなく一歩踏み出した。
「美琴……?」
思わず呼びかけると、彼女は振り返り、穏やかに微笑む。
「大丈夫です。彼女は“悪いもの”ではありませんから。」
――確信していた。
美琴の声に迷いはなかった。
まるですでに彼女を知っているかのような、そんな響き。
僕が息を呑んでいる間にも、美琴はゆっくりと霊へと歩み寄る。
「貴女のことを、もう少し教えてくれませんか?」
静かで優しい声が、冷たい空気に溶ける。
すると――
霊が、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。
そこにあったのは、濁った真っ黒な瞳。
ぽたり。
血の涙が、地面に落ちる。
コートに赤黒い染みが広がる。
「……大丈夫ですよ。」
美琴の声は、なおも静かだった。
「私は貴女を祓いに来たんじゃありません。」
「貴女を助けたくて、ここに来たんです。」
――その瞬間。
霊が、震えた。
『……こ…ない……で……コナイ……デ……』
「……大丈夫。私はもう、一度貴女の記憶を少しだけ見ています。」
美琴がそっと告げる。
「だから、知ってるんです。貴女はただ、苦しんでいるだけ……」
――叫びが、轟いた。
『くる……なァァァァァァァァァァァァ!!!!』
轟音。
突風が吹き荒れ、僕たちは吹き飛ばされた。
冷たい風の中に、何かの囁きが混ざる。
「……出て行く……」
「……ダメだよ……」
まるで、遠くで誰かが言い争っているみたいだった。
懐中電灯が手から滑り落ち、カツン、と小石を跳ねながら転がる。
「っ……!」
背中を強く打ち、呼吸が止まる。
それでも、まず探したのは――美琴の姿。
「美琴!!」
叫びながら、すぐに体を起こす。
美琴は地面に膝をついていた。でも、彼女はすぐにゆっくりと立ち上がる。
霧の中で、茶色の瞳が霊を見据える。
「私は大丈夫です。」
微笑んでそう言った美琴は、どこか寂しそうに見えた。
『ごめ…んなさい…… お母…さん……』
霊が、また呟いた。
その声とともに、輪郭が薄れていく。
まるで霧に溶けるように――。
「お母さん……?」
僕が呟くと、美琴がそっと俯いた。
「……あの人は、このトンネルで亡くなったんです。」
「……でも、さ。さっきの声、謝ってたよね?」
「ええ。彼女はきっと……“悪い霊”じゃないんです。」
美琴の声が、切なげに響く。
でも――それだけでは終わらない。
僕の胸に、さっきの“叫び”がこびりついていた。
「でも……事故の要因になるって……それって、つまり……危ない霊ってことじゃ……?」
「はい。彼女は……彼女を轢いた車と同じものを見た時に、フラッシュバックを起こして姿を現してしまうんです。」
「……だから、事故が起きる……」
美琴が小さく頷く。
彼女はただ、ここで苦しんでいるだけ。
それなのに、ネットでは“悪霊”と呼ばれている。
「……先輩。」
美琴が、僕の顔をじっと見つめる。
「彼女の過去を、見てみませんか?」
彼女の瞳が、静かに揺れた。
迷いはなかった。
「……うん。」
美琴が、そっと手をかざす。
トンネル内に残った霊気が、ゆらりと集まる。
彼女の手の中で、赤い光が脈打つ。
「先輩、手を握ってください。」
そう言われるまま、美琴の手を取る。
次の瞬間――意識が遠のいた。