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二話 後悔の漂う場所

美琴の声に頷きながら、僕も後に続く。


トンネルの中は、まるで湿った息を吸い込んでしまったように重苦しかった。

足元の小石を踏む音がカツンカツンと響き、音が妙に大きく感じる。

コンクリートの壁には苔が生い茂り、時折水滴がぽたりと落ちる音が静寂を切り裂いた。


喉が渇く。空気がまとわりついてくる。


廃病院とは、全く違う感覚だった。


あの場所には、「誰かがそこにいる」ことを感じさせる温度があった。

けれど、ここは違う。


どこまでも冷たく、どこまでも孤独だった。


美琴が歩みを止め、ふわりとポニーテールが揺れる。


「……来ますよ」


その瞬間、霧がさらに濃くなった。


懐中電灯の光がぼやけて広がり、視界がじわじわと滲む。

霧の粒が光を乱反射し、まるで世界がぼやけるみたいに。


――その先に、いた。


黒い影が、ゆらりと揺れる。


最初は形を成していなかった。だが、少しずつ―― 輪郭を得る。


白く、薄紫がかった肌。

肩より少し長い乱れた黒髪。

クリーム色のトレンチコートは血と泥で汚れ、黒のタートルネックとスキニージーンズが暗闇に沈む。


左手の薬指には銀の指輪。

爪には赤いマニキュア。


そして、震えるように両手で顔を覆っていた。


『ごめ…ん…なさい……』

『……ごめんなさい……』


低く掠れた声が、トンネルの中に響く。


「っ……!」


背筋が凍りつく。


けれど、美琴は恐れることなく一歩踏み出した。


「美琴……?」


思わず呼びかけると、彼女は振り返り、穏やかに微笑む。


「大丈夫です。彼女は“悪いもの”ではありませんから。」


――確信していた。


美琴の声に迷いはなかった。

まるですでに彼女を知っているかのような、そんな響き。


僕が息を呑んでいる間にも、美琴はゆっくりと霊へと歩み寄る。


「貴女のことを、もう少し教えてくれませんか?」


静かで優しい声が、冷たい空気に溶ける。


すると――


霊が、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。


そこにあったのは、濁った真っ黒な瞳。


ぽたり。


血の涙が、地面に落ちる。


コートに赤黒い染みが広がる。


「……大丈夫ですよ。」


美琴の声は、なおも静かだった。


「私は貴女を祓いに来たんじゃありません。」

「貴女を助けたくて、ここに来たんです。」


――その瞬間。


霊が、震えた。


『……こ…ない……で……コナイ……デ……』


「……大丈夫。私はもう、一度貴女の記憶を少しだけ見ています。」


美琴がそっと告げる。


「だから、知ってるんです。貴女はただ、苦しんでいるだけ……」


――叫びが、轟いた。


『くる……なァァァァァァァァァァァァ!!!!』


轟音。


突風が吹き荒れ、僕たちは吹き飛ばされた。


冷たい風の中に、何かの囁きが混ざる。


「……出て行く……」

「……ダメだよ……」


まるで、遠くで誰かが言い争っているみたいだった。


懐中電灯が手から滑り落ち、カツン、と小石を跳ねながら転がる。


「っ……!」


背中を強く打ち、呼吸が止まる。


それでも、まず探したのは――美琴の姿。


「美琴!!」


叫びながら、すぐに体を起こす。


美琴は地面に膝をついていた。でも、彼女はすぐにゆっくりと立ち上がる。


霧の中で、茶色の瞳が霊を見据える。


「私は大丈夫です。」


微笑んでそう言った美琴は、どこか寂しそうに見えた。


『ごめ…んなさい…… お母…さん……』


霊が、また呟いた。


その声とともに、輪郭が薄れていく。


まるで霧に溶けるように――。


「お母さん……?」


僕が呟くと、美琴がそっと俯いた。


「……あの人は、このトンネルで亡くなったんです。」


「……でも、さ。さっきの声、謝ってたよね?」


「ええ。彼女はきっと……“悪い霊”じゃないんです。」


美琴の声が、切なげに響く。


でも――それだけでは終わらない。


僕の胸に、さっきの“叫び”がこびりついていた。


「でも……事故の要因になるって……それって、つまり……危ない霊ってことじゃ……?」


「はい。彼女は……彼女を轢いた車と同じものを見た時に、フラッシュバックを起こして姿を現してしまうんです。」


「……だから、事故が起きる……」


美琴が小さく頷く。


彼女はただ、ここで苦しんでいるだけ。

それなのに、ネットでは“悪霊”と呼ばれている。


「……先輩。」


美琴が、僕の顔をじっと見つめる。


「彼女の過去を、見てみませんか?」


彼女の瞳が、静かに揺れた。


迷いはなかった。


「……うん。」


美琴が、そっと手をかざす。


トンネル内に残った霊気が、ゆらりと集まる。


彼女の手の中で、赤い光が脈打つ。


「先輩、手を握ってください。」


そう言われるまま、美琴の手を取る。


次の瞬間――意識が遠のいた。

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