「彼女は居なくなってしまいましたし……先輩、彼女の過去を見てみますか?」
美琴がそう言い放つ。霧がゆっくりと広がり、彼女の茶色の瞳が静かに僕を見つめる。どこか穏やかな表情。だけど、そこには覚悟のようなものが滲んでいた。
「うん。」
気になる。なんであんな霊になってしまったのか。何を引きずってこんな場所をさまよっているのか。知りたい。その気持ちが、胸の中で膨らんでいく。
美琴はゆっくりと手をかざし、目を閉じる。トンネル内の空気がわずかに震え、何かが集まるような感覚が広がっていく。彼女の指先から、赤い光がぽうっと滲み出た。まるで血のように濃く、脈打つように揺れる。それは霊の未練と後悔を映し出す光。
「先輩、手を握ってください。彼女の想いを……感じてあげてください。」
美琴の声が、夜の湿った空気に溶けていく。
一瞬、迷いがよぎる。だけど、美琴がそっと手を差し出すその姿が、不思議と背中を押してくれる気がした。
「……わかった。」
そっと、彼女の手を握る。指先は少しひんやりしていたけど、その奥に確かな温かさを感じた。
その瞬間――
ドクンッ。
胸の奥で何かが脈打つ。
まるで心臓が一瞬止まって、また動き出したみたいに。熱が体の奥からじわりと広がり、視界がぐにゃりと歪む。次の瞬間、僕の意識は現実から引き剥がされ、闇の中へと落ちていった。
⸻
滲む記憶
「なんで結婚を認めてくれないの!!」
怒りと悲しみが入り混じった叫び声が、頭の中に響く。まるで目の前で繰り広げられているみたいに、鮮明に聞こえた。
目の前には、クリーム色のトレンチコートを着た彼女――が立っていた。手には、あのシルバーの指輪が光っている。
「男なんて皆同じさ!! すぐ裏切って、お前を傷つける!!」
年配の女性――彼女の母親の声が、強く返された。
トンネルの外、車が停まった近くでの言い争い。
彼女は拳を握りしめ、唇を噛んでいた。
「彼はそんな人じゃない!!」
「いいや!! みんな同じだね!! あんたにゃそんな思いはしてほしくないんだよ!!」
「お母さん!! お願い、話を聞いて!!」
「嫌だね!! 男なんてろくでもないもんだ!!」
「もう知らない!! あたしはもう出て行く!!」
彼女の声は震えていた。
それは怒りだけじゃない。
涙の気配が混ざっていた。
悲しみと、母親をどうしても説得できないもどかしさ。
「
母親が叫ぶ。
彼女は振り返らなかった。
クリーム色のトレンチコートが風に揺れた。
その瞬間――
光が弾けたように、僕の意識が現実へと引き戻された。
⸻
「っ……!!」
息を呑んで目を開く。
喉が乾いていた。
肌が冷え切って、心臓が早鐘を打っている。
でも、それ以上に――
頭の中に彼女の声が、彼女の記憶が焼き付いて離れなかった。
「先輩……?」
美琴の声が聞こえた。
ふと顔を上げると、彼女が僕をじっと見つめていた。
「先輩!? その目……っ!」
「え……?」
驚いた声にハッとして、自分の顔に手をやる。
涙が止まらない。
そして、視界の端で気づいた。
僕の黒い瞳が、淡く碧く光っていた。
まるで深い海のような色が、トンネルの暗闇の中で揺れていた。
懐中電灯の光が、その青を映して、美琴の顔に驚きが広がる。
「これ……なんだ……?」
自分の体じゃないみたいだった。
僕は、ただ霊の記憶を見たんじゃない。
彼女の後悔を、その感情を、すべて背負ったみたいな感覚だった。
胸が苦しい。
まるで、詩織さんの感情が、僕の中に流れ込んできたみたいに。
「彼女の後悔が……僕の中に流れ込んできた……感じがする……。」
「先輩……」
美琴の声が、どこか遠くで響く。
「先輩…あなたは……」
彼女が小さく呟く。
その言葉の意味を聞く余裕はなかった。
僕はただ、トンネルの冷気を感じながら、肩で息をしていた。
青く滲む視界の奥で――
詩織さんの姿が、ぼんやりと揺れて見えた。