季節は春から夏へ──。
まだ朝晩は涼しいものの、日中は汗ばむ日も増え、どこからか蝉の練習鳴きのような、か細い声が微かに響きはじめた、そんなある日の放課後。
僕たちは再び、あの風鳴トンネル (かぜなきトンネル) の前へと足を運んでいた。
トンネルの前に一人で立つと、やはり、ひんやりとした異質な空気が、じっとりと肌を撫でていくのを感じる。
古びたコンクリートで作られた不気味な入り口は、相変わらず黒緑色の苔に覆われていて、
まるで、この世ならざる世界への門が、ぽっかりと黒い口を開けているみたいだった。
「先輩、以前ここで感じた、あの目の奥が熱くなるような感覚……まだ、覚えていらっしゃいますか?」
隣に立つ美琴の声が、夕暮れの風にそっと溶けるように響く。
彼女の綺麗なポニーテールがさらりと揺れ、その凛とした美しい横顔が、僕へと向けられる。
そして、すっと、白い手が僕へと差し出された。
「ごめん……美琴。正直に言うと、全然、はっきりとは覚えてないや。なんだか、夢の中の出来事みたいで……」
僕が力なく苦笑すると、美琴は「そうですよね」とでも言うように、小さく、優しく頷いた。
「普通は、そう簡単に思い出せるものではありませんから。……では、もう一度、私と手を繋いでみましょうか」
少しだけ照れくさくて、でも、それ以上にどこかホッとするような安心感があって──
僕は、そっと彼女の差し出してくれた、その小さな手を握った。
思ったよりも華奢で、でも、確かな温もりを持っている。そのぬくもりが、じわっと僕の胸の奥にまで染み込んでくるようだった。
──ドクン。
美琴の手を握った瞬間、また、あの時と同じように心臓が一度だけ大きく跳ねたような感覚と共に、
目の前の視界が、ゆっくりと、そしてぐにゃりと揺れ始める。
周囲の空気の色が、ほんの少しだけ濃密に変わって、トンネルの奥の暗闇に、何か陽炎のようなものが滲んで見えた。
そして、あの時感じた、目の奥がカッと熱くなるような感覚……それを、僕は今、再びはっきりと感じていた。
僕の瞳は、きっとまた、あの時と同じように、淡い碧の光を、薄らと放っているんだろう。
(この、世界がほんの少しだけ違って見えるような感覚が……僕の、霊眼術……。
しっかりと、この感覚を、今度こそ忘れないようにしないと……)
「……無事、霊眼術を発動出来たようですね、先輩」
僕がそうやって必死に感覚を記憶に刻み込もうとしていると、美琴が、静かにそう呟いた。
その瞬間、彼女の、その大きな茶色の瞳もまた、まるでルビーのように鮮やかな、深い紅の色へと、すーっと染まっていく。
「霊眼の状態を、まず自分で意識して維持すること。それが、最初の第一歩ですよ」
美琴が指差したその先、トンネルのひび割れた壁の一部に、
まるで古いシミか、あるいは陽炎のような、もやもやとした黒っぽい影が、ふわりと淡く浮かんでいた。
それは、このトンネルの中を吹き抜ける風にも少しも揺れることなく、じっと、ただそこに“在る”。
まるで、この場所に刻まれた、誰かの記憶の染みみたいに。
「……あれが、霊が遺した想いの
美琴が、その紅い瞳で影を捉えたまま、そっと空いている方の手をかざす。
すると、彼女の白い指先に、周囲の霊気が吸い寄せられるように、赤い光がみるみる集まっていった。
「──
我がこの静かなる祈りに応え、その魂に刻まれし記憶を、今、ここに映し出せ」
彼女の、凛とした詠唱と同時に、トンネル内の空気がびりり、と震えた。
壁の黒い影が、一瞬だけ強く
ふっと、そこに幻のように浮かび上がる。
でも、その姿は、本当に一瞬だけで、すぐに掻き消えてしまった。
「こうして詠唱をすることで、より鮮明に、より深く記憶を視ることができます。……でも、詠唱無しでも、ある程度集中すれば、少しは断片的に視ることもできますよ」
「なるほど……そういうものなのか……」
僕は、美琴の真似をして、おそるおそる自分も手をかざしてみるけど──
当然、と言うべきか、僕の手には、何の光も集まらないし、何も起きなかった。
「えーっと……確か、《刻還しの響》……なんじ……えーと、過ぎし時の……あれ?なんか違うな……うーん……」
うろ覚えの詠唱を、自信なさげに口の中で何度かなぞりながら、ぎこちなく手を前にかざしてみる。
だけど、当然、何も起こらない。風すら、ぴくりとも動かない。
ただ、自分の、どこか間抜けな声だけが、虚しく薄暗いトンネルの中に響いただけだった。
「……まあ、そう簡単には、いかないよね……やっぱり……」
がっくりと肩を落として力なく苦笑すると、美琴が、くすっと、楽しそうに笑った。
その笑顔に、少しだけ救われる。
「ふふっ。焦りは禁物ですよ、先輩。ゆっくりと、感覚を掴んでいきましょう。……それと、先輩」
不意に、彼女の声色が少しだけ変わった。
真剣な、それでいてどこか心配そうな紅い瞳が、僕のことを真っ直ぐに捉える。
「なぜ、私が今日、急にこのような、霊眼術の練習をしましょう、というご提案をしたか……その理由、お分かりになりますか?」
「え……? いや、それは……僕が早く力を使いこなせるように、とか……?」
「それも、もちろんあります。でも、もっと大切な理由があるんです」
美琴は、一度だけ言葉を切り、そして、少しだけ言いづらそうに続けた。
「霊眼術を一度でも開眼してしまった人は……良くも悪くも、霊的な存在を強く引き寄せてしまう、“特別な気”を、その身に纏うようになるんです」
ドキリ、とした。
僕の背中に、まるで氷の刃でも突き立てられたかのような、冷たいものが一気に走る。
「霊にとって、“霊眼の持ち主”というのは……いわば、
「だから、どうしても、その特別な気に、まるで光に吸い寄せられる虫のように、自然とその魂が惹かれてしまうんですよ」
先日、母さんのお見舞いに行った帰りに遭遇した、あの交通事故で亡くなった少年のことを、僕は鮮明に思い出す。
頭から生々しい血を流し、どこまでも痛々しい、あの姿……そして、
今でも、はっきりと僕の耳の奥にこびりついている、あの言葉。
『……お兄ちゃん……僕のこと……やっぱり、“視えてる”んでしょ……? 』
あの時の、どこまでも恨めしそうな、そして何かを渇望するような表情と、不気味に反響する声。
もしかしたら、あんなふうに、この世に強い未練や想いを残した霊たちが、
これからも、僕のこの「気」に気づいて、次から次へと寄ってくるというのだろうか。
そう考えると、背筋が、ひやりと嫌な汗で冷たくなった。
「……美琴にも、その……霊は、やっぱり、よく寄ってくるものなの……?」
美琴の言葉は、きっと真実なんだろう。それは、信じていた。
でも……心のどこかで、それを認めたくなかった。認めてしまったら、もう後戻りできない気がして。
だからこそ、僕は、震える声で、そう問いかけたんだ。
──だけど、彼女から返ってきたのは、僕の予想とは、全く思いもよらない答えだった。
「いいえ、先輩。それは、おそらく……今のところ、先輩に限ったこと、だと思います」
……え? 何故……?
僕が驚いて眉を寄せると、美琴は、どこか複雑な表情で、静かに言葉を続けた。
「私は……どういうわけか、霊にはほとんど寄られない体質なんです」
「えっ? でも、美琴だって霊眼術を……」
「はい。でも、私のこの“気”が、どうやら、霊にとってはひどく攻撃的で、威圧的に感じられるらしくて……。
むしろ、多くの霊が怯えてしまって、私自身のことを避けてしまうんです」
その言葉を聞いて、僕は思い返す。
確かに、廃病院で出会った誠也くんも、そしてこの風鳴トンネルの詩織さんも──
最初は、美琴にはなかなか近づこうとはしなかった。
「でも、誠也君は、最後は美琴にすごく懐いていたじゃない?」
「……はい。それは、あの木彫りの犬の人形のおかげです。
あの人形には、誠也くんのお兄さんの、彼を想う強い“気持ち”が、まだ微かに残っていましたから……。
それを媒介にすることで、ようやく彼も心を開いてくれたんです」
霊を、無意識のうちに強く引き寄せてしまう、僕のこの新しい「気」。
そして、霊の方から怯えて避けられてしまう、美琴の「気」。
……まるで、僕たちは、本当に真逆の、対極の存在みたいじゃないか。
そんなことをぼんやりと考えていると、美琴が、ふと寂しげに視線を落とした。
「私は……ただ、苦しんでいる彼らを、少しでも助けたいだけなんです。
でも、私のこの気のせいで、多くの霊が私のことを怖がってしまって、なかなか近寄ってきてくれない。
だから……何か、その霊に深く関係する“もの”を見つけ出して、それを通してでないと、
彼らとまともに接触することすら、できないことが多いんです……」
ぽつりと、そんな風に本音をこぼした彼女は──
いつもの凛とした強さの裏に隠された、ほんの少しだけの弱さを見せて、
どこか、とても寂しそうに、そして自嘲するように、力なく笑っていた。
……美琴にとって、霊は、ただ祓うべき存在ではなく、“理解し、そして救うべき存在”なんだ。
その言葉、その姿勢に、僕は、自然とまた、あの優しい母さんの姿が重なって見えた。
霊を無条件に引き寄せてしまうようになった、僕。
そして、霊を拒絶してしまうけれど、それでも救いたいと願う、美琴。
まるで、僕たちは、本当に正反対の気質を、この霊的な世界で与えられた存在のようだった。