夜の冷たい空気が、頬を鋭く撫でていく。
吐く息は白く揺れ、遠くで犬の遠吠えが寂しく響いていた。
……気づけば、足が自然と向かっていた。
桜翁のもとへ。
とっくに花は散り、今は葉すらまばらな古木が、秋の夜空の下に静かに佇んでいる。
それでも――なぜだろう。
この場所に来ると、何かに“呼ばれている”ような気がする。
考え事をするとき、迷ったとき。
気づけば、僕はいつもこの木の前に立っていた。
風が枝を揺らし、落ち葉がさらさらと地面を擦る。
その音が、夜の静けさにふわりと溶け込んでいく。
月明かりが淡く木肌を照らし、長く伸びた影が地面に横たわる。
僕は、そっと桜翁に手を触れた。
……冷たくない。
木肌から伝わってきたのは、不思議なぬくもりだった。
ほんのりと、命の残り香のような熱。
そのまま、目を閉じる。
風の音も、遠吠えも、少しずつ遠のいていく。
――ドクン、ドクン。
……え?
鼓動とは違う、どこか深い“何か”が、指先から伝わってくる。
木の奥で何かが脈打っている。そんな錯覚。
そして――
頭の中に、声が流れ込んできた。
「……の子……に安……がおとずれますように……」
「……っ!?」
思わず手を引いた。
胸が跳ね、心臓が大きく打つ。
今のは、何だ……?
祈り……のような声だった。
途切れ途切れで、誰のものかも、意味も曖昧だったけれど――
確かに、“誰か”の願いが込められていた気がした。
夜風が冷たく吹き抜ける。
そういえば、父さんが言っていた。
桜翁は、ずっと昔からここにあるって。
どれくらい昔なんだろう。
……わからない。
でも、確かに何かを感じる。
それは恐怖ではなかった。
むしろ――
暖かくて、どこか懐かしい気配。
僕は、もう一度そっと桜翁に触れた。
掌に伝わってくるのは、
ひたひたと染みてくるような、静かな温もり。
今度は、声は聞こえなかった。
けれど、それでもわかる。
まるで「おやすみなさい」と、
誰かが囁いてくれるような……そんな優しさが、確かにそこにあった。
この木は、いったい――何を知っているんだろう?
ふと、そんなことを考えながら、僕は手を離す。
見上げれば、枝の隙間から差し込む月明かりが、
桜翁の影を夜の闇へと優しく溶かしていく。
「……桜翁」
静かに名を呼んだ。
さっきのこと――
この温もりと、あの声を。
美琴に、話してみようと思う。
この木に、きっと“誰かの想い”が宿っている。
それは、言葉ではないけれど……確かに、心で理解できた。
僕は桜翁に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。
夜風が背中を撫でていく中で、
そこに――微かな気配が残っている気がした。
見守られているような、
そっと背中を押されるような、そんな静かな温かさだった。