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九話 桜翁から聞こえる声

夜の冷たい空気が、頬を鋭く撫でていく。

吐く息は白く揺れ、遠くで犬の遠吠えが寂しく響いていた。


……気づけば、足が自然と向かっていた。


桜翁のもとへ。


とっくに花は散り、今は葉すらまばらな古木が、秋の夜空の下に静かに佇んでいる。


それでも――なぜだろう。


この場所に来ると、何かに“呼ばれている”ような気がする。


考え事をするとき、迷ったとき。

気づけば、僕はいつもこの木の前に立っていた。


風が枝を揺らし、落ち葉がさらさらと地面を擦る。

その音が、夜の静けさにふわりと溶け込んでいく。


月明かりが淡く木肌を照らし、長く伸びた影が地面に横たわる。


僕は、そっと桜翁に手を触れた。


……冷たくない。


木肌から伝わってきたのは、不思議なぬくもりだった。


ほんのりと、命の残り香のような熱。


そのまま、目を閉じる。

風の音も、遠吠えも、少しずつ遠のいていく。


――ドクン、ドクン。


……え?


鼓動とは違う、どこか深い“何か”が、指先から伝わってくる。

木の奥で何かが脈打っている。そんな錯覚。


そして――


頭の中に、声が流れ込んできた。


「……の子……に安……がおとずれますように……」


「……っ!?」


思わず手を引いた。


胸が跳ね、心臓が大きく打つ。


今のは、何だ……?


祈り……のような声だった。

途切れ途切れで、誰のものかも、意味も曖昧だったけれど――


確かに、“誰か”の願いが込められていた気がした。


夜風が冷たく吹き抜ける。


そういえば、父さんが言っていた。


桜翁は、ずっと昔からここにあるって。


どれくらい昔なんだろう。


……わからない。

でも、確かに何かを感じる。


それは恐怖ではなかった。


むしろ――

暖かくて、どこか懐かしい気配。


僕は、もう一度そっと桜翁に触れた。


掌に伝わってくるのは、

ひたひたと染みてくるような、静かな温もり。


今度は、声は聞こえなかった。

けれど、それでもわかる。


まるで「おやすみなさい」と、

誰かが囁いてくれるような……そんな優しさが、確かにそこにあった。


この木は、いったい――何を知っているんだろう?


ふと、そんなことを考えながら、僕は手を離す。


見上げれば、枝の隙間から差し込む月明かりが、

桜翁の影を夜の闇へと優しく溶かしていく。


「……桜翁」


静かに名を呼んだ。


さっきのこと――

この温もりと、あの声を。


美琴に、話してみようと思う。


この木に、きっと“誰かの想い”が宿っている。

それは、言葉ではないけれど……確かに、心で理解できた。


僕は桜翁に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。


夜風が背中を撫でていく中で、

そこに――微かな気配が残っている気がした。


見守られているような、

そっと背中を押されるような、そんな静かな温かさだった。


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