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十話 悪意の地

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気を静かに温めていく。

アラームの電子音がけたたましく鳴り響き、僕は半ば無意識に手を伸ばしてそれを止めた。


まだ眠気が残る頭で、昨日の出来事をぼんやりと思い返す。


桜翁に触れたとき、確かに聞こえた“声”。

遠く、歪んでいて、はっきりとは聞き取れなかったけれど——何かだった。


あれは誰のものだったのか?

桜翁そのものなのか、それとも別の何かの存在なのか。


分からない。


けれど、心に引っかかって離れない。


美琴に相談してみよう。そう思ったことを思い出した瞬間、少しずつ意識がはっきりしてきた。

僕は布団を跳ね除け、ゆっくりと身体を起こす。


今日の目的地は、廃工場。

美琴が「とても悪いものがいる」と警戒していた場所だ。


胸の奥で、小さな不安が波紋のように広がる。


軽く息を吐き、気持ちを引き締めた。

僕も、自分の身を守れるようにならなくちゃ——。


──


待ち合わせ場所に着くと、すでに美琴が立っていた。

後ろで束ねた髪が朝の光に映え、静かな佇まいが彼女らしい。


「お待たせ。」


そう声をかけると、美琴はいつものように優しく微笑んだ。


「おはようございます、先輩。」


この何気ない挨拶が、不思議と心を落ち着かせてくれる。

でも、今日は“遊び”じゃない。


これから向かうのは、危険な場所だ。


「では、行きましょうか。」


美琴が静かに言う。

僕は頷き、彼女と並んで歩き出した。


バスに乗り、約一時間——。

目的地へと向かう。


---


バスの中、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、昨日のことを思い返していた。


「想いが力になる」


——それなら、僕はやっぱり、美琴を支えたい。


そう思ったとき、昨夜の出来事が頭をよぎる。

桜翁の声——あれについて、美琴に話しておこう。


「そういえば、美琴。」


声をかけると、彼女がこちらを向いた。


「昨晩、眠れなくてさ。桜翁のところへ行ったんだ。それで、桜翁に触れたら……何か、声みたいなものが聞こえたんだよ。」


「声……ですか?」


美琴が小さく首を傾げる。


「うん。ただ、ぼやけてて何を言ってるのかは分からなかったけど。」


そう言うと、彼女は少し考え込むように目を細めた。


「……私も今度、確かめてみます。」


静かにそう告げると、ちょうどその時、バスのアナウンスが目的地の名前を告げた。


バスを降り、そこから徒歩で15分。


歩くたびに、空気が変わっていくのが分かった。

街の喧騒が遠のき、人の気配が薄れていく。


道すがらの建物はどれも古びていて、壁の亀裂から蔦が這い上がり、寂れた雰囲気を漂わせていた。


そして——。


「……着いた。」


廃工場の前に立ち、僕は思わず息を呑んだ。


目の前に広がるのは、長い年月を経て朽ち果てた巨大な廃墟だった。


かつては威圧的な存在感を放っていたであろう鉄柵は、今では赤錆に覆われ、ところどころ歪んで地面に沈み込んでいる。


その向こうに立つ工場本体は、灰色のコンクリート壁が風雨に削られ、ひび割れや剥がれた塗装が痛々しい傷跡のように広がっていた。


窓枠はガラスが割れて空洞となり、残った破片が鋭く尖って朝の光を鈍く反射している。


屋根の一部は崩れ落ち、むき出しになった鉄骨が骨組みのように突き出していた。

その鉄骨には錆がびっしりとこびりつき、まるで血が滲んだような赤褐色の染みが広がっている。

地面には雑草が無秩序に生え、ひび割れたアスファルトの隙間から顔を覗かせていた。

工場の入り口付近には、古びた看板が傾いて立っていて、「石津製鉄所」と薄れた文字がかろうじて読み取れる。

その看板の表面は剥げ落ち、錆と汚れにまみれて、かつての栄光を嘲笑うかのようだった。


だけど、それ以上に……。


この場所には、何か“異常”なものが満ちていた。


不気味な静けさ。

生ぬるい風が吹き抜けるのに、なぜか背筋が冷える。


「動画越しじゃ分からなかったけど……明らかにおかしい。」


隣で美琴も険しい表情を浮かべている。


「……先輩、これは……本当に良くない者が住み着いていますね。」


低く呟く声に、張り詰めた緊張が滲んでいた。


僕は喉を鳴らし、ゴクリと唾を飲み込む。


分かる。


何かが“いる”。

……いや、何がいるのかは分からない。


けれど、この場所全体を包む“異様な気配”は、嫌でも感じ取れた。

怨念が渦巻いているのだろうか?


いや、違う。これは——“悪意”だ。


冷たい風が吹き抜ける。


カラン……。


工場の奥で、鉄がぶつかるような微かな音が響いた。


僕たちは無言のまま、互いに深く息を吸い——。

ゆっくりと、廃工場の中へと足を踏み入れた。



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