朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気を静かに温めていく。
アラームの電子音がけたたましく鳴り響き、僕は半ば無意識に手を伸ばしてそれを止めた。
まだ眠気が残る頭で、昨日の出来事をぼんやりと思い返す。
桜翁に触れたとき、確かに聞こえた“声”。
遠く、歪んでいて、はっきりとは聞き取れなかったけれど——何かだった。
あれは誰のものだったのか?
桜翁そのものなのか、それとも別の何かの存在なのか。
分からない。
けれど、心に引っかかって離れない。
美琴に相談してみよう。そう思ったことを思い出した瞬間、少しずつ意識がはっきりしてきた。
僕は布団を跳ね除け、ゆっくりと身体を起こす。
今日の目的地は、廃工場。
美琴が「とても悪いものがいる」と警戒していた場所だ。
胸の奥で、小さな不安が波紋のように広がる。
軽く息を吐き、気持ちを引き締めた。
僕も、自分の身を守れるようにならなくちゃ——。
──
待ち合わせ場所に着くと、すでに美琴が立っていた。
後ろで束ねた髪が朝の光に映え、静かな佇まいが彼女らしい。
「お待たせ。」
そう声をかけると、美琴はいつものように優しく微笑んだ。
「おはようございます、先輩。」
この何気ない挨拶が、不思議と心を落ち着かせてくれる。
でも、今日は“遊び”じゃない。
これから向かうのは、危険な場所だ。
「では、行きましょうか。」
美琴が静かに言う。
僕は頷き、彼女と並んで歩き出した。
バスに乗り、約一時間——。
目的地へと向かう。
---
バスの中、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、昨日のことを思い返していた。
「想いが力になる」
——それなら、僕はやっぱり、美琴を支えたい。
そう思ったとき、昨夜の出来事が頭をよぎる。
桜翁の声——あれについて、美琴に話しておこう。
「そういえば、美琴。」
声をかけると、彼女がこちらを向いた。
「昨晩、眠れなくてさ。桜翁のところへ行ったんだ。それで、桜翁に触れたら……何か、声みたいなものが聞こえたんだよ。」
「声……ですか?」
美琴が小さく首を傾げる。
「うん。ただ、ぼやけてて何を言ってるのかは分からなかったけど。」
そう言うと、彼女は少し考え込むように目を細めた。
「……私も今度、確かめてみます。」
静かにそう告げると、ちょうどその時、バスのアナウンスが目的地の名前を告げた。
バスを降り、そこから徒歩で15分。
歩くたびに、空気が変わっていくのが分かった。
街の喧騒が遠のき、人の気配が薄れていく。
道すがらの建物はどれも古びていて、壁の亀裂から蔦が這い上がり、寂れた雰囲気を漂わせていた。
そして——。
「……着いた。」
廃工場の前に立ち、僕は思わず息を呑んだ。
目の前に広がるのは、長い年月を経て朽ち果てた巨大な廃墟だった。
かつては威圧的な存在感を放っていたであろう鉄柵は、今では赤錆に覆われ、ところどころ歪んで地面に沈み込んでいる。
その向こうに立つ工場本体は、灰色のコンクリート壁が風雨に削られ、ひび割れや剥がれた塗装が痛々しい傷跡のように広がっていた。
窓枠はガラスが割れて空洞となり、残った破片が鋭く尖って朝の光を鈍く反射している。
屋根の一部は崩れ落ち、むき出しになった鉄骨が骨組みのように突き出していた。
その鉄骨には錆がびっしりとこびりつき、まるで血が滲んだような赤褐色の染みが広がっている。
地面には雑草が無秩序に生え、ひび割れたアスファルトの隙間から顔を覗かせていた。
工場の入り口付近には、古びた看板が傾いて立っていて、「石津製鉄所」と薄れた文字がかろうじて読み取れる。
その看板の表面は剥げ落ち、錆と汚れにまみれて、かつての栄光を嘲笑うかのようだった。
だけど、それ以上に……。
この場所には、何か“異常”なものが満ちていた。
不気味な静けさ。
生ぬるい風が吹き抜けるのに、なぜか背筋が冷える。
「動画越しじゃ分からなかったけど……明らかにおかしい。」
隣で美琴も険しい表情を浮かべている。
「……先輩、これは……本当に良くない者が住み着いていますね。」
低く呟く声に、張り詰めた緊張が滲んでいた。
僕は喉を鳴らし、ゴクリと唾を飲み込む。
分かる。
何かが“いる”。
……いや、何がいるのかは分からない。
けれど、この場所全体を包む“異様な気配”は、嫌でも感じ取れた。
怨念が渦巻いているのだろうか?
いや、違う。これは——“悪意”だ。
冷たい風が吹き抜ける。
カラン……。
工場の奥で、鉄がぶつかるような微かな音が響いた。
僕たちは無言のまま、互いに深く息を吸い——。
ゆっくりと、廃工場の中へと足を踏み入れた。