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十一話 黒い残滓

廃工場の中は、まるで時間が凍りついたような静寂に支配されていた。


崩れかけた鉄骨が鋭く空を切り裂き、割れた窓から差し込む薄暗い光が、錆びついた機械の残骸に長い影を投げかけている。


床はひび割れ、積もった埃と鉄の錆びた匂いが鼻を刺した。


かつて「石津製鉄所」と呼ばれたこの場所は、今や朽ち果てた過去の遺物でしかない。


だが、それ以上に——。


この空間は、異様に空気が重い。


湿り気を帯びた、ねっとりとした空気。

まるで“何か”が今もここに張りついているかのような不快感が、肌を這うようにまとわりついてくる。


「……先輩」


美琴が小さく囁いた。

後ろで束ねた髪がふわりと揺れ、紅い瞳が真っ直ぐに僕を見つめている。


「あそこに霊の残滓があります」


彼女が指差した先を凝視する。

霊眼術を発動すると、黒縁メガネの奥で視界が一変した。


暗闇の中に、ぼんやりと揺らめく黒い靄——いや、怨念の塊のようなものが見える。

それは静かに漂いながらも、どこか獲物を待ち構えるような異様な存在感を放っていた。


「……」


美琴が手を伸ばし、慎重にその残滓を集めると、僕の掌の上にそっと載せた。


——瞬間。


氷の刃が突き刺さったような冷たさが指先を貫く。

それだけじゃない。

じわじわと、何か“濃いもの”が体内に侵入してくる感覚が広がった。


負の感情——とてつもなく濃密で、深いもの。


僕は霊眼術を通じて、その記憶を辿ろうとした。


——そして、一瞬にして。


“それ”が、僕を引きずり込んだ。


──


「はははは……」


低く、歪んだ笑い声が響く。


暗闇の中、フードを深く被った男がナイフを弄ぶように回している。

刃先には、乾いた血の痕がこびりついていた。


「ずっと……ずっと、こうしてやりたかったんだよ」


ゆっくりとした足音が、冷たい床に反響する。

男——黒崎は、目の前のスーツ姿の男を見下ろしていた。


「な……なにを……黒崎……やめろ……!」


恐怖に震える上司の声。

だが、黒崎の目には、それがまるで無意味な雑音のように映っている。


「どこ刺したら、すぐ死ぬと思う?」


黒崎が楽しげにナイフを傾ける。

喉元か、それとも心臓か。

考えるふりをしながら、じわじわと距離を詰め——。


——グサッ!!


「ぎ……ぁあぁっ!」


腹部に突き刺さる鋭い音が響き、赤黒い血が噴き出した。

上司の体がのけ反り、苦悶に歪む。


黒崎はそれを楽しげに眺めながら——。

ゆっくりと刃を引いた。


——ズズッ……


臓腑を裂く、不気味な音が空気を震わせる。


「やっぱ、ここはダメか。すぐ死んじゃつまらねぇしなぁ」


黒崎はナイフを振って、飛び散った血が壁に弧を描くのを満足げに見つめた。


「もう少し、苦しませてやらねぇと、つまらねぇだろ?」


上司の瞳が恐怖に震える。

それを見て、黒崎は口元を吊り上げ——。


——さらにもう一刺し。

今度は、喉元。


生暖かい血が、黒崎の指を濡らした。


──

場面が切り替わる。


今度は、震える女性の姿。

工場の奥、錆びた機械の前で、彼女は恐怖に満ちた瞳を見開いていた。


「や、やめて!! こっちに来ないで!!」


叫び声が響く。

だが、それが黒崎をより興奮させるだけだった。


「ははっ、こっちに来ないで? いいねぇ、それ。もっと言ってくれよ」


まるで恋人に甘えるかのように、黒崎は手を広げる。


「『黒崎さんって優しいですよね』……『今度またご飯行きましょう』……そう言ったの、誰だったかなぁ?」


黒崎の声が静かに冷え、瞳が妖しく光る。


「な、何……ただの……社交辞令……」


「社交辞令?」


次の瞬間——


——バキィッ!!


鉄パイプが、彼女の足を砕いた。


「ぎゃああぁぁっ!!!」


絶叫が、廃工場に木霊する。

ボキッ、ミシ……ミシ……ッ!!

骨が折れ、異常な方向へと曲がっていく。

皮膚の下で、何かが“動いている”のが見えた。


「社交辞令で男を弄んでいいと思ってんのかよ?」


黒崎の顔は歪んでいた。

楽しげに、嗜虐的に、心底嬉しそうに。


「“ごめんなさい”って言ったら、許してやるかもしれねぇよ?」


鉄パイプを振り上げる。


「……でもさ、お前が俺を弄んだ時間分だけ、“お返し”しねぇとフェアじゃねぇよなぁ?」


——ガンッ!!


再び、鈍い音。

女性の頭がぐらりと揺れ、床に倒れ込む。

血がじわりと広がった。


---


今度は…床にロープで縛られた男性。

頭から血を流し、ぐったりと横たわっている。

その横で、黒崎が重機の座席に座っていた。


「これさ、人体ってどこから潰れるんだろうな」


ゆっくりと、アクセルを踏む。


——ギュゥゥゥン……


重機のエンジン音が低く唸る。


「やめろ……やめろぉぉぉ!!」


拘束された男が絶叫する。


——ミシ……ミシミシミシ……


——バキィッ!!!


骨が砕ける音。


「あははははは!!!」


黒崎の狂気じみた笑い声が、工場内に響き渡る。

血まみれの床。

静かに息を引き取る被害者たち。

工場に漂う、鉄と死の匂い。


そして——


「ははっ……楽しかったぜぇ……」


しかし、その顔が次の瞬間、歪む。


「……チッ、そろそろか。」


遠くで、サイレンの音が聞こえる。


-──


黒崎は、ゆっくりと立ち上がり、工場の奥へと歩き出した。

足元の血溜まりを踏みつけながら、顔には不気味な笑みを浮かべている。


「警察だ!! 武器を捨てろ!!」


怒号とともに、懐中電灯の光が差し込む。

警官隊が廃工場内に踏み込んできた。


しかし——


「……ははっ。」


黒崎は笑う。

光に照らされながら、ただ静かに微笑んでいた。


その表情には、焦りも恐怖もない。

むしろ——

“終わりを待っていた”かのような、奇妙な安堵が浮かんでいる。


そして——


——視界が、途切れた。


---


「——っ!!」


僕は息を詰まらせ、現実へと引き戻された。


「先輩!」


美琴の声がすぐそばで響く。


視界が揺れ、まだ足元がふわふわと浮いているような感覚が残っていた。


手のひらは汗でじっとりと濡れ、指先には氷のような冷たさが張りついている。


……黒崎の最後の笑顔が頭をよぎった。あの笑顔が、なぜか意味深に思えてならなかった。



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