廃工場の中は、まるで時間が凍りついたような静寂に支配されていた。
崩れかけた鉄骨が鋭く空を切り裂き、割れた窓から差し込む薄暗い光が、錆びついた機械の残骸に長い影を投げかけている。
床はひび割れ、積もった埃と鉄の錆びた匂いが鼻を刺した。
かつて「石津製鉄所」と呼ばれたこの場所は、今や朽ち果てた過去の遺物でしかない。
だが、それ以上に——。
この空間は、異様に空気が重い。
湿り気を帯びた、ねっとりとした空気。
まるで“何か”が今もここに張りついているかのような不快感が、肌を這うようにまとわりついてくる。
「……先輩」
美琴が小さく囁いた。
後ろで束ねた髪がふわりと揺れ、紅い瞳が真っ直ぐに僕を見つめている。
「あそこに霊の残滓があります」
彼女が指差した先を凝視する。
霊眼術を発動すると、黒縁メガネの奥で視界が一変した。
暗闇の中に、ぼんやりと揺らめく黒い靄——いや、怨念の塊のようなものが見える。
それは静かに漂いながらも、どこか獲物を待ち構えるような異様な存在感を放っていた。
「……」
美琴が手を伸ばし、慎重にその残滓を集めると、僕の掌の上にそっと載せた。
——瞬間。
氷の刃が突き刺さったような冷たさが指先を貫く。
それだけじゃない。
じわじわと、何か“濃いもの”が体内に侵入してくる感覚が広がった。
負の感情——とてつもなく濃密で、深いもの。
僕は霊眼術を通じて、その記憶を辿ろうとした。
——そして、一瞬にして。
“それ”が、僕を引きずり込んだ。
──
「はははは……」
低く、歪んだ笑い声が響く。
暗闇の中、フードを深く被った男がナイフを弄ぶように回している。
刃先には、乾いた血の痕がこびりついていた。
「ずっと……ずっと、こうしてやりたかったんだよ」
ゆっくりとした足音が、冷たい床に反響する。
男——黒崎は、目の前のスーツ姿の男を見下ろしていた。
「な……なにを……黒崎……やめろ……!」
恐怖に震える上司の声。
だが、黒崎の目には、それがまるで無意味な雑音のように映っている。
「どこ刺したら、すぐ死ぬと思う?」
黒崎が楽しげにナイフを傾ける。
喉元か、それとも心臓か。
考えるふりをしながら、じわじわと距離を詰め——。
——グサッ!!
「ぎ……ぁあぁっ!」
腹部に突き刺さる鋭い音が響き、赤黒い血が噴き出した。
上司の体がのけ反り、苦悶に歪む。
黒崎はそれを楽しげに眺めながら——。
ゆっくりと刃を引いた。
——ズズッ……
臓腑を裂く、不気味な音が空気を震わせる。
「やっぱ、ここはダメか。すぐ死んじゃつまらねぇしなぁ」
黒崎はナイフを振って、飛び散った血が壁に弧を描くのを満足げに見つめた。
「もう少し、苦しませてやらねぇと、つまらねぇだろ?」
上司の瞳が恐怖に震える。
それを見て、黒崎は口元を吊り上げ——。
——さらにもう一刺し。
今度は、喉元。
生暖かい血が、黒崎の指を濡らした。
──
場面が切り替わる。
今度は、震える女性の姿。
工場の奥、錆びた機械の前で、彼女は恐怖に満ちた瞳を見開いていた。
「や、やめて!! こっちに来ないで!!」
叫び声が響く。
だが、それが黒崎をより興奮させるだけだった。
「ははっ、こっちに来ないで? いいねぇ、それ。もっと言ってくれよ」
まるで恋人に甘えるかのように、黒崎は手を広げる。
「『黒崎さんって優しいですよね』……『今度またご飯行きましょう』……そう言ったの、誰だったかなぁ?」
黒崎の声が静かに冷え、瞳が妖しく光る。
「な、何……ただの……社交辞令……」
「社交辞令?」
次の瞬間——
——バキィッ!!
鉄パイプが、彼女の足を砕いた。
「ぎゃああぁぁっ!!!」
絶叫が、廃工場に木霊する。
ボキッ、ミシ……ミシ……ッ!!
骨が折れ、異常な方向へと曲がっていく。
皮膚の下で、何かが“動いている”のが見えた。
「社交辞令で男を弄んでいいと思ってんのかよ?」
黒崎の顔は歪んでいた。
楽しげに、嗜虐的に、心底嬉しそうに。
「“ごめんなさい”って言ったら、許してやるかもしれねぇよ?」
鉄パイプを振り上げる。
「……でもさ、お前が俺を弄んだ時間分だけ、“お返し”しねぇとフェアじゃねぇよなぁ?」
——ガンッ!!
再び、鈍い音。
女性の頭がぐらりと揺れ、床に倒れ込む。
血がじわりと広がった。
---
今度は…床にロープで縛られた男性。
頭から血を流し、ぐったりと横たわっている。
その横で、黒崎が重機の座席に座っていた。
「これさ、人体ってどこから潰れるんだろうな」
ゆっくりと、アクセルを踏む。
——ギュゥゥゥン……
重機のエンジン音が低く唸る。
「やめろ……やめろぉぉぉ!!」
拘束された男が絶叫する。
——ミシ……ミシミシミシ……
——バキィッ!!!
骨が砕ける音。
「あははははは!!!」
黒崎の狂気じみた笑い声が、工場内に響き渡る。
血まみれの床。
静かに息を引き取る被害者たち。
工場に漂う、鉄と死の匂い。
そして——
「ははっ……楽しかったぜぇ……」
しかし、その顔が次の瞬間、歪む。
「……チッ、そろそろか。」
遠くで、サイレンの音が聞こえる。
-──
黒崎は、ゆっくりと立ち上がり、工場の奥へと歩き出した。
足元の血溜まりを踏みつけながら、顔には不気味な笑みを浮かべている。
「警察だ!! 武器を捨てろ!!」
怒号とともに、懐中電灯の光が差し込む。
警官隊が廃工場内に踏み込んできた。
しかし——
「……ははっ。」
黒崎は笑う。
光に照らされながら、ただ静かに微笑んでいた。
その表情には、焦りも恐怖もない。
むしろ——
“終わりを待っていた”かのような、奇妙な安堵が浮かんでいる。
そして——
——視界が、途切れた。
---
「——っ!!」
僕は息を詰まらせ、現実へと引き戻された。
「先輩!」
美琴の声がすぐそばで響く。
視界が揺れ、まだ足元がふわふわと浮いているような感覚が残っていた。
手のひらは汗でじっとりと濡れ、指先には氷のような冷たさが張りついている。
……黒崎の最後の笑顔が頭をよぎった。あの笑顔が、なぜか意味深に思えてならなかった。