僕の指先には、まだじんわりとした冷たさが残っていた。
記憶を読んだ直後の感覚が、まるで氷が皮膚に染みついたように離れない。
黒崎——。
あの狂気に満ちた男の声、乾いた笑い、鈍く響く骨の砕ける音。
その全てが頭の中にこびりつき、耳の奥で反響するように繰り返されていた。
胸が締め付けられ、息をするのも苦しくなる。
僕は小さく息を吐き、額に滲んだ汗を乱暴に拭った。
掌が湿って気持ち悪い。
「大丈夫ですか……?」
美琴が心配そうに僕を見つめる。
彼女の声に、微かな震えが混じっている気がした。
「……うん。ただ、かなり……キツいのを見た。」
「……一体何を見たんですか?」
美琴の瞳が、僕を真っ直ぐに見つめた。
その眼差しに、思わず言葉が詰まる。
「……残酷な殺人の場面だ。」
声が掠れた。
「黒崎が……何人もの人を、ナイフで切り裂いて、笑いながら殺していく光景。
あいつにとって、それはただの遊びだったみたいに……血と叫び声しかなかった。」
美琴の顔が、僅かに青ざめる。
「そんな……そんな残酷な光景を先輩は……」
彼女の声が震え、目を伏せた。
「すみません……私が代わりに見れば良かったですね……。」
その言葉に、僕は慌てて首を振る。
「いや、それは絶対にない。」
強く言い切ると、美琴が驚いたように顔を上げた。
「むしろ僕が見たことは幸運だった。
美琴にあんな残酷な場面は見せられないよ。」
喉が熱くなりながら、僕は続ける。
「君がそんな記憶に触れるなんて、想像しただけで耐えられない。
僕で良かったんだ。」
美琴の目が一瞬潤んだように見えた。
「……先輩。」
彼女は小さく息を吐き、かすかに微笑む。
「でも、私だって……先輩にそんな辛いものを見せたくなかったです。」
その声は優しく、けれどどこか切なげだった。
お互いの思いが交錯する一瞬、石津製鉄所の冷たい空気がほんの少しだけ温かくなった気がした。
でも、それも束の間——。
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カラン。カラン。
工場の奥で、何かが転がる音がした。
乾いた金属音が、廃墟の静寂を切り裂く。
美琴と同時にそちらへ目を向ける。
暗闇の中、機械の残骸の隙間から、ぼんやりと赤い影が滲んでいた。
錆びた鉄の表面に反射するような、不自然な光。
「……っ!!」
空気が変わる。
喉の奥が締めつけられるような感覚が広がり、息を吸うたび肺が冷たくなる。
寒気とも違う。戦慄とも違う。
これは——“本能的な拒絶”だった。
さっきの記憶で見た、あのフードの男。
黒崎——。
——いや。
“その亡霊”だ。
影のように滲む血の輪郭。
首筋に浮かぶ切り裂かれた跡——生々しく赤黒い傷が、暗闇の中で脈打つように見える。
そして、手に握られた、刃先が赤黒く染まったナイフ——。
それが、暗闇からゆらりと現れた。
廃工場の冷たい床を踏む音が、微かにギシッと軋む。
『……よぉ。』
低く、粘りつくような声。
まるで獲物を前にした蛇が舌を鳴らすような響きが、耳に絡みつき、背筋に冷たいものを走らせた。
僕は息を呑んだ。
喉が乾いて、言葉が詰まる。
『ガキ共 気に食わない気配出してんじゃねぇか』
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その瞬間——。
“空間の温度が変わった”。
息が白くなるわけでもないのに、肌の内側から凍りつくような感覚が広がる。
石津製鉄所の湿った空気が、急に重く澱んだ。
“こいつは、ただの霊じゃない”。
それが、直感で分かった。
今までの幽霊とは違う、明確な“殺意”がそこにあった。
美琴が静かに、一歩前に出る。
後ろで束ねた髪が微かに揺れ、肩が僅かに強張っているのが分かった。
普段の冷静さの下に、緊張が隠れている。
「待って美琴…!あいつ この廃工場で殺人を犯した殺人鬼だ……!」
そう僕は込み上げる吐き気を抑えて、美琴へ伝えた。