目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

十二話 殺人鬼の記憶

僕の指先には、まだじんわりとした冷たさが残っていた。

記憶を読んだ直後の感覚が、まるで氷が皮膚に染みついたように離れない。


黒崎——。

あの狂気に満ちた男の声、乾いた笑い、鈍く響く骨の砕ける音。

その全てが頭の中にこびりつき、耳の奥で反響するように繰り返されていた。

胸が締め付けられ、息をするのも苦しくなる。


僕は小さく息を吐き、額に滲んだ汗を乱暴に拭った。

掌が湿って気持ち悪い。


「大丈夫ですか……?」


美琴が心配そうに僕を見つめる。

彼女の声に、微かな震えが混じっている気がした。


「……うん。ただ、かなり……キツいのを見た。」


「……一体何を見たんですか?」


美琴の瞳が、僕を真っ直ぐに見つめた。

その眼差しに、思わず言葉が詰まる。


「……残酷な殺人の場面だ。」


声が掠れた。


「黒崎が……何人もの人を、ナイフで切り裂いて、笑いながら殺していく光景。

あいつにとって、それはただの遊びだったみたいに……血と叫び声しかなかった。」


美琴の顔が、僅かに青ざめる。


「そんな……そんな残酷な光景を先輩は……」


彼女の声が震え、目を伏せた。


「すみません……私が代わりに見れば良かったですね……。」


その言葉に、僕は慌てて首を振る。


「いや、それは絶対にない。」


強く言い切ると、美琴が驚いたように顔を上げた。


「むしろ僕が見たことは幸運だった。

美琴にあんな残酷な場面は見せられないよ。」


喉が熱くなりながら、僕は続ける。


「君がそんな記憶に触れるなんて、想像しただけで耐えられない。

僕で良かったんだ。」


美琴の目が一瞬潤んだように見えた。


「……先輩。」


彼女は小さく息を吐き、かすかに微笑む。


「でも、私だって……先輩にそんな辛いものを見せたくなかったです。」


その声は優しく、けれどどこか切なげだった。


お互いの思いが交錯する一瞬、石津製鉄所の冷たい空気がほんの少しだけ温かくなった気がした。

でも、それも束の間——。


---


カラン。カラン。


工場の奥で、何かが転がる音がした。

乾いた金属音が、廃墟の静寂を切り裂く。


美琴と同時にそちらへ目を向ける。


暗闇の中、機械の残骸の隙間から、ぼんやりと赤い影が滲んでいた。

錆びた鉄の表面に反射するような、不自然な光。


「……っ!!」


空気が変わる。


喉の奥が締めつけられるような感覚が広がり、息を吸うたび肺が冷たくなる。

寒気とも違う。戦慄とも違う。


これは——“本能的な拒絶”だった。


さっきの記憶で見た、あのフードの男。

黒崎——。


——いや。

“その亡霊”だ。


影のように滲む血の輪郭。

首筋に浮かぶ切り裂かれた跡——生々しく赤黒い傷が、暗闇の中で脈打つように見える。

そして、手に握られた、刃先が赤黒く染まったナイフ——。


それが、暗闇からゆらりと現れた。

廃工場の冷たい床を踏む音が、微かにギシッと軋む。


『……よぉ。』


低く、粘りつくような声。

まるで獲物を前にした蛇が舌を鳴らすような響きが、耳に絡みつき、背筋に冷たいものを走らせた。


僕は息を呑んだ。

喉が乾いて、言葉が詰まる。


『ガキ共 気に食わない気配出してんじゃねぇか』


---


その瞬間——。


“空間の温度が変わった”。


息が白くなるわけでもないのに、肌の内側から凍りつくような感覚が広がる。

石津製鉄所の湿った空気が、急に重く澱んだ。


“こいつは、ただの霊じゃない”。


それが、直感で分かった。


今までの幽霊とは違う、明確な“殺意”がそこにあった。


美琴が静かに、一歩前に出る。

後ろで束ねた髪が微かに揺れ、肩が僅かに強張っているのが分かった。

普段の冷静さの下に、緊張が隠れている。


「待って美琴…!あいつ この廃工場で殺人を犯した殺人鬼だ……!」


そう僕は込み上げる吐き気を抑えて、美琴へ伝えた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?