天暦七三二年、四月初頭。
アストレア王国の首都ヘンデルは、春の陽気に包まれながら、今日も人々の活気に満ちていた。大通りには色とりどりの露店が並び、行商人と買い物客が声を交わす。笑い声、呼び声、そして時折聞こえる怒鳴り声。それらすべてが、この都市の息吹となって響いていた。
六大国の一つ――その中心にあるこの街は、変わらぬ賑わいを見せている。
「……二年ぶり、か。ずいぶん様変わりしたもんだな。さすが、我が祖国ってところか」
王都の正門前に立つのは、漆黒の髪を持つ少年。夜の闇を思わせるその髪と、深い蒼を
「ルーク様、私はここまでで……」
「ああ。助かった」
淡々と礼を述べたルークは、
「さて……入試、受かるかな」
首都ヘンデルは、巨大な城壁に囲まれた都市。その中心には王城が構えられ、各方角の門から学園、ギルド、露店街へと枝分かれしている。西門には王立アストレア学園、東門には冒険者ギルドの本部。南門周辺は行商人の露店で溢れ、まさに
その賑わいの中を歩くルークの黒髪に、人々の視線が突き刺さる。すれ違うたび、
(まあ、そういう反応にも慣れたけどな)
この世界において、かつて存在した魔王は黒髪の持ち主とされていた。ゆえに、黒髪は「呪われた色」として忌避される風習が根強く残っている。ルークもまた、その宿命を背負って生きてきた。
――と、そのとき。
「ぐはっ!」
不意に、巨体の男が肩をぶつけてきた。骨の軋むような衝撃に、ルークの体が一瞬たわむ。が、すぐに立て直し、目を細める。男は腕を押さえて大袈裟にうめきながら睨みつけてくる。
刺青、刃こぼれした剣、乱れた身なり――路地裏のチンピラか、粗暴な傭兵か。
「おいガキ、どこ見て歩いてんだ! 詫びを入れろ!」
その後ろから、小柄な男が口角を吊り上げて言う。
「兄貴、こいつの髪……呪われた黒だぜ。気持ちわりぃなぁ」
その瞬間、ルークの瞳にかすかな光が宿った。冷たく、静かな氷のような光。
無言のまま、ただ男たちを見つめる。その視線は言葉よりも鋭かった。
「そいつで許してやるから、置いていけ」
腰の剣を顎で指しながら、薄ら笑いを浮かべる男。
ルークはため息混じりに首を傾ける。
「はぁ……まるで俺がぶつかったみたいな言い草だな。ガキに絡んでる暇があるなら、働けよ」
そう吐き捨て、歩き出そうとした刹那――
「てめぇ、呪われた分際で調子に乗んなよッ!」
男が大剣を振り上げた。
だが次の瞬間、ルークが剣の柄に手を添えたかと思うと、鋭い気配が走った。
気づけば男たちは地面に倒れていた。白目を剥き、意識を失っている。
その額には、一瞬だけ淡い青の光が浮かび、すぐに消えた。
「スラムのゴロツキの方が、まだマシだったな」
転がる男たちを
――通報により駆けつけた衛兵たちに、男たちは引きずられていった。
「治安、悪くなったな……余裕がないってのに。っと、あれか」
視線の先にそびえる、
その門前には、入学志願者たちが列を作っていた。
ルークもその列に加わり、やがて試験官のもとへと辿り着く。
「志願者だな。名前と出身を」
男の問いに、ルークはまっすぐ答えた。
「ルーク。出身はエルーラ」
その名に、試験官の眉がかすかに動く。
「エルーラ? “天剣の魔女”の拠点か。面白いな」
興味を含んだ声音で言うと、男は指を差した。
「まっすぐ進んで、闘技ホールへ。階段を上がって観客席につけ」
軽く頷き、ルークは学園内へと足を踏み入れる。
石造りの白い校舎、魔導灯が優しく灯る通路、華やかな花壇、そして歓迎の装飾――すべてが整然と整えられ、祭りのような空気を纏っていた。
在学生たちが行き交い、鋭い所作と静かな自信を身にまとっている。ルークは彼らを無言で観察しつつ、表情を崩さない。
(……さすが、名門の名は伊達じゃないな)
やがて、巨大な半球状の建物――闘技ホールが視界に入る。
圧倒的な存在感と威圧感。力を競い合うために造られた檻のようなその場所へと、ルークも足を踏み入れる。
指定された観客席に腰を下ろした直後、会場が暗転した。
静寂。そして、中央に一人の老人が姿を現す。背は曲がり、杖を持ちながらも、ただそこに立つだけで空気が張りつめる。
直感が告げる。何かが、始まる。
――次の瞬間、圧縮された魔力の波が場を包んだ。
ぐらり、と揺らぐ視界。周囲の志願者たちが次々と席から崩れ落ちていく。意識を手放すように。
ただ一人、ルークだけが座ったまま老人を見据えていた。
焦りも、驚きも、恐れもない。
その瞳に宿るのは、静かな興味と――わずかな警戒心だけだった。
だが、この静寂の奥底には、誰も予期せぬ嵐の兆しが――確かに潜んでいた。