――これは、ルークが“彼女”に出会い、魔法を知った、すべての始まりの物語。
時は遡ること六年前。天歴七二六年。
アストレア王国・首都ヘンデル。その片隅に広がるスラム街の細い路地を、一人の少年が駆け抜けていく。
「見て、あの子よ……」
「ああ、噂の“呪われた子”か。魔力がないって話だぜ」
ひそひそと、だが確実に届くように、冷たい視線と声が少年に浴びせられる。
ぼさぼさの黒髪は闇のごとく濃く、瞳は夜の海を思わせる深い青。その腰には、護身用と思われる小さな短剣が差されている。それを少年は、まるで自分の存在を証明するかのように強く握りしめていた。
年端もいかない。まだ十にも満たぬその少年は、この世界で忌み嫌われるすべてを背負っている。
黒髪は不吉の象徴――さらに魔力を持たずに生まれたため、彼は“呪われた子”と呼ばれ、親にすら捨てられた。
人々は彼を恐れ、忌み、石を投げ、憎しみの言葉を浴びせ続けていた。
「どうして、僕が……僕だけが、こんな目に……ッ」
吐き出すような悔しさに、頬を伝う涙。少年はそれを袖で乱暴に拭うと、腰の短剣の柄をぎゅっと握りしめ、決意を込めた目で前を見据える。
「見返してやる……絶対にッ!」
誰にも聞かせるつもりのない誓い。だがその声には、燃えさかるような意思が宿っていた。
少年が目指すのは、街の外れにある“封鎖区域”。魔物の出現により立ち入りを禁じられた、鬱蒼とした森だ。
そして今、彼はその森の入り口に立ち、深く呼吸をする。
手の中の短剣を抜き放ち、少年はそのまま静かに森の中へと足を踏み入れた。
――その瞬間、ブワッと大きな風が吹き抜ける。
まるで「来るな」と言わんばかりの風だった。木々がざわめき、枝が揺れ、葉が舞う。
だが、少年の足取りは止まらない。むしろ、風を切るように一歩、また一歩と森の奥へ進んでいく。
木々が生い茂った森には、太陽の光すらほとんど届かない。空気は重く、湿っていて、視界も悪い。
どこか遠くから、魔物と思しき唸り声が微かに響いた。
少年は立ち止まり、短剣を両手で構える。その手がかすかに震えているのは、恐怖か、あるいは――。
フーッ……。
小さく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
震えを押さえるように、少年は短剣を持ち直し、視線を巡らせながら森の奥を見据えた。
視界は悪く、はっきりとは見えない。それでも、草木がざわめく音や、踏みしめられた枝の折れる音が耳に届く――それだけで、少年にはわかった。
すでに魔物たちに囲まれている。
それは、過酷な日々を生き抜く中で身につけた、生存のための鋭い勘だった。
「僕は……強くなるんだ……! かかってこい、魔物ども! 僕が――僕が相手だッ!」
少年の叫びが森中に響き渡り、それに驚いた鳥たちが一斉に飛び立つ。
すると、木々の隙間から赤い光が現れた。狼の姿をした魔物が、四方八方から現れ、赤く怪しく光る眼を少年に向けてくる。
少年の額にじわりと汗がにじむ。思わず一歩、後ずさった――その瞬間だった。
魔物たちが一斉に襲いかかってきた。
少年は
再び包囲され、四方から襲いかかる魔物たち。
少年も反撃の意思を捨ててはいない。歯を食いしばり、敵の懐に飛び込むと、狙いを定めて一体の首元へ短剣を突き立てた。
だが――武器が短剣である以上、リーチが足りない。
魔物たちは、容赦なくその小さな体に噛みつき、少年を地面へ押し倒した。
「ぐああぁあぁああッ!」
悲鳴が、森の奥深くまで響き渡る。
少年はもがき、必死に魔物の群れを振り払った。だが、既に足も腕も、胴体までもが血に染まり、深い傷からはとめどなく血が流れている。
地面には一体の魔物が倒れているが、それ以外は軽傷で済んでいるのか、未だに少年を囲み、唸り声を上げて威嚇していた。しかも――その血の匂いに引き寄せられたのか、新たな魔物たちが森の奥から続々と姿を現していた。
少年の視界は、すでにぼやけはじめていた。魔物の姿も、もうはっきりとは見えない。力が入らず、握っていた短剣が手から滑り落ち、地面に突き刺さる。
そのまま少年の身体は、力なく地面に崩れ落ちた。
魔物たちの走る音が、かすかに耳に届く。
しかし――もう、指一本動かす力も残っていない。
少年は声を発することすらできず、その場で静かに、そして確かに――死の淵へと沈んでいった。
魔物たちは牙をむき出しにし、少年にとどめを刺さんと一斉に襲い掛かる。少年はついに死を悟り、その頬を一筋の涙が滑り落ちた。
しかし、次の瞬間——。
大きな声が森中に響き渡り、辺り一帯がまばゆい光に包まれる。
「聖なる光にてその邪悪の根源を打ち払わん!《ホーリーレイ》!」
少年は、光の中にかすかに浮かぶ人影を見つけたその瞬間、意識を手放した。
再び目を覚ましたのは、それから四日後のことだった。
ぼんやりとした視界の中、まず見えたのは見覚えのない天井。そして、自分の体に巻かれた包帯の感触が、確かに治療されていることを示していた。少年は上体を起こそうと力を入れるが、全身に鋭い痛みが走り、うまく動けない。
仕方なく、顔だけを横に向けて部屋を見渡す。
木造の温もりを感じさせる部屋には、きれいに整頓された本棚と小さな机。床には獣の毛で織られた柔らかな絨毯が敷かれ、壁には数々の賞状が飾られている。
ここはどこなのか。自分は助かったのか。
疑問ばかりが頭をよぎる中、正面の扉が静かに開く。
「ん? おー、目が覚めた?」
入ってきたのは、背は低いが凛とした顔立ちをした美しい女性だった。
長く流れるブロンドの髪に、どこか見透かすような薄いグレーの瞳。女性らしい曲線を持ちながらもスラリとしたスタイル。街ですれ違えば誰もが振り返るような美貌だ。ただ、彼女の腰に帯びられた場違いなほど大きな剣だけが、その印象に不釣り合いだった。
「まだ痛むでしょ? 四日で意識が戻っただけでも、すごいことだよ」
彼女はベッドの端に静かに腰を下ろすと、少年の額に手を当てる。
「んー、熱はもう大丈夫そうかな。あと二日もすれば、痛みはあっても動けるようになるよ」
「あの……あなたは……?」
状況がつかめず、不安げに少年が問いかける。
「うーん、それはまた今度話そうかな。僕も聞きたいことがあるしね」
そう言って、彼女は再び少年の額に手をかざす。淡い光の粒が少年を包み込み、少年はまるで導かれるように、再び穏やかな眠りへと落ちていった。
そして、彼女が言っていた“二日後の朝”。
窓から差し込む陽光に照らされて、少年は目を覚ました。ぼんやりとした意識の中、記憶に残る言葉を思い出しながら、そっと体を起こす。痛みはあるが、確かに動ける。
ゆっくりとベッドから降り、部屋の扉を開けて廊下に出る。いくつかの部屋が並んでいるようだったが、少年は左側にある階段を下りた。
階下には、暖炉のある広い空間が広がっていた。大きな机と椅子、そしてキッチン。置かれている家具や装飾から、ここがリビングだと察することができる。
少年はかつて、両親に捨てられたあと、今は亡き祖父に育てられた。祖父が亡くなってからは、形見の短剣を手に貧民街で独り生きてきた彼にとって、人の温もりが残るこうした空間は久しぶりで、どこか懐かしさを覚えた。
少年が周囲を見渡していると——。
玄関の扉が音を立てて開いた。