沈黙の中、男が懐から何かを取り出す。
淡い光を帯びた、小さな丸薬瓶だった。
「――限界はすぐそこだ、ミレーナ。だが、お前なら越えられる」
その声は、蛇のように甘く、芯に毒を含んでいた。
「……何、それ」
ミレーナが足を止め、息を整えながら問い返す。
「《灰核の丸薬》。摂取すれば、身体マナの総量が飛躍的に拡張される。ただし――魔素の含有量が高く、適応できなければ副作用が出る」
「副作用って……魔物化?」
「一時的な適応不全に過ぎん。制御さえできれば、真の力を手に入れられる。お前なら、それができる」
ルークの中で警鐘が鳴った。
(やめろ……ミレーナ、聞くな……!)
声に出せないまま、ただ茂みの陰から息を潜める。
男は言葉を続けた。
「天剣の魔女・エイネシアの“
ミレーナの瞳が、わずかに揺れる。
「彼女が選んだのは、君じゃない。元は身体マナすら扱えなかった呪われた者――ルークだ」
その名が出た瞬間、ミレーナの肩がビクリと震えた。
「わたしは……ずっと努力してきた。剣も、魔法も、誰にも負けないように……それなのに、どうして……!」
赤い瞳が、憎しみに似た色を灯す。
「なんで、あんな呪われたやつが……私じゃなくて、あいつが、選ばれたの……!」
「飲め、ミレーナ。君の力を証明するんだ。自分自身に、あの女に、そして……あの少年に」
男が差し出した小瓶を、ミレーナは震える手で受け取る。
(やめろ――!)
ルークの全身が強ばる。思わず足が前へ出た。
「やめろ、ミレーナ! それはお前を壊すッ!」
声が森に響く。茂みから飛び出すルークに、ミレーナが
「ルーク……!? なぜ、ここに……」
「そいつから離れろ! そいつは〈灰の焔〉の……!」
「うるさいっ!」
ミレーナが怒鳴った。その瞳には、怒り、悲しみ、そして
「お前にだけは……言われたくない……っ!」
彼女は、迷いなく丸薬を口に運んだ。
ルークが叫ぶより早く、それは彼女の喉を通った。
「ミレーナッ!」
淡い光と共に、魔素の
地面が震える。空気が軋む。木々がざわめき、魔力が渦を巻いた。
ミレーナの髪がふわりと宙を舞い、瞳が深紅に染まる。
「……すごい、これ……力が、溢れてくる……っ」
声が上ずっていた。
だが――ルークは、見逃さなかった。
ミレーナの右腕。その皮膚の下で、黒い紋様のようなものが浮かび上がっていた。
鱗のような変質が、じわじわと指先へ広がっていく。
(クソッ、……始まった)
魔物化の初期兆候。これが進行すれば、完全に人としての理性を失う可能性がある。
「ミレーナ、止まれ! お前は、今ならまだ――!」
だが、彼女は聞いていなかった。
むしろ、笑っていた。
「見てるんでしょう? エイネシア様……ルーク……私の力、ちゃんと見てなさいよ……!」
爆発寸前の魔力を背負いながら、ミレーナが剣を手に取る。
(止めるしかない。もう――俺がやるしかない!)
――刹那、地を蹴ったミレーナの姿が、視界から消えた。
「っ……!」
ルークが剣を振り上げるより早く、彼女の斬撃が迫った。
重く、速い。体術に魔力が上乗せされた一撃は、かろうじて防御の構えを取ったルークの身体を後方へ弾き飛ばした。
「く……!」
腕が痺れる。距離を取って体勢を立て直すが、ミレーナは間髪入れずに追撃してくる。
「どうしたの!? “弟子様”! その程度なの!?」
刃と刃がぶつかるたびに、爆ぜるような魔力の衝撃波が走る。森の枝葉が次々に吹き飛ばされ、まるで嵐が吹き荒れるようだった。
(強い……こんなに、変わるのか……)
これが、丸薬の力。否、力という名の毒だ。
ミレーナの顔は、紅潮していた。戦っているというより、快楽に呑まれているかのように。
「ルーク……あんたにだけは、負けたくなかった……! 私のほうが、ずっと頑張ってた! ずっと、ずっと……!」
剣を振るうたびに、叫びが乗る。
そのすべてが、ルークに突き刺さった。
「俺は、お前と競ったつもりなんて……!」
「うるさいッ! お前が認められた時、どんな気持ちだったか、知らないくせに!」
感情の
ミレーナの右腕――完全に黒い鱗に覆われていた。関節の角度が人のものとは違っている。肘の先から爪のような角質が伸び始めていた。
(まずいな……もう、限界が近い)
このまま放っておけば、理性を失い、完全な魔物になる。そうなれば、彼女を止める手段は一つしかなくなる。
(殺すしか、なくなる……)
ルークは奥歯を噛みしめた。
「まだ、戻れる……。 ミレーナ、お前はまだ“人間”だ!」
「うるさい……うるさい、うるさいッ!」
ミレーナの剣が振り下ろされる。ルークは体を低く沈め、懐に飛び込んだ。
(……いける!)
渾身の一撃――剣の柄の部分を、ミレーナの腹部に向けて叩き込む。
「くぅ……っ!」
そのまま、ルークは剣を捨て、彼女の両肩を掴む。
「……ミレーナ。お願いだから、戻ってこい。こんな力で、お前が壊れるなんて――そんなの、見たくない」
魔力の波が、ぶわりと空間を揺らした。
ミレーナの赤い瞳が、一瞬だけ大きく見開かれる。
「……ル、ー……ク……?」
次の瞬間、魔素の光が弾け――そして、霧のように散った。
ミレーナの身体が崩れ落ちる。ルークは慌ててその身を抱き留めた。
「……気絶、しただけか」
彼女の腕からは、徐々に鱗のような変異が引いていく。呼吸はある。心音も安定していた。
(ギリギリ……間に合った)
剣を交えたわけでも、圧倒したわけでもない。ただ、気持ちが届いた。それだけで止まった――奇跡だった。
「……ありがとう。戻ってきてくれて」
ルークが静かにそう呟いた時だった。
――カツ、カツ。
規則的な足音が、森の外から響いてきた。
(この音……鎧の、それも複数人……)
すぐに、数名の騎士の影が木々の間から現れた。
「誰だ! そこにいるのは――」
ルークは振り返らず、ただミレーナの身体を守るように膝をついたまま、目を細める。
だがそれとは別に、森のさらに奥。騎士団の到着とは違う、もっと遠くで気配が揺れた。
(……誰か、見てた……?)
もう一人、“何者か”がこの一部始終を、どこかから見ていた。
その視線だけが、冷たい夜風の中で確かに残っていた。