自然と目が開いた。
清潔な白い天井と壁を、足元の窓から入る朝日が照らしている。
とても微妙な疲労感がある。
お腹が膨らむのを感じながらゆっくりと息を吸って、鼻からいきおいよくフーッという音を聞きながら吐く。仰向けのお腹の隣にある右手を持ち上げて。
僕は顔を擦り、頭を掻いた。
体を起こして体の向きを変えて、足を下ろす。ベッドに腰掛ける体勢のまま、数秒動かなかった。
まだ開ききらない目を前へ向けると、窓側に近い背の高い棚がたっぷりと陽を受けて、隣の勉強机と、またその隣のスライドドア、窓から一番遠い壁に沿って置いてあるタンスに、影を落としていた。
全て白で統一されている家具が、朝9時の陽光と影によって優しく色付いている。それを見るとなんだか、またゆるゆると力が抜ける感覚があった。
マットレスに沈んでいた右手を、顔あたりまで持ち上げる。人差し指と親指を立て、2回、指の腹をトントンと叩き合わせた。
「おはようございます、ランプ様。」
ルームAIが立ち上がり定型分を話す。
二の腕を太ももの上にベタリと落としながら
「ん。電気つけて、窓、鏡にして」
日差しを取り込んでいた窓に突如上から下まで数十の線が渡され、それが範囲を拡大させてくっつきあうと、高さ2mの窓は部屋全体を映す鏡になった。
日差しが無くなるのと同時に、ヒュウーンといった音とともに、天井に等間隔でつけられた2つの円盤照明が部屋を照らした。
先ほどの光とは打って変わって、遠慮のない機械的な明かりだ。その差の強さに目を閉じ、鏡の方へ顔を向けてから目を開けた。
黒髪に、ボサボサと付いた寝癖。
整形を行っていない標準Dタイプの顔面。
鏡に映った、だらしのない化身を見ると、やっと目が覚めてきた。
マットレスのバウンドを利用して立ち上がる。ゆったりとした寝巻きがワサワサと揺れて素肌をコスってくる。ペトペト素足で床を踏んで鏡に近づいた。
少し前屈みになって、右手を手櫛にしてモサモサと重力に反して立ち上がる髪の毛に突っ込んだ。5本の指の間に髪の毛を挟んで、上に持ち上げる。
めんどくさい。
さっさと服装を選択して朝食を済ませたいのに、これを直すのに一旦ミストを浴びないといけないのが本当に億劫だ。
同い年の子は、起きた時に服装と髪型を選択できるのに、なぜ僕だけこんな手間をかけなければいけないのか。
「ランプ! 起きてるならさっさと出てきなさい」
リビングの方からおばあちゃんが声をかけてきた。
今回はあなたの目覚ましの10分前に起きたのだから、少しの間放っておいてほしい。
僕は口をへの字に曲げて何も答えず、鏡を見ながら髪をイジるのを続けようとすると
「どうせまた鏡見てなんか考えてるんだね! ウジウジしてないでさっさとミスト浴びてきな! 5分もかかりゃしないんだ、悩んでるより体動かしな!」
「……カメラつけた?」
「あんたが分かりやすいの!」
ミストルームに入ると、自動的に寝巻きが分解され情報子となって溶けた。
人が一人寝転べる程の空間で、目の前には床と天井を繋ぐ2.5mの全身鏡、横の壁にはいくつもの穴が空いている。黒に近い灰色の壁を、ふんわりと天井から照明が照らしていた。
真ん中に立つとすぐ、シュワシュワと囁くような音とともに穴から煙が僕へ向けて振り掛けられる。10秒も立たないうちに、髪の毛がベタリと肌に張り付き、水滴をボタボタと落とし始めた。
「準乾燥、お願い」
バチン、と音が鳴ってミストが停止し、ブウゥーンという低音と共に、体の表面についた水分が乾いていく。目に見えるものは何もないが、地肌の感覚的にわかる。
少しだけしっとりとした水分を残して機械は停止。ミストルームから出て、ミストとリビングを繋ぐ部屋に来ると、左の壁の一部が開いて、タオルを準備してくれている。
右の壁にはまた全身が入る鏡が配置されていて、それを見ながら、体を拭いていった。
「秋制服」
「直立状態を維持して下さい」
タオルを置いてあった場所に置くと壁のハッチが閉まる。
僕は背筋を伸ばし、足を肩幅に開き、両手の指を組んでお腹の下に置いた。
首から下と手首を残して、情報子光がワラワラと僕を包み込む。
3秒ほどののち、白い長袖Yシャツとスラックス、少し厚手の靴下とローファーを僕は身に纏っていた。
左手で取っ手を掴んで、リビングへ続くドアをスライドした。
廊下を挟んで、カウンターと奥のキッチンが先ず目に入る。
左には廊下の奥にお手洗いのドアと玄関があって、右はリビングになっている。
玄関から逆側の壁は全て窓になっていて、僕の部屋を照らしていた日差しが、通路やキッチンが壁で遮られていない広々としたリビング全体を照らしていて気持ちがいい。
リビング中央には四人用のガラステーブルと片側に並んだ2脚の椅子。その椅子の向かいに、僕が両手をめいいっぱい広げても両端に届かない大きな壁掛けディスプレイがある。
僕は窓側の椅子に座った。寝起きから色々整った心と体に、日差しの暖かさが心地よかった。
ディスプレイが立ち上がり青一色の画面が出た。
そこには極力デフォルメされた、二つの目と口と、口の横に一本だけ書かれたほうれい線を持つ、ドットで描かれた人の顔がある。
「いいかい? 確かにあんたは寝癖を直す手間があるけどね、それしてないあんたの同級生はゼロじゃなくて『ほとんど』なのよ」
ドットの口と表情が、おばあちゃんの言葉と連動して動く。
「わかってるよ、姉さんにも言われたし。でもそいつらは好きで生体を残してるんだ。僕は機械化できるならそうしてる」
「うちはうち、よそはよそ! 家庭の数だけ都合ってものがあることを15にもなってまだ理解してないのかい! しかもね! その程度でめんどくさがってたらいけないよ! さっさとやることやるって思考にサッと切り替えるのよ! サッとねぇっ!」
「腹減ったよもう」
おばあちゃんは不満そうに口を閉じて僕を睨む。
「ふん! そうだね、あんまりうるさくなってもだね! 気分はなんだい」
「んー、コーンスープ飲みたいかも」
「パンと飲み物」
「食パン1……いや2つで。あと牛乳」
「20秒でできるよ」
一件落着とみて、僕は小さくため息をついた。ディスプレイのドットはそんな僕を、眉を上げて探るように見ている。
身体さえ捨てて、電脳のみの存在となった自分がそんな説教をすることに、この人は違和感を持っていないのだろうか……。
いや、うーん。そんな違和感さえも飛び越える胆力があるというべきなのか。
ずっと前、おばあちゃんにそういうことを聞くのが怖くて姉さんに相談してみた時、そんな答えが返ってきた気がする。
「姉さんは?」
「ん、今日アンナは、ああそうだ。」
おばあちゃんは自分の表情画面をワイプのように小さくして、地図アプリを立ち上げる。
地表地図が出ている。僕たちの住む地表居住区画B(SR-B)の周辺が書かれている。
地図が一瞬大きくズームアウトすると、SR-Bから数十km離れた、研究棟Dの地表区画にグッとズームされた。
「あんた、午後の学習は免除されてね。その代わり、D研究棟に届けてほしいものがあるらしいよ」
「あー、ロトールさんって人だったかな、前にもなんか届けた」
「ふむ、そうだね、そんな名前だったかしらね」
地図の上にまたメールアプリのウィンドウが立ち上がり、姉さんのメールの文面が開かれる。
学習の免除手続きは済ませていること、研究棟D-4駅に行けばロトールがその場にいるだろうということ、運ぶものについては特に言及されていないし、あまり大したことも書かれていない。
職員同士の貸し借りは、管理センターAIのワンクッションが必要になる。特に現実に形のあるものについては処理が後回しにされるらしく、そこまで重要でもない情報媒体の送付完了に3日近くかかったらしい。そういう面倒を嫌って、姉は私的な目的に限って僕にこういうお願いをちょくちょくしていた。ほとんどの場合届けるものは「紙の本」だ。
結構グレーらしいが、逆にやってない職員も少ないという。
ディスプレイとキッチンの間、先ほどのタオルのように壁が開いて、そこに注文したものが美味しそうな煙を立てながらワンプレートに収めて置いてある。
「そういう事だから、4時限目が終わったら、研究棟の受付に顔出してあげなさいな」
「わかった」
椅子から立ち上がって、そんな話を聞き、答えながらプレートを取って振り返りテーブルに置いて、自分の座っていた場所へ滑らせた。
カップの中でコーンスープが揺れ、フチから少しだけ溢れた。透明なガラスの天板に、濃い黄色の点が出来た。
「あっ」
「全くも〜っ、その程度の距離手で持って行きなさいよあなたは! そんな変に滑らせるみたいなことするからあんたは〜……」
そんな小言を聞きながら、朝ごはんを済ませていく。スープに浸したパン、それを牛乳で流し込むのがめちゃくちゃおいしかった。
機械化による味覚の変化については様々な議論がある。というか、ほとんどの人は生体時と変わらないと言ってるけど、どうにも首を縦に振らない人たちがいると言う感じ。でも実際、生体を全く残している僕は、結構味覚の機械化に恐怖を感じていたりいなかったりする。
おばあちゃんに姉のメールを学習区画に置いてある僕の端末に送っておいてもらった。面倒だから端末を持ち歩けと小言を言われるが、ただでさえ標準の顔情報を使っているのに、端末を手でいじくるなど絶対にしたくない。
ここ、恒星アルトリウスのハビタブルゾーンに位置する地球類似惑星アルターでは、電脳化と同時に全身機械化をした人格が、人口の5割以上を占める。
攻撃的な差別などという原始人類の特性が蘇る事もないが、全生体を残す僕は、どうしても奇異の目を向けられる。
「都合がある」のだと、おばあちゃんは言った。
子供は生まれると、政府公認の保護者に託される。僕にとってそれは、おばあちゃんとアンナ姉さんだった。
姉さんは僕が生まれてから今までの14年間、一切の機械化を許さなかった。
「そうだね、18になったら解禁しようか」
僕が一週間苦しんで生み出した覚悟に対して、彼女は微笑み、ケロリとそう答えた。あまりにも自分の力みが空振りになってしまったからなのか。
「なぜなのか」と聞くことを忘れ、今も聞くタイミングも掴めないでいた。