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第一話 季節外れの真夏日に悪魔来たりて笛を吹く


 GW明けの本日は夏のような暑さ、と天気予報士が告げる。今日の最高気温は三十度を越えるらしい。

 今がまるで真夏のような暑さであっても、これから来る本物の夏はもっと暑いのだろう。想像するだけでうんざりする。この調子で温暖化が進めば、五十年後には人間が住める場所はほとんどないんじゃなかろうか。今の内に死んだ方が得な気さえしてくる……と夢想しながら、ベーグルをかじった。モサモサしているそれを牛乳で流し込む。


『熱中症にお気をつけください』


 同じく天気予報を見ていた父が気象予報士の言葉を受けて、僕に優しく微笑む。


「優、しっかり水分補給してゆっくり休んでるんだよ」


 それはつまり、僕の登校を少しも期待していないことを意味していた。

 父は、この連休中何度僕がスクールバックの中身を確認したかを知らないし、母が今日のために制服にアイロンをかけてくれたことも知らない。なぜなら彼はほとんど家に帰れないぐらい忙しいからだ。

 だから彼の発言は全くもって仕方ないことだ。


「……そうだね……家にいるよ……」


 しかし彼のその不用意な言葉は僕の心を折るには十分だった。要するに本日の登校チャレンジは終了。僕はベーグルを食べる気力もなくし、今すぐ消えたい気持ちで一杯になった。

 それを悟ったであろう母は女神のように美しく微笑む。


「あなたは実に愚かね」

「え、……あっごめん! そうじゃなく、うぐっ……、……」


 父が弁解する前に、彼のうなじに母の手刀が落ちた。


「優……コレは悪い人じゃないの、頭が悪いだけ。許してあげてね」


 その通りかもしれないがコレ呼ばわりはひどかろう、とは思ったが、僕はいい返してあげられなかった。何故なら父がそこで昏倒していたからだ。

 牛乳を飲み干し立ち上がる。


「僕、部屋にいくね……」

「あとでジュース持ってくわね」

「ありがとう、お母さん」


 リビングを出て、階段をのぼり、自室に戻った。階下から更なる打撃音が聞こえたけど、気のせいということにした。





 僕が高校に通えなくなってから一ヶ月が過ぎた。

 国立暮東大学附属高等学校こくりつくれひがしだいがくふぞくこうとうがっこうが『自立』をモットーにしている高校とはいえ、入学式から欠席し続けている生徒ぼくに先生から連絡がひとつもないのはどうなのかと思う。とはいえ今さら連絡が来たところで困るというのが正直なところだ。

 休んだ直後ならまだしも一ヶ月も休んでしまうと、絶対白い目で見られるとか、友達できないとか、いじめられるとか、色々と考えてしまう。最近じゃ学校のことを考えると足がすくんでなにもできなくなるぐらい、僕は学校が『怖い』。

 でも僕が『こう』なった理由は高校ではなく、二ヶ月前に卒業した中学にある。

 僕の通っていた公立中学では、殴り合いこそなかったが、いつも誰かが誰かを嫌って、誰かが誰かにマウントをとっていて、誰かが誰かを無視している状態だった。その中で僕は、いじめられることこそなかったけどいつも誰かに嫌われて、無視されて、誰かのヘイトに付き合わされていた。

 それは僕にとって辛いことだと気がつかずに、僕は三年間頑張り続けてしまった。結果、卒業式直後に僕の体は壊れた。

 いくら寝ても眠い。食欲もない。なにもしたくない。なにも聞きたくない。起こされても起き上がれず、泥のように眠り続けてしまう。一週間で五キロ痩せた。

 カウンセリングの結果、僕は学校へのストレスも自覚した。一度自覚してしまうと、もう学校に通うなんて無理だった。

 だから、頑張って折角受かった高校だったけど、通えるビジョンは少しもわいてこない。どうにかしないととは思ってはいるけど思っているだけで、気がついたら一ヶ月過ぎていた。


「……連休明けなら、通い出しやすいと思ったんだけどな……」


 このままだと退学になるだろう。

 ……いっそそうなれば諦められるのだろうか……それとも、今よりずっと辛くなるのだろうか……死んでも許されるだろうか……こんな迷惑しかかけない僕は、いつまで生きなきゃならないんだろう……。


 ――コン、コン。


「優、開けていい?」


 控えめなノックと控えめな母の声。


「いいよ」


 ドアが開くと、お盆の上にジュースをのせた母が入ってきた。彼女は床に座り込んでいる僕と、僕のかかえていたスクールバックを見て悲しそうな目をした。

 僕だって母にそんな顔をさせたい訳じゃない。でもどうしたらいいのかわからなくて、僕は母から目をそらした。


「……今日はなにをするの、優?」

「……、……昨日の続きで、……リモコン探しくん作る」

「素敵ね。できたら見せてくれる?」

「うん……ごめんね、お母さん」

「いいのよ」


 母は僕の机の上にジュースをおくと、「またあとで来るわね」と出ていった。

 残された僕はスクールバックをおいて、リモコン探しロボット作成を昨日の続きから始めることにした。パーツを並べていると鼻の奥が熱くなってきて、視界が揺れ始める。

 どうして僕はこんなに弱いんだろう。


「情けない……」


 自分でいうまでもなく、僕は本当に情けないやつだった。





「ンー……集めてはこれるけどなあ……」


 リモコンに事前に発信器をつけて、本体で回収してくる。それだけのことなのに、勝手に設定を変えたり、勝手に起動させてしまう不具合が多い。

 こんなに暑いのに間違って暖房などつけてしまったら、老人や赤子しかいない空間だったら死人が出かねない。


「……ロボは現実性がないなあ……人間は機械に落とせない……」


 仕方がないので方向転換することにした。


「なんかいいパーツ残ってたっけ……」


 机の下に潜りパーツ箱を取り出す。

 前に作ったものの余りやサイズ違いなどを溜め込んでいる箱だ。こんなの、もちろん世間からしたら全部燃えないゴミだろう。

 ……僕と同じだ。役に立たなくて、集団から残されて、仕舞われている。


「……、ゲホッ」


 喉の奥になにかつまっている錯覚。ヒューヒューと、喉から息がもれていく。息ができない。


「……泣くな、泣くな……」


 眼鏡を外し体を横にして、深呼吸をする。

 こういうときは無理をしない方がいい。この一ヶ月、家で過ごして学んだことはこれだけだ。情けないしみっともないけど仕方がない。ここで無理をすると、明日は起き上がれなくなってしまう。

 ……でも別に、明日起き上がれなくても構わないんじゃないだろうか……誰も僕を待ってはいないのだし……今日死んでしまっても……。

 喉がつまる。息ができない。鼻の奥が熱い。


「泣くな、泣くな……」


 こみあげてきたものを飲みこんで、目を閉じる。なにも考えないために頭の中で1000から7を引いていく。


「……97、90、……あれ?」


 100を切ったところで、階下から玄関のドアが開く音が聞こえた。壁時計を見ると夕方六時前、まだ父が帰る時間ではない。なら宅配だろう……83、76、69、62……しかし、意外なことに、玄関からだれかが上がってくる足音がした。しかもそれは階段を上ってきた。


「……怖くなっちゃったみたいなのよ……」

「……まじ? トラウマ持ってんじゃん。えー……」


 足音と同時に母と知らない人の声が床から聞こえ、つい起き上がる。二階には僕の部屋とトイレと物置しかない。


「……誰か来るの?」


 まわりを見る。

 作りかけの、リモコン探しくんと、出したパーツが散らばっている。足の踏み場がギリギリあるぐらいの汚い部屋だ。


「え、いや、え? ……え」


 しかし足音は近づいてきている。だれだろう。なにをしにくるのだろう。どうしよう、どうしよう、どうしよう、また胸が苦しくなる、また怖くなる、心臓が痛い、息がつまる、怖い、逃げたい、でもどこに逃げられるのか。

 無情にも部屋の扉は開かれた。


「すげー涼しいな、この部屋。寒くねえの?」

「……は?」


 僕の部屋の扉を開けた人は、はっとするほど美しい人だった。

 映画に出てくる人みたいに整った顔をしていて、ショーケースの中のマネキンみたいに手足が長い。かけている鼈甲柄の眼鏡に彼の長い睫が当たっていた。ボタンが二つはずされたシャツ、そこからのぞく首や鎖骨に汗が見えた。その額には汗がにじみ、短い黒髪はどことなく湿っている。外は暑いのだろう。

 彼は小さく口を開き、ふ、と息を漏らす。その口から見える白い歯がやけに色っぽくて僕はとっさに目を逸らした。


「ドア開けてると冷房逃げるわ。お母さんも入るの?」

「いいえ、私は夕飯の支度あるから。君も食べてく?」

「いらん。俺、あんま飯食わないから」

「あらそう? 残念ね」

「そんなことないでしょ。じゃあ後でね」


 それで彼は勝手に扉を閉めた。外から母さんの「ごゆっくりー」という声。それに彼が勝手に「はあい」と返事をする。

 その後、ようやく彼は僕を見た。僕も真正面から彼を見た。

 ぱっちり二重の切れ長の瞳、高くて真っ直ぐな鼻、楽しそうに弧を描く口、しみもニキビもない肌、影までも美しい、浮世離れした美しい生き物。

 彼からは花のような甘く、でもどこかスパイシーな大人っぽい匂いがした。僕の部屋には馴染まない香水の匂い。


「……めっちゃ見るじゃん。なに? どうしたよ?」

「……」


 とりあえず今確実なことは、僕にこんなモテそうなイケメンの知り合いはいないということだけだった。だから僕は首をかしげた。


「え、誰」

「お前こそ誰だよ」


 彼の返答は考える余地を与えない勢いだった。僕はその勢いに押され「え、羽山優だけど」と答えてしまった。彼はにんまりと笑う。


「そうか。俺はお前が連絡網止めてるせいで熱中症と不審者注意ができなくて先週痴漢を殴り飛ばして熱中症になった男だ」

「は? 痴漢? え? 熱中症は大丈夫なの?」

「点滴打ったら治った」

「あ、そう? そりゃなにより……」


 いや、待て。早口で情報量多いから半分聞き流したが、今なんか変なこといわなかったか。

『連絡網止めてるせいで?』


「えっ!? 連絡網? なにそれ? 知らないんだけど!」

「うわやっぱりだよ。止めてんのお前の前のやつだわ、野々村かよー、まじで使えないな、あの教師……」


 彼のマンシンガントークが止まり、ぶつくさと誰かへの文句を言い出した。僕はすこし冷静になった。

 いや、この人、僕の質問に答えていない。


「え、いや、……いや待って、それで君は誰?」


 僕の改めての問いかけに、彼は前髪をかきあげた。ぱたぱたと汗が散る。


「一年C組出席番号三十八番水戸 恭一みと きょういちだ」


 それを聞いて、僕はようやく合点がついた。一度も登校できてないが、僕は国立暮東大学附属高等学校一年C組出席番号三十七番だったからだ。


「……高校の人か。不審者かと思った」

「不審者だと思ったなら名乗るなよ。危なっかしいやつだな」

「あ、ごめんなさい」

「別に謝ることじゃないけど。俺不審者じゃないし」

「あ、そう? うん?」


 早口の彼のペースにつられてしまう。頬をかいて、深呼吸をして、状況をまとめる。

 イケメンの彼は、どうやら同じクラスの水戸くんというらしい。ということは同い年なのだろう。ちょっと信じがたいけどこの色っぽい青年は僕と同じ十五歳。

 そして、なぜか今、僕の家にいる。


「……いや、でもなんで来たの? 担任すら来たことないのに」

「まじかよ。一ヶ月も休んでんのに? あいつまじで駄目教師だな。つーかなに作ってんの、それ」

「え、これ?」


 彼は僕から僕が作っているものに視線をうつしていた。幼児を相手にしているかのようなこの違和感。しかし、彼には有無をいわさぬ圧力があった。


「……自動リモコン探し機。家中のリモコンを集めてくれる」

「へー、すげー。掃除しなくていいじゃん」

「でも動きが難しくて、冷房を暖房にしちゃったりするから調整中。というより波拾うようにした方がいいのかもって……」


 彼は静かに僕の手元をじっと見ていた。


「……ごめん、わかんないよね?」


 失敗した。

 一人でベラベラ話すと嫌われる。調子に乗ってるといわれる。指を指される。わかってたのに、久しぶりだから、忘れてた。

 学校って、他人って、そうだ。息が苦しい。怖い。怖い。怖い。なにいってんのお前、早口で気持ち悪い、そんなこといわれるに違いない。それは僕の心をグシャグシャにするには十分だ。

 ヒューと喉が鳴る。


「リモコンから出てる周波数をひろって、全部ひとつのリモコンでできるようにするってことか?」

「……うん」


 彼は腕で額の汗をぬぐい、「あちい」と呟く。


「それは便利だなー。んで、それをなくしてもロボが自動でとってきてくれるの?」


 彼は少しも僕の話し方を気にした風はなかった。息苦しさが遠退いていく。


「うん……その予定……」

「面白そうじゃん。見てていい?」


 彼はふざけたり僕をからかったりしているようには見えなかった。単純に興味があるからそこにいる人に見えた。


「……いいよ」

「やったー。ここ座っていいか?」

「床? いいけどベッドでも……」

「汗ひくまでフローリングの上にしかいられねえ。超暑いぞ、外」

「あ、そうなんだ……熱中症大丈夫?」

「羽山んちってジュースとかある?」

「へ? あると思うけど……」

「すいませーん! 羽山くんのおかあさん! 俺、熱中症なりそうなんで飲み物くださーい!」

「君、図々しいな!?」

「アハ、その通り」


 彼は、床に座って「だからあんま俺のことは気にすんな」と笑った。笑ったときに右の頬にだけえくぼができるのが、大人っぽく見えた。



「お前の部屋、いいなー」

「……そう?」

「俺、あんま自分の部屋好きじゃねえから羨ましい」

「……僕もそんなに部屋が好きなわけじゃないよ?」

「そうなん? 今、すげー楽しそうだけど?」

「それは、……作るのは好きだから。小学校のときから趣味で……その、あの、だから、今は楽しい……」

「へえ。そういう趣味があるのいいな」

「……君はないの、そういうの」

「俺? ……可愛い子を愛でるのは好きかな」

「アイドルが好きなの?」

「そういうわけじゃないんだけど……好きなアイドルいる?」

「え、あんまり知らない。興味ないというか、区別がつかない」

「アハハ、素直だな。マア、メディアのアイドル像は均一だよな……」

「……僕、女の子と話したことほとんどないんだ。多分この人生で数えられるぐらいだよ」

「そりゃいいな。静かだ」

「なにそれ……」


 僕たちはそんな風にぽつぽつと話した。

 彼は僕の言葉をうまく読み取ってくれるから、ついつい話してしまった。なにも楽しくはないだろうに、彼は僕の作業をずっと見ていた。

 二時間ぐらい彼はそうしていて「俺、また来ていい?」といいだして、僕はビックリした。


「いいけど、見てて楽しい?」

「うん、楽しい」

「あ、そう? ならいいけど……」

「お前は? 邪魔じゃね、俺?」

「別に」


 そう返してから、さすがにそっけなさ過ぎると思いあわてて「久しぶりに同い年の人と話したからなんか、うん、……気恥ずかしさはあるけど楽しいよ」と付け加えると、彼は不思議そうに首をかしげた。


「俺、ダブってるからお前より年上だぞ」


 衝撃の事実。

 ダブってる人なんて不良しかいないと思ってた。


「え、ごめん! あ、敬語使ってない、ごめんなさい!」

「いや敬語はやめろよ。去年入院してたからそれで一年ずれたんだよ」

「入院!? なんで!?」

「同級生の親に手出したら刺された」

「クズだ!!」


 僕の心がそのまんま飛び出した叫びに、彼はにんまりと笑う。背筋が凍るような笑顔だった。


「んでまた来ていいんだったよな?」

「え、お母さんに手だされたら困るからもう来ないで……」

「ならお前が学校来いよ。うちのロボ研、楽しいやつ揃ってんぞ。なんなら俺も入るしさ」


 彼はとても気軽に、まるで昨日も僕が学校にいたみたいに、僕を学校に誘った。僕にじーっと見られても、彼はすこしも僕から目を逸らさなかった。むしろ彼の顔をじっと見ていたことに気がついた僕の方があわてて目をそらしてしまった。

 そんな怪しい動きをした僕を彼は笑ったりしなかった。からかったりしなかった。

 僕がゆっくり彼に視線を戻すと、彼はまだ僕を見ていてくれた。気安い友人に見せるような笑顔で僕を見ていてくれていた。

 顔が熱くなっている気がした。

 僕は、ずっと、こんな風に誰かに手を伸ばしてもらえることを待っていたんだと、彼に手を伸ばしてもらえてやっと僕は気がついた。

 心臓がドキドキする。少し息がしにくい。でも嫌な感じじゃなかった。


「ふうん、……じゃあ行こうかな」

「うん、じゃあ明日な」


 彼はスクッと立ち上がった。


「帰るの?」

「明日も話せるだろ?」

「あ、うん。えと、……また明日、水戸くん」

「うぃー、また明日」


 彼はニカッと笑顔を見せて、振り返ることはなく去っていった。残された僕は床に散らばっていたパーツを集めて、机の下にしまう。それから時間割に合わせてスクールバックの中身を入れ換えた。


「苦しくない……」


 息ができる。喉につまっている感じがない。


「……明日、……明日は学校にいこう」


 僕は部屋の扉を開けて、母に明日の僕の予定を告げるべく階段をかけ降りた。僕の足取りは、自分でいうまでもなく、今朝とは比べ物にならないぐらい軽やかだった。







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