ヒメカの呪詛結界が完全に消滅し、次第に黒い靄が晴れてきた。
天乃三笠と桜咲舞桜と佐々木峻佑は、誰も一言として発さず、ただその様子を見ていた。呪鬼との戦いが終わったことのみに対する、妙な達成感。それだけが、場を支配する。
ゆっくりと靄が消え去り、駅の様子がわかるようになった。呪詛結界という切り取られた空間の壁が壊れると、現実世界からは、何もなかったところに突如人が現れたように見えてしまう。三人はそれを懸念していたが、幸い、人通りは少ないようだった。
「やっと……終わったな」
ようやく舞桜が口を開いた。二人も頷く。
「ほんと、お疲れ様」
峻祐が、舞桜と三笠の肩を抱き寄せた。そして、年下陰陽師たちの肩をポンポンと叩きながら、よく頑張ったね、と労った。
「三笠ちゃんも、ありがとう」
静かに礼を言う峻佑に、三笠は慌てて返事をした。
「そっ、そんなっ、私何もできてないし……それより、舞桜くんとキリカを助けてくれてありがとうございました」
「俺からも。シュンさん、まじありがとう。絶対あのままだったら死んでたわ」
舞桜もしみじみと言う。
「そうだったねえ……あれは、危なかった」
峻祐は苦笑い。
「あ。それよりキリカちゃん連れてこないと」
彼は流れるような動作で自分の結界を開き、あっという間に村雨霧花を連れてきた。もっとも、まだ起きていないので、霧花は峻佑の腕の中で目を瞑っているが。
それでも、彼女の顔は穏やかだった。もう三笠に「死ね」と言うような、操られているような、苦しい表情はしていない。
「キリカ……!」
三笠は、峻佑に抱えられている友人の頬をそっと撫でた。
「よかった……治ってる……」
涙が、あふれ出してくる。
「ほんとに……なんとお礼を言っていいかわかりません……えっと、あの」
「峻佑」
一生懸命に言葉を紡ごうとする、友達想いの後輩陰陽師。峻佑は彼女に笑いかけた。
「佐々木峻佑、それが僕の名前。みんなからはシュンさんって呼ばれてるよ」
「峻佑さん……いえ、シュンさん」
天乃三笠は、改めて新たな同僚の名を呼んだ。
「キリカを助けていただいて、本当にありがとうございました。それから、舞桜くんも」
三笠は彼のその赤い目を見つめる。
「私たちを、救ってくれて、ほんとにありがとう」
「それは、こちらこそ、だよ。ミカサ」
舞桜もほほ笑んだ。
「『除の声主』、さすがだったよ」
皆が皆を助け合ったからこそ、掴みとれた勝利――この戦いが、三笠と舞桜と峻佑。三人の結びつきを生み、そしてその繋がりをより強めてくれた。
三人が感無量になっていた、そのとき――――。
「あれ、大丈夫だったのかな」
背後から聞こえる、知らない声。
三人は振り向いた。
そこにいたのは。
「『大呪四天王(たいじゅしてんのう)』の『眷属(けんぞく)』が現れたと聞いたから派遣されたけど……オレは、いらなかったみたいだね」
灰色の髪に、白い肌、そして青みがかった瞳を持つ少年。
峻佑と舞桜は、彼の存在と、その言葉に息を呑んだ。
「まじ……?アイツ、大呪四天王の眷属だったわけ?ほんとか?」
「というか、なぜ君がここに……?」
わかっていないのは、三笠だけのようだった。
一人、理解できずにあたふたしている彼女を見て、グレー髪の少年は口を開く。
「『大呪四天王』は呪鬼の中でも強いやつらのこと、『眷属』っていうのは、四天王の直接の手下」
非常にざっくりとした説明を、気だるそうにする少年。
彼の正体は――――
「あ、もしかして新人さんだった?道理で四天王を知らないわけだ。……じゃあ、オレのこともきっと知らないよね」
三笠の目と、少年の碧い目が合った。
「オレは古闇真白(こやみ ましろ)。一応『巴』だから、オレの言葉は信じていいよ。早乙女ヒメカは『大呪四天王・白虎』の眷属だ」
「巴……?」
四天王だとか、白虎だとか、聞きたいことは山々だったが、三笠の頭の中は驚きでいっぱいだった。
(私と同じくらいの、この男の子が……最強の陰陽師『巴』なの……?)
「そうだよ、巴」
少年――古闇真白は、それだけ言うと、踵を返した。
「怪我人がいなくて何よりだよ。ちゃんと任務報告を忘れずにね。じゃ、お疲れ様」
片手をあげて三人に別れを告げた真白。その姿は……
「あれ?消えた?」
次の瞬間にはもう、三笠たちの視界から消えていた。単に走るのが速かっただけなのか、特別な術式を使ったのかはわからない。
……今の三人には、それだけの思考を巡らす元気はなかった。
「……千葉に、帰ろう」
舞桜が言った。
「キリカちゃんは俺が背負って帰るよ。シュンさんは祓本部への連絡とか、いろいろよろしく」
「わかった」
舞桜が霧花をおんぶした。
「三笠ちゃんも、ほら、帰ろ」
真白が去っていった方向を、じっと見つめていた三笠……彼女もまた、ホームへ向かって歩き出した。
「ん、帰ろう。舞桜くん、キリカのことお願いします」
「任せとけ」
天乃三笠と、桜咲舞桜と、佐々木峻佑は歩き出す――。
京浜東北線のホームは、もうすぐそこだ。
友情で掴んだ勝利……しかし今、それと同時に過去の因縁が蘇ろうとしている。
「あ、峻佑じゃん」
足を止めて、振り返る。
声の主を見た途端、峻佑の顔から先程までの温厚な笑顔が消えた。
「埼玉県の陰陽師さん、遅かったじゃないか」
「ごっめーん。春日部市の方でも大きな任務があってさ。それより峻佑、元気そうでなによりね」
「そっちこそお元気そうで。……花園さん?」
峻佑の視線の先にいる、水色の瞳を淡く煌めかせた女子大学生――彼女の名は、花園結依(はなぞの ゆい)。埼玉県の『流』である。
ホームへと降りる階段の上で、向かい合う峻佑と花園。
「アンタまだ、千葉にいたんだ。しかも陰陽師続けてんの?」
「うん、大学が千葉だからね」
「まあ、そうよね。私も学校が埼玉だから、千葉から引っ越したんだし」
「そう言う花園さんこそ、ここに今来たってことは……埼玉でも陰陽師やってるんでしょ」
「人員不足なんだって泣きつかれちゃ、断れないわよ」
沈黙が落ちる。
「私さ、まだアンタのこと、許してないからね」
突然結依が、声のトーンを低くしていった。峻佑の目が、細められる。
「アンタのせいで……ちーちゃんは……千里(ちさと)は!今も“あんな状態”なんだからな……!」
怒りに震える花園。その目はしっかりと、峻佑の目の奥の冷えた眼差しを捉えていた。
峻佑の喉から、乾いた声が出る。
「……わかってる」
「せいぜい命を張って戦って、償いなさい。……アンタの罪は、重い」
それだけ言い残して、花園結依は峻佑の横を通り過ぎて去っていった。すれ違うとき、思い切り彼の肩を突き飛ばして。
「……っ」
峻佑は押されてよろける。
「……結依、千里。ごめん……」
花園にどつかれた所を左手で押さえながら、誰にも聞こえないくらいの声で、そっと呟く。
わかっていた。自分が無力なこと、なにも成せていないこと、そして未だあのときに戻りたいと思ってしまっていること――。
「千里の仇は、必ず僕が……」
歯を食いしばり、そして舞桜たちに追いつこうと歩き出す。
その頬に透明な涙が流れていったことは、峻佑以外、誰も知らない……。
【大宮駅の呪詛結界編】 了
次章からは【県内会合編】が始まります。