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057.天の叫び

「哀楽……?」

 ハルの隣で、華白が呟いた。その目は驚愕で見開いている。

「今年の五月だよな、哀楽が現れたの……。それに三笠が巻き込まれていたというのか!?」


 ハルも体の震えが止まらなかった。

「ミカサは友達を一人、失った……?」


「違うよ」


 無表情な、ただ事実だけを伝えるような声が響く。


「天乃さんが失ったのは一人だけじゃない。あと四人だ。彼女はあの日、大切な人を五人も亡くした」


 夜条蒼空だ。その青い目に闇を宿したまま、ハルを見つめてくる。何と応えてよいか分からなくなったハルは、唇を噛み締めた。


 再び、過去の残像が動き出す。



 *



 男――哀楽が三笠たちの方へ歩みを進めてきた。彼が近づくに連れ、嫌な音が、不穏な匂いが、重い空気がより濃くなっていく。三笠とスミレとユリカはその場に立ち尽くしていた。足を動かすことも、できない。


 ――だって、アヤの“あんな姿”を見てしまったら。


 さっきまで生きていて、バイバイをしたばかりのはずの友達が見知らぬ男に路地裏で捻り潰すように殺されるなんて。


 信じたくなかった。


(これは悪夢だ、夢を見ているんだ。早く現実へ……)


 震える手で頬を叩いてみるが、三笠の視界は暗転することも変化することもなく――ただ目の前に立つ災厄を映したまま。昼下がりの日陰の路地に立つ女子中学生三人と、呪鬼の祖『哀楽』。しかしこのとき男の正体が『呪鬼』という存在だということも、どう相対すればよいのかということも、三笠は知らなかった。


 ――自分の声に、特別な力が在ることさえも。


「い、いやだ……こないで……」


 三笠は辛うじて声を絞り出した。男がゆっくりと三笠の瞳を捉える。その闇に墜ちた眼には何の感情も浮かんでいない。


「ミカサ、スミレ……」


 ユリカも男から目を離さずに口を開いた。


「せーので逃げよう。もし捕まったとしても、それはしょうがない。このままここに留まって死ぬより、せめて逃げるのを試みてから死にたい」

「や、やだよっ」


 スミレが涙目でユリカを見た。


「なんで死ぬとか、言うの……! 死にたくないよ、やだよ、なんなの。ユリカまでそんなこと言わないで!」


「わかんないの!?」


 突然ユリカが声を荒らげた。三笠もびっくりして彼女方へ目を向ける。


「コイツは人殺しだよ。通り魔かなんなのか知らないけど、あたしたちで戦って勝てる相手じゃない。逃げるしかないよ。そして死んでもしょうがない」


「ユリカ……?」


 三笠はユリカのことを凝視した。死んでもしょうがない、本当にそうなのか? 正体の分からないこんな男に、友達の敵であるヤツに、自分も殺されて終わり? ――冗談じゃない。


 だけど戦いたくても戦う術を持たないのも事実。


「じゃあ、ミカサ、スミレ。行くよ」


 ユリカが静かに言った。私達には、もうこれしか選択肢が無いのだ。歩く災厄を目の前にして死という一文字から少しでも逃れるには。或いはその運命を少しでも遅らせるには――逃げるしか、ない。


「せーのっ」


 その声を合図に三笠とスミレとユリカは踵を返した。まずはこの路地を抜けて明るい方へ。家へ向かえば……または学校へ向かえばなんとかなるかもしれない。警察がいるのならその方がいいだろうか。


 走れ、ただ逃げて、そして生きるんだ。








 でも。







 運命なんて。


 そんなに上手くいくはずなくて。


「キャッ」


 最初に短い悲鳴をあげたのはスミレだった。

 ドサッと地面に倒れ伏す音がして、そこにグシャリという聞きたくない響きが重なった。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 親友の叫びが背中を貫く。グシャッ、グシャッ、と想像もしたくないような肉を捻る音の合間に、男の声。


〈 逃げても無駄だと云うのに…… 〉


 三笠の目が見開かれた。背後で無惨に死にゆくスミレを思い、そして男の言葉が重なる――なんなんだ、おまえは。


 なぜわたしたちをねらった。


 なぜアヤとスミレが犠牲にならなきゃいけなかった。


 何故何故何故何故何故何故何故何故何故。


 三笠の頭の中は疑問符でいっぱいだった。

(私が何かしたか? アヤたちの何が悪かった? ……いや、誰も何も悪くはなかった。ただ“其れ”に遭遇してしまったから。大地震や洪水に遭うのと同じように、彼に出会ってしまったから)


 だからわたしたちは死ぬんだ。


 瞬間、三笠の中で何かが切れた。それは人間が超えてはいけない“怒り”と“その境地”の境界線――。


 ――慟哭。


「あああああああああぁぁああああああ!!!」


 叫ぶことだけに意識を全てつぎ込んだ。もう何も考えたくは無かった。この残酷な運命を、唐突に音を立てて崩れゆく日常を認識したくなかった。ただ夢であってほしいと、これが虚構だったらいいと。


 願って叫んだ。


 だからとなりを走っていたユリカが、哀楽の手にかかったのも知らず、三笠はただ走り続けた。


 新潟県内糸魚川市という三年前に引っ越してきた町を。もう歩き慣れた景色の中を。走って叫んだ。もうやめてくれ、私から何も奪うな。



 なのにどうして。


〈 逃げても無駄だと云わなかったか? 〉


 すぐ背後から聞こえる禍々しい声。


〈 そこは私が一番最初に降り立った場所だ。そんなところに帰ってどうする 〉




 声でわかった。あの男だ。あいつが今、三笠の後ろに立っている。あんなに走ったのに、家まで帰ってきたのに。やっぱり私はここで死ぬ運命なのだろうか。


 ――いや、待って。


「貴方が一番最初に降り立った場所……?」


 私の、家が?


「うそ、でしょ。じゃあ……」


 出かけている両親と部活の三笠に代わって、家でお留守番をしてくれていた兄と妹は。


「時雨(しぐれ)と佐紀(さき)は……?」


〈 殺した 〉




 ……は?



 しかし三笠に、その言葉の意味を考える暇は無かった。背後の気配が、妙に揺らいだのだ。


 そしてその後に聞こえる男の叫び。


〈 ぐっ……。陰陽師、か…… 〉


 少し苦しそうに喘ぐ男。何が起きてるのか。三笠は勢いよく後ろを振り返った――その目に映ったのは。



〈 姑息な技を使いおって…… 〉


 全身を白い布に覆われた男の姿。その半透明な布のようなものの下で、纏わりつく其れを払おうとする男だが――動けば動くほど布は蠢き、男を囚える。


 目を見開く三笠の耳に、第三者の少年の声が届いた。



『和歌呪法・春過ぎて 夏来にけらし 白妙の』



 三笠の家の屋根から、小さな影がタンッと軽やかに降りてくる。グレー髪に碧い目をしたその少年は、男に纏わりつく布へ向かって手を翳しながら――無表情に言った。


「お前が『大呪四天王・朱雀』か。オレが殺してやるよ、雑魚め」




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