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5話 淀みを祓う(1)

 ぐっすりと眠れる夜なんてこないと思っていた。

 一度も目覚めることなく朝を迎えた晴信は頭の芯が軽い事に驚いている。時計を見ればまだ朝の六時で、こんなに早くすっきりと目覚められた事が奇跡のように感じた。


 ここは九尾の結界の中。邪なモノは入る事ができない。


 この言葉を疑ったわけではないが、信じ切れてもいなかった。だからこそジワリと感謝の気持ちと嬉しさが込み上げて朝から薄ら泣きそうになってしまった。


「……よし! この分はしっかり働こう」


 グシグシと袖で目を擦り気合いを入れた晴信は早速着替えを……と思ってクローゼットを開けて早速絶望した。そもそもこういう個人事務所はどんな格好で行くのが正解なのか分からない。

 九尾はスーツ姿ではないがきちんとしたオシャレな格好をしていた。タマはどうなのだろう? でもまだ朝は早いのだから起こすのは申し訳ない。

 悩んだ結果着慣れたリクルートスーツに袖を通し、あまり音を立てないように階下へと向かう。階段を降りて手前のドアがリビングだ。


 見ればリビングには既に明かりがついている。誰か起きているのかとほっとして「おはようございます」と声をかけてドアを開けたが誰の姿もない。

 ただ、いるはずなのだ。コーヒーを落とす香ばしい匂いに、今まさに目玉焼きか何かを焼いているような音もしている。


 首を傾げ辺りを見回しながらリビングへと入った晴信が「あれ?」と呟きながらキッチンへと近付いた、正にその時だった。

 カウンターの上にぴょこんと青白い手首から先が一組乗っかり、もの凄い勢いで近付いてきたのだ。


 思わず大きな声で叫び盛大に後ろへとすっ転ぶ。ジワッと背が冷たくなって青ざめ半泣きになっていると上からドタドタと慌てた足音がして勢いよくリビングのドアが開いた。


「どうした!」


 タマが寝間着姿のまま駆け込んでくれる。耳も二股の尻尾も大きく膨れて逆立っている。

 そのタマに、晴信は青ざめたままで振り向いた。


「あっ、えっと……ごめんなさい……茜子さんに、驚いて」

「…………はぁぁ」


 ガックリと床に崩れ落ちたタマは暫くして「二度寝する」と部屋に戻っていき、茜子は申し訳なさそうにペコペコ謝っている。


「あの、茜子さんが謝ることではなくて! 俺が慣れないとダメだし、寧ろ申し訳無いです」


 こちらも同じようにペコペコ土下座で謝ると茜子は更に恐縮して謝るしで。

 そんな事を繰り返していると九尾がきっちりと着替えて入ってきて、目を丸くした後で愉快そうに笑った。


 リビングにテレビの音が流れて、九尾はソファーに座って優雅にコーヒーを飲んでいる。晴信はカウンターに座ってぼーっとしていると、同じようにコーヒーが置かれた。


「ありがとうございます、茜子さん」


 伝えると、彼女は少し照れたようにほんのり赤くなりぺこりとお辞儀をする。手首だけなのに。


「それにしても、朝から賑やかでしたね」

「うっ、すみません」

「いえいえ、構いませんよ。人の感覚でいえば茜子さんも立派に幽霊ですからね。しかも、あまり会いたくない部類の」


 なんて言うものだから茜子さんは怒った感じがする。ぷんすこしているエフェクトが幻覚で見えるのだ。

 これにも九尾は余裕の様子。クスクスと笑っている。


「さて、朝食の支度をしましょうか。晴信さんは料理は?」

「え? ほんの少し」

「では、目玉焼きをあと二人分お願いしますね」


 そういうとサッとエプロンを着けた九尾がキッチンに立つ。慌ててジャケットを脱ぎシャツの袖をまくってネクタイを畳んで胸ポケットに入れて立てば、茜子が卵を二つ持ってきてくれる。

 熱したフライパンの卵を二つ割り入れ、水分を足して蓋をすると隣でスープを作る九尾が少し驚いた顔で覗いた。


「案外わかっておりますね」

「貧乏学生だったので、簡単な自炊くらいはしていたんです。社会人になってからは無理でしたが」


 とは言っても簡単に焼くとかレンチンだけだ。流石にカップ麺を料理したとは言わないが、ちゃんとしている人からすればその程度。お恥ずかしいレベルなのだ。

 でも九尾は笑って「上々ですよ」と言ってくれる。

 フライパンの中で目玉はほんのりと白い膜を張るのを見て火を止め、二つ分の卵をヘラで半分にすると茜子がサッとトーストの乗った皿を差し出してくる。この上に乗せるらしい。

 目玉焼き乗せトーストに野菜とベーコンのスープ、ヨーグルトと果物が添えられた朝食がカウンターテーブルに並んだくらいでタマが起きてきて、まだ半分寝ながら手を合わせ「いただきます」と呪文みたいに唱えてモソモソ食べ始める。

 これを唖然と見ていると「いつもの事ですよ」と苦笑した九尾が言って、晴信も一緒に挨拶をして食べ始めた。


 昨夜も思ったけれど、ご飯が美味しい。

 サクッとしたトーストの小気味良い食感とバターの風味。卵の黄身は上手に半熟になっていて、歯を入れるとトロッと零れてくる。危うく服を汚しそうだった。


「上手ですね、晴信さん。明日もお願いしましょうか」

「俺でよければ」


 九尾はまったく危なげなく上品に食べている。

 スープは優しい味がする。玉ねぎや椎茸、人参といった野菜とベーコン。味は程よい塩味でブラックペッパーがいいアクセントだ。


「美味しいです」

「それはよかった。一人の食事は味気ないですからね」

「あ……」


 そう、いうことなんだと、晴信は気づいてしまう。もうずっと、中学生くらいから一人で食べていた気がする。

人外を見てしまう目のせいで友達どころか両親すらも気味悪がって一人の時間が無限にあった。人は側にいても話しかけられる事もなく、遠巻きにされてきて孤独を感じていた。

 皮肉だ。今一緒に食事を楽しくしているのは皆人ではない者達だ。人の友人は結局今もいないままなんだ。

 でも、それでも今はいいと思う。目の前のご飯が美味しくて、認めてくれる人がいるのならその相手が誰だって。

 見つめると、九尾は小首を傾げながらも何故か頭を撫でてくれた。


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