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食事の後片付けは茜子がしてくれるらしく、洗面所で身支度を整えているとタマもようやく目が覚めたのかキリッとした声になってくる。
入念に姿見で確認している姿を不思議に思い見ていると、九尾が「尻尾と耳のチェックですよ」と耳打ちしてくる。晴信の目には今も三毛柄のそれらが見えるのだが。
「よし! 大丈夫!」
どうやら他の人からは見えていないらしい。九尾にも「正体を看破するのはダメですよ」と念押しされた。
事務所と居住区の構造上、玄関ドアを出れば直ぐに事務所だ。目隠しの衝立から出て最初にするのが掃除。
タマはトイレ掃除を始め、九尾は拭き掃除をする。
晴信が受け持つのは階段と外の掃き掃除で、上から丁寧に箒で掃いていく。
昨日、箒で掃くという行為が悪いものを外へと追いやる事に繋がると教えて貰ったから気持ち丁寧になる。隅に土埃が溜まらないようにしっかりやって外へと吐き出した所で、隣の焼き鳥屋のドアがカラカラと音を立てて開いた。
「おっ、おはようさん」
「鬼熊さん」
頃は四月の頭でまだ朝は少し寒くも感じるが、源己は逞しい腕を晒した状態だ。そして手にはやはり箒がある。
「おっ、いい心がけだ。掃除は小まめにしとくのがいいぜ。悪いものが溜まらない」
「そうなんですね」
「おうよ。あと、暗くなる前に窓は閉めておけよ。扉や窓は結界だ、招きのない奴は入れねぇからよ」
その言葉がふと、昨日の記憶を連れてくる。
窓一杯に覗き込んだあの赤い目はなんだったのだろう。九尾が追い払ったようだけれど、何故覗いていたのか。
恐怖心が再燃してブルッと震えると、源己は首を傾げた後で徐に近付き、両方を三回ずつ叩いた後で首の辺りも三回叩く。驚いてされるがままになっていると、彼はニッと笑って頷いた。
「簡単な邪気払いの呪いだ」
「こんな事で、ですか?」
「日常的なものだとこんなもんよ。他にも部屋に入って空気が悪いと思ったら柏手を打つといいぜ。音が邪気を払う」
そういうものなんだと感心してしまう。憑かれやすい晴信としては塩以外にも方法があるのは心強い。
塩といえば……。
「あの、持ち歩いている塩が黒っぽく変色して溶けたみたいになるんですが」
「……九尾にお守りもらっとけ」
呆れ顔の源己に言われ、晴信は酷く怖くなったのだった。
掃除を終えて戻ってくるとタマが手で呼んでいる。大人しく行くと壁で仕切られた場所へ。布の目隠しを抜けた先は給湯室と休憩室のようで、小さいがお茶を淹れられるものになっている。
「基本、仕事がない時やぼーっとする時はここな。あと、具合悪くなってもここに避難していいから」
「いいの?」
思わず驚いて聞いてしまうと、タマはムッとした顔をする。
「いいに決まってるだろ。特にお前は人間だから、妙なものに当てられる事もあるかもしれない。たまにとんでもないのも来るしな」
もうこの時点でこの職場に感謝だ。なにせ前職は熱があろうが目の前が三重に見えようが容赦なかったから。
「素敵な職場だね!」
「むしろお前の前職鬼すぎるだろ。鬼も裸足で逃げるレベルだよ」
呆れ顔で言われてしまった。今では異常だったと認めるけれど、内部にいた時には気付けなかったので苦笑が漏れた。
「この場所は特別に強い結界が張ってあるシェルターになっているんだ」
そう言われてタマが指差す方を見ると四隅に札が貼ってある。何て書いてあるかは不明だけれど。
「そういえば、茜子さんは事務所には来ないんですか?」
問いかけにタマは呆れ顔をしている。何故か半目だ。
「あのなぁ、言っちゃなんだが茜子さんは手首だけの幽霊でそこそこ強いんだよ。ちょっと霊感ある人間でも見えるレベルだ」
「そうなんだ?」
日常から人間と怪異の区別がつかない事もある晴信としては、もう全部が日常状態である。いまいちピンとこない。
その様子すらもタマは頭が痛いと言いたげだった。
「怪異の解決相談しに来てる人間が手首だけの幽霊見たら逃げ出すぞ」
「……あぁ!」
「まったく、しっかりしろよ」
そういう理由で、茜子はあくまで家政婦らしい。まぁ、常識で考えると当然ではあるのだが。
「でっ、事務員の机がこっち」
案内されて給湯室を出ると九尾のデスクから直角にもデスクがある。備え付けのパソコンがあり、さっそくユーザー登録などをしてファイルの説明もされた。
本当に前職でも馴染みのある事務仕事で、こちらは問題なさそうだった。
「あと、この後ろの鍵付きのキャビネットには大事な書類と過去の事件のファイルが入ってる。基本、ここの管理は累様がしているから、必要なら言って鍵貰って」
「分かった」
それなりに大きな書類用キャビネットだ。これ一杯に書類が入っているなら結構凄い。もっと言えばこれだけ、怪異絡みの依頼があるんだ。
「晴信さん、少しいいですか?」
一通りの説明が終わるのを待っていたのか、いいタイミングで声を掛けられ九尾の元に向かうと、彼は徐に一つの書類を出してくる。
それの頭を読んだ時点で、晴信は軽い目眩を覚えてしまった。
「あの、これって……」
「貴方の前職オフィスが入っていたビルからの依頼です」
「ですよね……」
出来る事ならば二度と関わりたくはない場所だ。いや、もうオフィスはないのだが。なにせトップ数人が逮捕され、他は散り散りになったのだから。
それでもいい思い出はほぼ無い場所だし、あそこは少し異常なくらいイルので近寄りたくはなかったのだが。
「あの、具体的にはどのような依頼内容なのでしょうか?」
「ビルの内部での怪異目撃例が異常な数あり、複数のオフィスから苦情がきているようです。ビルの管理事務所としても流石に見過ごせないようでして」
「実際いますからね……」
「私もそのように感じましたが、この規模を力技で黙らせると余計に歪みますし、流石に疲れてしまうので。ですので、晴信さんの目を使って効率よく解決したいと思っています」
晴信の目は人ならざるモノを見るだけではなく、正体を看破したりも出来るらしい。『黎明の瞳』と九尾は言っていたが、この目が持つ特別な力の全てはまだ分からないままだ。
それでも、期待には応えたい。今まで誰にも褒められた事はなかったし、期待なんてもってのほかだった。それを与えてくれる人の力になりたいと思うのは、至極当然の事だと晴信は思っている。
ただ、あんまり怖いのはまだ決心が付かないのだが。
「あの、まずは何をするのでしょうか?」
恐る恐る問いかけてみる。これに対し九尾はニッコリと優雅に微笑んだ。
「まずは今夜にでも警備室に行って、色々とお話を聞いてみたいと思います」
「おぅ……」
「大丈夫ですよ。最悪力技でゴリ押ししますので」
苦笑しつつそう言ってくれるのは心強いが職務内容に変更はない。つまり、今夜はホラーな夜になるという事らしい。
「ですがその前に晴信さんのお話を伺いたいのですが、よろしいですか?」
「? はい」
そうやんわりと問われて頷いた所で、就業時間の九時となった。