石川が前屈みになってこちらを見る。目は真剣なもので雰囲気もどこか暗い。年相応に僅かに緩んだ頬の辺りをヒクリと痙攣させて、彼は息を吸った。
「あるよ、わんさかね」
その重さに息を飲む。九尾も真っ直ぐに石川を見ながら晴信に視線を送った。
「俺は他のビルもいくつか経験してるが、ここは異常だ。まず空気が重い、日中でも」
「全体的に暗いですよね」
「あぁ。それに、時々足を止めちまう事もある。見回りでんな事したらダメなんだがな、俺はこの勘を信じてそういう時は足を踏み込まない事にしてる。実際、過去何人か怪我をしてるし、その時の証言がやっぱり妙だ」
「賢明な判断ですね」
今度は腕を組んでソファーに背中を預けた石川が困った顔をしてしまう。それだけこのビルには何かがあるのだろう。
「何か、具体的にはございますか?」
「そうさな……まず、九階の端のオフィスだ。あそこにゃ今何も入っちゃいないんだが、夜に見回ると必ず気配がする。足を止めちまう時は大抵声が聞こえる気がするんだ。男か女かもわからんが『アーーーーーー!』って声がな」
それだけでゾクリとして晴信の顔色は悪くなる。九尾もまた何かを考え込んでいる様子だ。
「他には十五階のやっぱり端の倉庫だが、あそこもダメだ。物がひっくり返る」
「ひっくり返る?」
さっきの悍ましい様子を聞いた後では拍子抜けする。晴信はこれを軽くみていた。
だが実際は恐ろしい現象だった。
「あそこには古い本や資料があって鍵を掛けてあるんだがね。その全部が上下逆さまにひっくり返っているのさ。本だけでなく段ボール箱なんかもね」
「うっ」
想像するとそれは異様な光景だろう。誰がそんな事をするのか、嫌がらせにしても程度が低く労力は必要だ。しかも鍵をかけてあるのに。
「妙に生臭いし、参っちまうよ」
「嫌ですね、それ」
「もう直すのも馬鹿馬鹿しくてね、見ない事にした。あぁ、他にも六階の休憩スペースが賑やかだぞ。夜中になると自販機が一斉にビカビカ光ってるんだ。あそこだけお祭り騒ぎさ」
いや、それも十分に怖いとは思うのだが、先の二つが重くてちょっと気が休まる。
それにしても六階、九階、十五階。晴信がおかしくなったのが三階の物品庫。すべて三の倍数だ。これに意味はあるのだろうか?
そんな時、見回っていた若い守衛がげっそりした顔で戻ってきた。
「主任、もう俺嫌っす! まーた十八階で足音に追いかけられて必死でしたよ!」
「だから、ヤバそうな空気の時は無理しなくていいって言ってるだろ。面白がって踏み入るお前が悪い」
「俺、霊感とかないし平気かな~と」
「馬鹿か! ここはちびっとでも敏感なら分かるんだよ。特に北側はな」
「北、ですか」
げっそりする若い守衛は仮眠室へと向かってしまう。
その彼へと視線を向けていて、不意に気づいてしまった事がある。
地下の警備モニターが意図的に切られていた。
「あの、地下のモニターが」
指摘した晴信を、石川が暗い目で見る。そして溜息をつき、晴信へと声をかけた。
「……いいか、昼でも夜でも地下には行くな。あそこには……何もねぇんだよ」
その声はとても重く、脅しにしたって暗すぎる。
結局この日はここで終わりで、明日改めてとなった。
◇◆◇
気づけば深夜となっていたが、幸いな事に元職場から今の職場までは徒歩圏内。晴信は九尾のやや後ろをついて行くように歩いている。
二十三時を過ぎるとこの辺りは人通りがほぼ無い。飲み屋街も無い場所で、ときおりコンビニの明かりがあるばかりだ。
「あの、さっきの話なんですが。三の倍数の階がヤバいって認識でいいのでしょうか?」
確信もないし意味も分からない。けれど何かしらの法則はあるように思う。
これに九尾はやや考えた後で口を開いた。
「三とは、特別な意味がございます。物語でもよく、三つの〇〇なんてものが出てくるでしょ?」
「え? あぁ、ありますね。願い事とか」
「特別力が強い数字なのです。良いものであればいいのですが、この場合悪い方向の力が強まり、引き込む状態にあるのかもしれません」
知らなかった。こんな体質なのに晴信はオカルトの方面には触れずに生きてきた。怖いからこそ避けていたともいう。
まだまだ無知で恥ずかしい。この目だって期待通り使えるか分からなくて自信がない。もしも期待に添えなければ失望されるかもしれないと、不安が込み上げてくる。
だが直後、パンッ! という大きな音に驚いてパッと顔を上げて目を丸くすると、九尾がこちらへ向かって大きく手を叩いていた。
「当てられてしまいましたね。やはり早急にお守りを作らなければなりませんね」
「あ……ありがとう、ございます」
確かに気分が飛んだ。驚いただけかもしれないけれど、鬱々としたものが霧散したのを感じる。
見つめる九尾は困った人を見るような目をしている。苦笑しているのに甘く……見守るような目を。
恥ずかしいような、くすぐったい気持ちが込み上げてくる。一緒にいる頼もしさを感じて、自分も何かを返したいと思える日がくるなんて想像もしていなかった。
ビルまでの短い距離を、さっきよりも少し前へ。いつかはちゃんと隣に並べるように、今はきもちだけでもそうして晴信は再び歩き出した。