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5話 淀みを祓う(7)

 エレベーターが到達したのは十二階。ここだけは唯一話が出なかった場所だった。

 石川に聞いても「ここは特に異常はないな。寒いくらいだ」と言う。それなら安全かもしれないと、晴信はどこかで期待していた。


 到着直後から確かに寒い感じはしていたが、北東へ近付くと底冷えする寒さになって思わず体をさすってしまう。

 ここはちゃんとオフィスが入っていて中も綺麗。更に言えば何やら神棚のようなものも見えた。


「誰か、信心深い人がいるようですね。清潔にして厄除けの札も奉っているので、大きな事は起こっていないのでしょう」

「なるほど」


 とはいえやはり長居したい場所ではない。早々に立ち去ろうと振り向いた時、晴信は違和感があって立ち止まった。


「……影?」


 今目の前に三人分の影がある。でも、今は真っ暗で光源は手元の懐中電灯と窓から差し込む町の明かりくらい。

 ではこの影はいったい何処から発生したんだ? 背後に窓なんてないのに!


 一瞬、影がブレた。それがこちらへ向かって飛ぶように迫って来るのに晴信も石川も慌てたが相手は影なんだ、どうする事もできない。

 涙目になる、その背後から不意に甘い紫煙を感じた。


「手を出そうだなんて、いけない子」


 場にそぐわない甘い声と、何故か煙を出す加熱式タバコ。九尾が吐き出す紫煙が周囲をフッと過ぎると影は一瞬で姿を消して、辺りはまた静かになった。


「すみません、石川さん。廊下は禁煙ですよね」

「今だけ許すからそれ暫くつけといてくれ!」


 警備員としてあるまじきだが、そう言いたくなるのも分かる。責任感と職務意識でついてきている石川だが、その顔色は今や真っ青だ。


「では、エレベーターホールまで」


 くすくすと笑う九尾にしがみつくように来た道を引き返す石川と晴信を、彼は困った子を見るような様子で見守っていた。


 十五階に到着すると、明らかに石川の足が止まった。冷や汗を流す彼はそこから先に進めないようで足の震えが止まらない様子だった。


「ダメだ、これ以上進めん。空気が押し潰すようだ」


 確かにそのような空気を晴信も感じている。頭も鈍く痛いし、息苦しさも感じている。

 そんな石川を見て、九尾は彼をエスカレーターホール前の休憩スペースに誘い座らせ、彼の手に自分が付けている天然石のブレスレットを付けた。


「倉庫の鍵を貸してください。私と彼で見てきます」

「だが! 本当にこれはマズい時の空気だ。何があるか分からんぞ」

「ですから、石川さんはここで待っていてください。十分して戻らなければこのまま一階まで降りて守衛室に行ってください」


 九尾の言葉に石川は迷い、何かを言おうとして言葉に詰まり、最終的に倉庫の鍵を渡してくれた。


 促されてついていく晴信だが、正直に言えば待っていたかった。足取りは重く、体にかかる圧迫感は更に増している。


「晴信さん、手を繋ぎましょうか」

「手、ですか?」

「はい。少しはよくなりますよ」


 そう言って差し伸べてくれる手におずおずと触れた。その瞬間、ずっと胸の辺りを押しつけていた圧力が霧散して怖い空気も薄らいだ。

 楽に息が出来る事に安堵していると、九尾はくすくすとまた笑う。まるで恐怖など感じていないかのように。


「九尾さんは、怖くないのですか?」

「個人的には恐怖はありませんよ。ただ、貴方や石川さんが巻き込まれる可能性を考えて先程までは気を張っておりましたが」


 全てにおいて素早く対応していたから、九尾も危機感があったのだと思ったが……方向性が違ったようだ。


「恐怖は恐怖を引き寄せる。過剰な感情はこうしたものに伝わります。生きている人間の方がよほど強いのですから、むしろ気丈に振る舞えばよいのですよ」

「今はちょっと……」

「練習が必要ですね」


 苦笑した九尾に連れられて、晴信は例の倉庫へと到着した。


 物が全てひっくり返る怪異が起こっている倉庫だが、扉を開けた感じは何の変哲も無いただの倉庫。窓もなく、相変わらず空気は重いがそれだけだ。

 晴信を廊下に置いて九尾が中へと入っていく。晴信に課せられたのはドアが独りでに閉じたりしないようしっかりと見張っている事と、異変を察知したら直ぐに声をかけることだ。


「九尾さん、大丈夫ですか?」


 控えめな声で問いかけるが、彼はいたって平気そうな様子でいる。心臓が強い。いや、妖だからか?

 待っている晴信の方が余程怖くて周囲に気をはっている。早く九尾が戻らないかと冷や汗と寒気に震えていると不意に誰かがスーツの裾を引いた。


「え?」


 驚いて振り返るとそこには五歳くらいの女の子が立っていた。肩くらいまでの黒髪にふんわり柔らかな頬、大きく愛らしい瞳の子だった。

 でも、どうしてここに? 既に時刻は二十三時近い。なによりここ、オフィスビルで。


 ゾワゾワっと背筋に寒気が走り恐怖が足元から這い上がる。瞬間、女の子の口元が大きく裂けて愛らしかった目がグルンとひっくり返ると真っ黒な穴ぼこのようになった。


『アハハハハハハハハッ』


 裂けた大きな口を一杯に開いて少女が笑うと壁や天井、床に窓にも無数の口だけが現れて一斉に笑い出す。騒音レベルの中で蹲る晴信を九尾が掴みドアに鍵を掛けて走り出した。この細腕に人間一人抱えて走る力がどこにあるのかとか、そんな疑問も僅かには浮かんだ。けれど圧倒的に恐怖心が勝った。


「追ってきます! 九尾さん!」


 少女が辿々しい足取りでついてきている。彼女を中心に笑い声が響き渡る。廊下を進み、エレベーターホールが見えた所で九尾が声を大きく叫んだ。


「石川さん、エレベーターを!」


 声に反応した石川が飛びつくようにエレベーターの呼び出しボタンを連打している。ドアが開いて、駆け込んだ石川が晴信と九尾が飛び乗るのを待って止まるボタンを連打した。

 閉まった扉に一息つく。とてもじゃないがこれ以上はしんどくて九尾を見ると、彼も難しい顔をした。


「一度、守衛室に戻らないか? 仕切り直したいし喉も渇いた」

「そうですね。少し刺激しすぎたかもしれません」


 了承された事に安堵して、石川が一階のボタンを押す。

 だが何故かエレベーターは上昇を始め、晴信と石川は悲鳴のような声を上げて隅の方で抱き合い震えている。


 チーン……ゴンッ


 間延びする機械的な到着音と停止の鈍い音が目的地への到着を知らせてくる。点滅する十八階のランプの赤が妙に鮮明に見えている。

 大きく口を開けたエレベーターのドアから見える先は普通のオフィスフロアと同じに見えた。でも、何かが不自然だ。何が……。

 その時不意に石川が「あっ!」と声を上げて晴信と九尾の視線を集める。見れば先程九尾が渡したブレスレットの紐が切れて、バラバラとエレベーターの床にばらまかれていた。


「すまん!」


 慌てて拾おうとする石川が一つずつ玉を拾っていく。だが、その中の一つがエレベーターを飛び出しフロアへと跳ねたのを追いかけてふと、全員が動きを止めた。

 フロアへと跳ねるように飛んだ玉がピタリと動きを止めていた。空中で。


「なん、で……」


 あり得るはずがない。晴信も石川もその玉を凝視したまま動けずにいると、九尾が【閉】ボタンを押してドアを閉じてしまった。


「出るべきではありませんね。あそこはもう、別の空間です。戻ってこられる確約がなくなります」

「あの、あれは一体……」


 何が起こったのか理解できない晴信に向かい、九尾はスーツのポケットを指差す。そちらにはスマホが入っていて、取りだした晴信はヒュと息を飲んだ。

 時計が止まっている。秒針まで表示する設定で忙しく動くはずのデジタル時計は今、ピクリとも動いていない。


「俺のも動いてない」


 石川が腕時計を見て同じく驚愕している。二つと照らし合わせるとぴったり同じ時間で止まっていた。


 午後十一時十一分十一秒。


 ゴトンッという重い音をさせてエレベーターが降下を始める。今度こそどこにも止まる事無く一階へ。

 だがその内部は水を打ったように静かで、重苦しい空気が漂っていた。


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