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無事に守衛室まで戻ってこられたのはよかったが、誰も声を発しないまま少し経つ。ソファーにずっしりと腰を沈めて項垂れたまま溜息ばかりの晴信と石川を、九尾が気の毒そうに苦笑で見ているのだ。
「なぁ、兄ちゃん達。これ、どうにかなんのか?」
ようやく口を開いた石川だが、まだ顔色は戻っていない。むしろげっそりとやつれた様子だ。
無理もない、ここは彼の職場でもある。そこでこれだけの恐怖体験をしたのだから、この程度の言葉が出るのは当然だ。むしろ辞めると言わないだけ、この人は胆力がある。
晴信も不安にかられて九尾を見つめた。今まで見ることは日常で、声も日常で、なんなら寝ている間に首を絞められるとか足首持って引きずり倒される事まであったが、ここまでの命の危険は感じていなかった。
二つの視線を受けた九尾はやや困りながらもしっかりと頷いた。
「道具と場所を揃えれば解決いたしますよ」
「本当か?」
「直ぐに、とは申しませんが。儀式を行ってから数週間、長くても一ヶ月の間には綺麗になっていると思います」
それはきっと、この場に入り込み淀む霊を正しい場所に流すのに、その程度の時間がかかるということなのだろう。
「つきましては石川さん、最後に屋上に行きたいのですが」
「屋上? 何だってそんな所」
「この怪現象の原因が何で、霊がどこに向かっているのか。それを明確にしなくては儀式の場所を定められないもので。効果の無い場所で行っても無駄になります」
「そういうことなら」
儀式とか、わりと胡散臭いワードが飛び出しているが、先程あれほどの怪異に遭遇していては疑う余地もないのだろう。もともと石川は人ならざるモノというのを否定してはいないのだろうし。
「少し待ってくれ、屋上の鍵は別にしてあって使う時は連絡入れるんだ」
重い腰を上げて彼が向かったのは鍵付きのボックスで、そこに鍵束の鍵を差し込むと開く。中にはまるでコインロッカーの鍵みたいなものが入っているだけに見える。
……でも、待って。屋上に鍵? そんなもの掛かっていなかった筈だ。だってつい数週間前、晴信はその屋上から飛び降りようとして実際現場に立ったのだから。
「あの!」
「ん?」
「その鍵ってずっとそこにあるんですか? 開きっぱなしとか……」
「ここは飛び降り自殺がそれなりにあって危ないから、屋上はずっと鍵かけてるぞ。開ける時はこのボックスから鍵出して、更に管理事務所に一報入れる決まりだ。一人でなんて絶対に行かせない場所なんだよ」
でも、それならなんであの時は開いていたんだ……。
遅れてきた悪寒に頭のてっぺんまで舐められて鳥肌が立つ。その様子を九尾は困ったように微笑んで見ていた。
管理事務所にも今回の異変調査の話はいっている。石川が事情を説明するとすんなりと許可が下りて、三人で直ぐ下の十九階までエレベーターで移動した。
それでも九尾以外の二人はエレベーターを降りるまでやや時間がかかった。先程までの強烈な体験が尾を引いているのだ。
「おや、降りないのですか?」
数歩先を行き平然とした様子で微笑む九尾に促され、ソロソロと足を進める。
三の倍数ではないこの階は本当に静かなオフィスビルという様子で、暗さも幾分ましに思える。おそらく今日回った場所が異様な暗さだったのだろう。
エレベーターを降りて真っ直ぐ行くと非常口のドアと緑色のライトが見える。少し重たい鉄製の扉を押し開けるとその先は真っ白い筒のような階段と蛍光灯の明かりだけ。それでも明るいというのは一つの安心材料に思える。
「非常口は開いてるんですね」
「そりゃ、なにかがあった時に鍵掛けてちゃ避難できないだろうよ。閉まってんのは屋上の扉だけだ」
ここまで無事だった事で石川の口調もやや元に戻っている。無機質な蛍光灯の明かりもあり三人で固まって上を目指す。空間が筒抜けているからか足音はやたらと響くが、増えたりはしなかった。
行き着いた先のドアは本当に鍵がかかっていた。どうしてなのか晴信が九尾に問うと、彼は何でもない様子で「最初から呼ばれていたのですよ」なんて言う。それで再びゾクリとした晴信だった。
開け放たれた屋上は夜の風が冷たく吹き込んでくる。辺りの光は大半が消えているように思えた。既に午前零時を回っている。
「来たはいいが、何をするんだ?」
「彼に少し見てもらうのです」
「見る?」
石川は分からないように首を傾げ、晴信も同じ反応をする。これに九尾は苦笑し、晴信を屋上の真ん中辺りに促し、そのまま後ろから抱き込んだ。
甘い紫煙の香りがする。距離も体温を感じるものだ。驚き目を見開く晴信の後ろから彼は手で目元を塞いだ。
「まずは深呼吸をして、心を落ち着けて」
耳の直ぐ横から甘い声が流れ込んでくる。ゾワッとする感じにビクッと震える晴信をからかう様に笑う九尾がちょっと憎らしい。
それでも言うとおりにした。一度、二度深呼吸をすると冷たい空気が肺へと流れてきて、吐き出せば溜まった色んなものが出て行く気がする。
「力を抜いて、現実の目は閉じてしまいなさい。これから見るのは目に見えないもの。見たいものを意識するのです。このビルの中を霊がどのように移動しているのか。何が起こっているのか」
スルスルと入ってくる言葉は魔法のように晴信を落ち着け、誘導していく。
霊を見る。しかもビル全体を。それなら壁や天井があると見えない。別に詳細でなくてもいい。建物の中の構造と、各階の様子が一変に見られるように。
「意識を沈めて。その中で目を開けるのです。体は浮き上がり、現実とは乖離する。霊視のような、あるいは夢の中のような感覚で」
目を、開ける!
瞬間、意識は沈み込むのに体は浮き上がる不思議な感覚に包まれた。
世界はべた塗りの黒一色で、ビルの輪郭だけが白い線で示されている。全てのフロアが透過されているみたいで、それを空中に浮かんで俯瞰している。
その建物の中を不意に、青白い光が進んだ。
真っ直ぐに進むのではなく揺れながらふらふらと。そしてそれは無数に存在している。
あぁ、これは鬼火だ。
漠然とそう思う。でも今は何も怖くは感じない。晴信はただの傍観者で、あの鬼火達は彼に気づく事はないのだと分かるのだ。
鬼火は暫くフロアを流れると、三の倍数階の鬼門の位置で立ち止まる。そして誘われるように中へと入っていく。
多くの鬼火がいるからその場所だけ青白く光って見える。
だが不意に黒い穴が開いて、集まった鬼火が一斉に落ちていく。まるで吸い込まれていくようなのだ。
その鬼火達が行き着くのは地下。他のフロアでも同じく、一気に地下まで落ちていく。
その時、ブワッと地下が一気に目の前に広がった。それは青い光の洪水で、各階を巡っていたものが集まりすぎて動けずに押し合っている。全てが南西の一角へと我先にと向かっているのだが、その南西の部屋も一杯で抜け出せない。
鬼火からにょろにょろと腕が生えてくる。苦しそうに藻掻き、助けてと手を伸ばす姿は悍ましいと同時に憐れにも見えてくる。
彼らもまた、抜け出したいんだ。
伸びる腕は晴信へと伸びてくる。引きずり込みたいのか、助けて欲しいのかは分からない。それでも晴信はただ見ているだけだ。地の底から湧き上がる声まで聞こえそうな様子を呆然と見つめ、冷たい指先が足首に触れそうになっても、ただ。
だがその時、不意に腕を掴まれる感じがあってハッとする。
すると一気に世界は色鮮やかになった。遠くに見えるビルの明かり、町の喧噪。普段は感じない色と音の洪水に飲まれそうになる。
「うっ」
その直後に感じた頭痛は頭を鈍器で殴られたように鈍く痛んで目眩がする。思わずふらつくと後ろから九尾がしっかりと支えてくれた。
「初めてにしては上手く潜っていましたね。大丈夫ですか?」
「頭が……」
「少し目を使い過ぎましたね。今日はもうお仕事はありませんので、眠っても構いませんよ」
優しい声にほっとする。目を閉じてズルズルへたり込むと石川が慌てて来てくれて肩を担いで守衛室へと運んでくれた。
「この兄ちゃん大丈夫かい?」
「少し疲れが出たのでしょう。休めば大丈夫ですよ」
心配する石川に九尾が穏やかに伝えてくれる。それでも歩いて帰るのは辛いだろうとタクシーを呼んでくれた。
「状況は理解できました。道具を揃え、次は解決の為に訪れましょう」
帰宅前、九尾はそう確かに石川に伝えた。それに石川も緊張した面持ちで頷く。
後部座席に座り九尾の肩に頭を寄せてぼんやりとしながら、晴信の長い夜は終わりを迎えたのだった。