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闇の丘

 ステマは、全員が外に出たのを確認すると、扉を閉めた。


 パタンと小気味いい音を立てて閉まった扉は、空気の中に溶けるように消えていった。


 もう後戻りはできない。


「ここが、『闇の丘』か」


 シゲが緊張感のある声で言う。


 『闇の丘』は、一見ただの何も無い丘だ。


 広い原っぱの真ん中に、ステマの身長の四倍はありそうな大きな岩が一つあるだけ。星が輝く夜空の下ということも相まって、目の前に広がる景色はとても幻想的に思えた。


 それなのに、丘には暗くどんよりとした気配が漂っている。そんな中で、リンは岩の辺りをじっと見つめていた。


(きっと、魔石はあの辺りにある)


 ステマはそう確信した。


 ピーッ!


「おい、どうしたんだよ」


 アキは突然落ち着きなく鳴き始めたシエルを宥めようとしている。シエルもこの重々しい気配を感じ取っているようだ。普段は大人しいシエルが落ち着かないということは、相手がそれだけ大きいということかもしれない。


 ステマは空を見上げた。


 夜空で輝く満月は、その青白い光を丘の岩に注いでいる。


(やっぱりいない)


 ステマは、リベロから聞いた話を思い出す。


 『闇の丘』にはかつて、月の精が住んでいた。


 通常、精霊は滅多に姿を見せることはないが、月の精は例外だった。


 人間と仲良くしたいと望んだ彼女は、満月の夜に人間にも姿を見せ、人間と交流をしていた。彼女は、親身に人間の話に耳を傾けてくれたというが、ゼドが復活する少し前あたりから、一切姿を見せなくなってしまった。


 それも、ゼドの復活と何か関係があるのかもしれない。


「とにかく、魔石を探そう」


 ステマは他の三人に言う。


 最後の魔石。それを見つけて、ゼドを封印しに行かなければいけない。


 ステマ、シゲ、アキ、ラピスの四人は歩き出したリンに続いて前に進む。


 丘の中心に近付くほどに、嫌な気配が濃くなってくる気がする。ステマは、胃がずんと重くなってきた。他の三人も、少しずつ歩く速さが遅くなっている。


「淀みが近くにある」


 ラピスがそう呟いた時だった。


 ステマたちの目の前に、ぼんやりと人の形をした輪郭が現れた。


「何……これ」


 ステマは一歩後ずさる。


「私たち、囲まれたみたい」


 シゲが固い声で言った。人の輪郭は、次々と地面から湧き出てくる。


 月明りに照らされる透明に揺らめく人影の姿は、背筋を冷やすような恐ろしい雰囲気を纏っていた。


 四人は、それぞれ人影に意識を集中させる。


「なぁ、あいつら、段々色が濃くなってないか?」


 アキが額に汗を浮かべて言う。


 透明だった人影たちは、その身体に少しずつ色を付けていた。髪、肌、瞳、衣服。じわじわと、人影たちの色は濃くなっていき、やがて人間と区別が付かないほどの見た目になった。


「大人から子供まで……色んな人がいるじゃない」


 シゲが驚いたように言う。


「でも、その全員から悲しい気配を感じるわ」


 ラピスが人影を見て呟く。その横顔は、痛みを感じているような表情だ。


「助けてほしいって、思ってる気がする」


 ラピスが言った時だった。


「助けてほしいなんて思ってない……!」


 人影の一人が叫び声を上げる。


「俺たちのことなんて、何もわからないくせに。どこにも行けない俺たちのことなんて……!」


 突如、叫んだ人影の右手から、細い剣が出現する。人影は剣を大きく振りかぶると、ステマたちの方へ突っ込んで来た。怒りに身を任せて向かってくる人影は、勢いよく剣を振り下ろす。シャッと空気を切る音が、ステマの耳にも届いた。


 一番最初に動いたのは、アキだった。アキは、サンからもらった剣で人影の刃を受けた。


 キーン。


 鋭い金属音が辺りに響く。人影は滅茶苦茶に剣を振り回しているようで、アキは刃を避けるのに必死だ。最初は噛み合っていたリズムが、少しずつ狂っていく。


「まずいな」


 シゲが人影に魔法を放とうとした時だった。


 ピィ!


 シエルが人影の瞳を嘴で突いた。


「うわっ! 何だ?!」


 人影は突然のシエルの攻撃に対応しきれず、身体をのげ反らせる。


「今だ……!」


 アキは隙ができた人影の胸に剣を突き刺す。人影は大きく目を見開き、地面に崩れ落ちた。


 人影たちのざわめきが静まる。人影たちは皆、地面に倒れている人影をじっと見つめた。


「……痛い」


 静まり返った丘に、倒れている人影のかすれた声だけが木霊する。


「ああああああ!」


 途端に、他の人影たちが嗚咽を漏らし始めた。重なり合ったそれぞれの嗚咽は、悲劇の不協和音となり、空中で砕け散る。その音の残骸を、吹いてきた冷たい風が方々へ運んで行った。


 人影たちは、次々とその手に剣を構えていく。そして、わき目も振らずにステマたちの方へ向かってくる。


「落ちろ!」


 ステマは、人影たちに雷を落とす。まともに雷を食らった数人が、バタバタと地面に伸びていった。


(静寂の森の番人とは違う。人間じゃ無さそうだけど、ちゃんと実体がある)


 ならば、ひたすら攻撃を仕掛けるまでだ。ステマは、次から次へと人影に魔法を放っていった。


 シゲも人影の身体を硬く凍らせて、動きを封じ込めている。アキも、剣を振るい人影を制圧していた。


 そんな中、ラピスは一人倒された人影たちを見ていた。


 最初にアキに刺された人影は、涙を浮かべてラピスに何か訴えかけようとしている。


「助けて」


 彼の口は――そう動いたように見えた。


(この歌……!)


 人影を倒していたステマは、響き渡る歌声に心を奪われる。


 ラピスは、倒れている人影の傍らで澄んだ声で歌っていた。その姿は、彼らのために祈りを捧げているように見える。


「あぁ……やっと……」


 ステマに攻撃をしていた人影が、柔らかな微笑みを浮かべて言う。そして、その身体は段々透明になっていった。


「やっと、この世を離れられる……」


 人影は、最期にそう言い残すと、空気に溶けるように、跡形もなく消えていく。この人影だけではない。他の人影たちも、同じように穏やかな表情を浮かべ、消えていった。


「この人影は、未練を残して亡くなった人たちの魂だわ。何者かに魔法で実体を与えられ、いつまでも天に旅立てないように、この地に縛り付けられていたの」


 ラピスが言う。


「私の主力魔法は〝浄化〟魔法。私なら、彼らの汚れた縛りを解くことができる。だから――」

「ステマたちは、魔石を見つけに行け」


 アキは、ラピスの肩に手を置いて言う。


「そういうことで合ってるよな?」


 ラピスは深く頷く。アキは「よし!」と自らを鼓舞すると、ステマとシゲに向かって力強く言う。


「ここは俺たちに任せろ!」


 ステマとシゲは二人に頷いてみせると、また沸き上がってきている人影の間を縫って、リンが向かう方向へ走り出した。人影たちは、ステマたちには目もくれず、アキとラピスの元へと集まっていく。二人が引き付けてくれている間に魔石を見つけなければと、ステマは気を引き締めた。


 リンは、真っ直ぐ岩に向かって走っている。


 やっぱり、魔石はあの岩にあるのだ。


 ステマとシゲは、魔石を手に入れることだけを考えて足を前へ進める。


(岩まであと少し……!)


 ステマは無意識に、岩の方へ手を伸ばしていた。この手が、魔石を掴めば、ゼドを封印する手段が手に入る。


 ――ソルディアス王国復活までの道のりは、あと少しだ。


 しかし、ステマの手が魔石を掴む前に、目の前に新たな人影が立ちはだかった。


「――どう、して……」


 その姿を見て、ステマは固まってしまう。


「どうして、あなたがここに……」


 立ちすくむステマの隣で、シゲは表情一つ変えずに目の前にいる彼に問いかける。


「あなたが、本物のリベロさんですね」


 彼女のその言葉に、ステマは頭が真っ白になる。


 だって、リベロはステマにこの旅を託した張本人だから。


 ここにいるはずがない人だから。


「やっぱり、君にはわかるんだね」


 目の前の人影――どう見ても、リベロにしか見えない彼は、光の無い目を細める。何度見ても背丈から声から、全ての特徴がリベロそのものだ。


(でも、違う。あの人はこんな目で笑わない)


 ステマは、なぜかそう確信していた。リベロとは、短い時間しか一緒に過ごしたことがないにも関わらず、だ。そんな自分に、ステマは驚いていた。


「へぇ、彼女がソルディアスの魂を継ぐお方か」


 リベロは、ステマのことを舐めるように見る。どうしてか、その視線がステマには痛く感じられた。


「あなたは誰」


 ステマは、リベロを睨みつけて尋ねる。すると、リベロは「ははは……!」と突然大声で笑いだす。


「こりゃ傑作だ。君は、彼女に真実を教えて差し上げなかったのかい?」


 そう言われたシゲは、唇を噛んで俯いている。彼女がこんな表情を見せたことは、未だかつてなかった。


「シゲ……何か知ってるの?」


 ステマは、シゲの肩を揺する。それでも、彼女は口を開こうとしなかった。


「ねえ! 何か知ってるなら、教えてよ。あの人は誰? 私がソルディアス様の魂を継いでるってどういうこと?」


 リベロはステマたちの様子を見て、楽しそうに笑っている。


「教えて差し上げればいいじゃないか。こんなに知りたがっているんだから」

「……全てを知るには、ステマは優し過ぎます」


 シゲはかすれた声で言う。


「そうやって甘やかしたらいけないよ」


 リベロは声を低めて言う。


「君も僕と同じ、〝影〟なんだから――」


 シゲの表情が強張る。


〝影〟。


 その言葉が何を意味するのか、ステマにはさっぱりわからなかった。


「何のことだかわからないって顔してますねぇ」


 リベロはステマを鋭い目で見る。なぜかその目線には、憎しみが込められているように感じた。


「……だったら、わからせてやるよ」


 リベロが呟く。


「止まれ……!」


 ステマとシゲに向けて、リベロが魔法を使う。


(動けない……!)


 途端に、ステマは一切の身体の自由を奪われたことに気付く。必死で魔法に対抗しようとしたが、指一本動かすことができない。瞬きですら、ままならなかった。一方、リベロは鞘から剣を抜こうとしている。


 このままだとやられてしまう。


(せめて声が出れば……)


 声さえ出れば、相手に魔法が使える。ステマは、声を出すことだけに意識を集中させた。


「これでわかるだろう、〝影〟の真実が……!」


 リベロが剣を抜き、ステマの方へ向かってくる。しかし、ステマもすっと喉の辺りが軽くなったのを感じていた。


「落ち――」 


 案の定、声だけは出せるようになっていた。


 リベロの魔法を一部解くことに成功したのだ。


 落ちろ。


 そう言い切れば、リベロの頭に雷が落ちるだろう。そうすれば、彼の息の根を止められるに違いない。それなのに――。


 ろ。


 その最後の一文字が、どうしても口にできなかった。


 自分に刃を向けるその顔が、紛れもなく父親と同じ形をしていたから。


 同じなのは見た目だけで、中身はステマの知っているリベロではないとわかっていた。でも、ステマはわずかに戸惑ってしまった。


 そして、その戸惑いが運命を分けた。


 ステマの腹に、剣がのめり込んでいく。


 痛いとは思わなかった。


 ただ、熱かった。


 ステマの身体から、力が抜ける。


「ステマ!」


 シゲが叫ぶ声を聞いたのを最後に、ステマの視界は真っ暗になった。


 一瞬の暗闇の後、ステマの視界は急に明るくなった。


 刺されたというのに、不思議なくらい痛みが無い。それに、身体の感覚の全てに、若干の違和感を覚えた。


「シゲ……」


 混乱したステマはその名を呼ぶが、彼女の返事は無い。


 それに、普段の自分の声とどこか違う気がした。


「ほら、真実を見て下さいよ。――王女様」


 リベロは、ステマの耳元で囁く。


 視界の中に入ったものを見て、ステマは言葉を失った。


 剣が刺さったまま、地面に横たわる自分の身体。


「……ス、テマ……」


 虚ろな目をした自分の顔が、自分の名前を呼んでいる。


「ソルディアスの魂を受け継ぐ、王の直系の魂を守る。それが、僕たち〝影〟の役割です」


 リベロが語った真実は、ステマにとってあまりに衝撃的だった。


 ソルディアス王国の王の子は、代々ソルディアスの魂を受け継いで生まれてくる。その神聖な魂の伝承が途切れないようにするため、王の子は〝影〟という特別な守護者を持つ。


 王の子と〝影〟には、特別な魂の繋がりがあり、〝影〟はソルディアスと王の子の魂を守り抜くという契約をするのだ。そして、その契約は王の子に世継ぎができた時に解消され、生まれた子が新たな〝影〟を持つようになる。


「〝影〟はその身を、王の子ために捧げなければならないのです。〝影〟の身体は、王の子の身に何かが起きた時の、魂の器になる存在ですから」


 守るべきは、血縁ではなく、魂。


 それが、王家での掟なのだ。


 だから、次の世代に神聖な魂を受け渡す存在である王の子が致命傷を負えば、その魂は〝影〟の身体に入る。


 そして、反対に〝影〟の魂は–―。


「〝影〟の魂は、致命傷を負った王の子の身体に入ります。つまり、身体と共に滅びるのです」


 そのリベロの言葉が、ステマの頭の中を何度も駆け巡る。


「シゲ……!」


 ステマは、自分の身体を揺する。ごめんなさい。私のせいだ。ステマは、自分でも何を言っているのかわからないままに、呟き続けた。


「早く、に、げて」


 シゲが消え入りそうな声で言う。


「そんなこと、できるわけない」


 ステマの目に涙が浮かんでくる。こんな状態のシゲを、一人で置いていけるわけがなかった。


「ステマは、行かないと、ダメ」

「嫌だ」


 ステマは、シゲの傷口を必死で押さえる。気休めに過ぎないだろうけど、少しでもシゲが助かる確率を上げたかった。


 それでも、シゲはステマの服のポケットから魔石を取り出すと、ステマに握らせて言う。


「頼んだ、よ……」


 シゲはゆっくりと目を閉じた。


「シゲ!」


 ステマがどんなに身体を揺すっても、シゲは目を開けない。ステマは、頭が真っ白になる。


 リベロは、そんなステマの様子を見て楽しそうに言った。


「知らなかったでしょう、この世にこんな絶望があるなんて。王女様には、随分と良い顔を見せていただけました」


それから彼は右手に新たな剣を作り出し、ステマに振るいながら言う。


「滅べ、ソルディアスの末裔め――」


 その時だった。


 ――チリン。


 透き通った鈴の音が、辺りに響いた。


「どうして……」


 リベロの動きが、ぴたりと止まる。彼の視線の先には、金髪を靡かせ、真っ直ぐな目をした男が剣を持って立っていた。


「リベロ。これ以上、彼女たちを傷つけるな」


 男は静かに言う。話し方、目の動き、纏っている雰囲気。普段とは見た目が違うけれど、ステマはこの男が誰だかわかる。


「――お父さん」


 ステマは一人、呟いた。


「いやぁ、まさか魂だけでのお出ましとは……驚きましたよ、王子。いや、カロイさん」


 意地悪い表情を浮かべるリベロを前に、男—―カロイは悲しみに暮れた顔をする。


「リベロ。君は随分変わってしまったね」


 カロイが言った途端、リベロの眉が吊り上がる。


「誰のせいで、変わったとお思いですか」


 リベロの声が震える。


「まだ幼くて、何の判断も付かないうちに、僕はソルディアスと契約しました。それから、人生変わりましたよ。突然故郷を離れて城で暮らさないといけなくなったし、急にあなたの面倒を見ることになった。でもね、そのころはまだ、いつも一生懸命なあなたを見ていたら、あなたに全てを捧げてもいいと思えた。だけど――ゼドが復活したあの日、あなたは私の身体で生きるようになってから、何をしましたか? 国は、良くなりましたか?」


 カロイはただ、黙ってリベロの言葉を聞いている。何も言うつもりはないようだった。


「僕、死んで魂だけになってから、あなたのことが心配で天に行けなかったんです。だからこっそり……あなたを見守っていました。だけど、あなたは僕が見ていた何年間かの間、何一つ王族らしいことをしなかった。国の未来を考えるよりも前に、恋に落ち、家族を作った。もう見ていられなくて、あなたの傍を離れましたよ」


 リベロは、顔にかかる髪を掻き上げる。憎しみに満ちた表情が露わになった。


「王が、王らしいことをしないのなら……どうして、僕はあなたを守らなければならなかったのでしょう。国のためにならないのに、僕が死ななければいけなかった理由がありますか」


 リベロの言葉に、ステマは、はっとする。


 王にしかできないことがあるからこそ、国民が付いてくるのだ。


「国民のためにならない王族なんて、滅びてしまえばいい」

「――だから、ステマたちの命を奪おうとしたんだな」


 カロイの目が怒りに燃えている。カロイは剣を構えて言う。


「だったら、全部僕にぶつけろ。これは、僕たちで終わりにしなければいけないことだ」


 カロイは、ステマの方に向き直る。


「さぁ、行くんだ。国の未来のために――」


 ステマは立ち上がった。すぐ後ろで、剣同士がぶつかり合う甲高い音が聞こえる。カロイとリベロは、二十四年の時を経てようやく、あの日の答え合わせを始めたのだ。


 ニャア。


 リンが岩の頂で、美しい青い瞳を光らせている。


 それはまるで、闇夜で輝き旅人を導く、一番星のような光だった。


 ステマは、涙を拭うと自分の背丈よりも遥かに高さのある岩に手をかける。リンは、頂からステマを見守っているように見えた。きっと、魔石はあそこにあるのだ。リンは、ステマが登ってくるのを待っているのだ。


 ステマは岩の凹凸に足を掛けながら、少しずつ岩を登っていく。その間にも、カロイとリベロが剣を交える音が聞こえてきていた。


「あっ」


 まずい! と思った時には遅かった。


 ステマは、岩から手を滑らせ、強かに地面に腰をぶつける。痛みに呻きながら、岩を見上げる。家の屋根よりも高さがある岩を前に、ステマは泣きたくなった。


(でも、こんなところで止まってちゃいけない)


 ステマは自らを振るい立たせる。


 ――頼んだ、よ……。


 ステマは、シゲに手渡された二つの魔石を見つめる。


 緑色の魔石、緑葉石りょくようせき


 青色の魔石、水明石すいめいせき


 緑と青の光が、ステマを励ますように揺れている。


 正直、ステマには自分が王女だという実感は全くない。ついさっきそのことを知ったばかりなのだから当然だ。


 それでも。


「私は、絶対に在るべきところから逃げない」


 ステマはもう一度、岩に手をかける。


 上へ、上へ。


 ステマは、手を伸ばしていく。


『三つ目、夜空に光る星の色

朝が見捨てたその丘で

亡霊たちが縋ってる

絶望の地に希望の朝を

運ぶ者こそ、魔石の主だ』


 また、歌が頭の中に流れてくる。


(私が、希望の朝を運ぶんだ)


 ステマはそう誓って、少しずつ手足を動かしていった。


 ニャア。


 リンの瞳が、すぐ目の前まで迫っている。あと一息だ。ステマは腕と足に、力を込める。


「着いた……」


 ステマは、岩の頂にへたり込む。腕も足も、もげてしまいそうな気分だった。


 リンがステマの服の袖を引っ張る。岩の割れ目から、黄色い光が漏れ出ていた。


 ステマは、魔石をそっと指で摘まむ。


 最後の魔石は、星の色に輝いていた。


 緑、青、黄。


 これで、三つの魔石がそろった。


「もうすぐここに、ヤツが来る」


 ステマの頭の中に、甲高い声が響く。リンは、じっと空を見上げている。


「ヤツって、ゼドのこと?」


 ミャア。


 リンは空を見上げたまま応える。しかし、ステマにはそれが肯定と否定のどちらなのかは判断できなかった。


 ステマは、空を見ながら魔石を固く握りしめる。


 星空の遥か向こうに、黒い影が見えた。


 その影はこの丘に近付くにつれて、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。


 艶やかな黒い鱗に包まれた身体。


 邪神ゼドは、本当に大きな黒龍の姿をしていた。


「本当に来た……! リン、何でわかったの?」


 リンは澄ました顔をしている。


 ゼドは、空でその巨体をうねらせていた。ゼドが羽ばたく度、ステマがいるところまで突風が来る。


(すごい威圧感……)


 ステマは、ゼドの大きさに足が竦んだ。


 ゼドは徐に大きな口を開くと、空中に火を吐き出す。


 青い炎は夜空を明々と照らしている。少し離れたところにいても、微かに熱気を感じるほど、その威力は強かった。


『ああああああ!』


 ゼドが叫び声を上げると、空気がビリビリと痺れる。まるで、地響きのような声だった。


 それからゼドは、丘に向かって滅茶苦茶に火を吐き出し始めた。その行動に何か目的があるとは思えない。ただ、怒りに任せているだけのように見えた。


 ゼドが吐き出す火は、丘の草をどんどん焼いていく。人影たちの悲鳴に乗って、草が焦げる臭いがステマの元にも届いた。


(破壊神だ)


 ステマは、ゼドの姿を見て思う。


 意味もなく、炎を吐き出し続けているゼドは、最早自我でさえも失っているように見えた。


「ヤツはもう、自分が壊れてる。ずっと自分の居場所を見つけられなかったから」


 リンの声が頭に響く。壊れている。確かに、今のゼドの姿を表すにはぴったりの言葉な気がした。


(このままじゃ、皆が危ない)


 ステマは深呼吸をすると、三つの魔石を掌に乗せ、空に掲げた。


 緑、青、黄。


 それぞれの魔石から、三色の光の筋が放たれ、空中で一つの白い光の筋になる。


 あまりの眩しさに、ステマは目を細めた。


 白い光は、しなやかにゼドの身体に巻き付いていく。そして、暴れるゼドの身体をきつく締めあげた。ゼドは苦しいのか、身悶えしている。その度に、掌の魔石が跳ねた。


 魔石と光の筋は、繋がっているようだ。ステマは魔石をなくさないように、しっかりと握る。


(この後、どうすればいいんだっけ)


 ステマは、魔石ごと光の筋を握りしめながら考える。確か、ソルディアスは封印する時、何か呪文を唱えていたはずだ。


 でも、ステマはどうしても、その呪文を思い出すことができない。


 ゼドは、光の筋から逃れようと激しく動く。光の筋はゼドの口も縛り上げているため、火を噴くことはなかったが、ステマはゼドの動きに振り回される。狭い岩の上で、ステマは必死に踏ん張った。意地でも、ゼドを放すわけにはいかなかった。


 ステマとゼドは、しばらくそのまま格闘を続けた。


 抑え込もうとするステマに、逃げようとするゼド。


 そのどちらもが、譲らなかった。


「絶対に、封印する……!」


 ステマは、魔石を握る手に力を入れる。しかし、思うように力が入らなかった。もう、限界が近付いていたのだ。


 魔石を握る指から、段々力が抜けていく。このままだとまずい――。ステマがそう思った時だった。


 突然、ステマの脳裏に、鮮明な映像が浮かんだ。


 それは、一人の青年の人生をほんの一瞬に圧縮したものを、見ているようなものだった。


 青年は、幼い頃からいつも一人。


 寂しさから『静寂の森』の花の精に会いに行き、仲良くなる。


 花の精から『無限の魔力』の一部を与えられたものの、魔力を制御できずに、人を殺してしまい、更に孤立。


 先を思い悩んだ青年は、月の精に助けを求めようとするが、思ったような返事が得られず、かっとなり力を暴走、月の精を殺してしまう。


 自暴自棄になった青年は、自分が住む村で生贄を捧げればゼドが復活すると嘘を言い、自らがゼドのふりをし始めた。


 青年の人生が、一瞬でステマにも流れ込んでくる。今や、ステマにわからないことはなかった。


 花の精から授けられた『無限の魔力』が覚醒したのだ。


 ステマは無意識のうちに、覚醒した力でゼドの過去を見ていた。いや、感じていた。


 悲しい。寂しい。居場所がほしい。


 青年の心の揺れが、そのままステマにも伝わってくる。一瞬の間に、ステマは一人の青年の人生を生きていた。


「あなたは、ゼドじゃない。――ヤハンよ」


 ステマは、彼の本当の名前を呼ぶ。彼に本当の自分を見つけてもらいたかった。


 その途端、黒龍の鱗がばらばらと崩れて、空中に舞う。それは地面に落ちる前に、散り散りになって消えていく。まるで、夜空にだけ黒い雪が降っているようだった。


 ステマは、その美しくも悲しい景色を、ただ静かに見つめていた。


 全ての鱗が落ち、中の男の姿が露わになる。


 ステマが想像していたよりもずっと平凡な一人の人間だけが、そこに残った。


「そうだ。俺は、ヤハンだった――」 


 ヤハンが、呟く。彼は、どこかすっきりとした表情をしていた。


「ヤハン。在るべきところに在れ」


 ステマは、自然とその言葉を口にしていた。彼にかける言葉として、それが一番相応しいと思ったからだ。


 すると、魔石の輝きが増し、白い光がヤハンを包み込んだ。その光は綺麗な球体となり、やがて三つの小さな光の球に分かれた。


 緑、青、黄。


 光の球は、それぞれの魔石の中に納まっていく。


――チリン。


清らかな鈴の音が、辺り一面に儚く響く。


それと同時に、一瞬だけ夜空が虹色に輝いた。


その光景は、とても現実とは思えない、絵画のように美しいものだった。


「終わった……」


 ステマは、その場にへたり込む。そんなステマの髪を、降り出した柔らかな雨が、しっとりと湿らせた。


 まるでその雨は、全てを洗い流してくれているように感じた。


 雨の中で、ステマはうずくまって泣いた。それは、シゲを想っての涙だ。


 ゼドを封印するという、旅の目的は果たしたのに、ステマの心は重く沈んでいた。シゲを救えなかったことが、とにかく悲しくて、悔しかった。


「ステマ」


 幼い頃から何度も聞いてきた、優しい男の声が、耳元で聞こえた。ステマが顔を上げると、いつもの夢で見るあの男が、お日さまみたいな笑顔を浮かべていた。


「やあ、夢以外で初めて会ったね」

「……ずっと、私たちを導いてくれてたくせに」


 ステマはもう、リンの正体が彼だったということがわかっていた。


「僕は、自分の魂を引き継いだ子が心配で、少し見守ってただけさ。封印を成し遂げたのは、君の力だ」


 ステマは、彼に背を向ける。褒められたのは嬉しいけれど、今はシゲのことを想って涙を流していたかった。


 しかし、彼はステマに手を差し出しながら言う。


「今すぐ彼女のところへ行こう。泣くのはまだ早い」


 彼の手を握ると、ステマはシゲと最後に別れた場所に来ていた。


 横たわっているステマの身体の周りには、アキ、ラピス、そしてカロイの魂がいた。全員が、ゆっくりこちらを見る。


「ステマ……」


 アキが泣きだしそうな声で言う。シゲの顔を見てもステマと呼ぶということは、カロイから状況の説明をされたのだろう。


「まだ息はあるけど……きっともう」


 ラピスが俯く。


「リベロは、消える直前ステマに謝っていた。『本当に申し訳なかった』と。彼は、後悔を抱えながら旅立っていった。それだけは、伝えておく」


 カロイがぽつりと言った。後悔していたからといって、ステマはリベロを許す気はない。ただ、彼を責める気持ちもなかった。


 悲しい。


 ステマが思うのは、ただそれだけだ。


 そこからは、誰も話そうとしなかった。しとしとという雨の音だけが、丘に響いている。


 ニャア。


 そんな沈黙を打ち破ったのは、リンだった。


 リンは小さな身体で、ズルズルとカバンを引きずっていた。


「これ、シゲのカバンだよね」


 アキが震える声で言う。リンは、皆のしんみりとした空気などお構いなしに、シゲのカバンをこじ開けている。パチン、とボタンが弾け飛ぶ音と共に、無造作に詰められていたカバンの中身がいくつか転がり出てきた。ステマは、それらを一つ一つ拾い集める。


「ねえ、これって……」


 アキが、自分の足元まで転がってきた瓶を見つめながら言う。その瓶を見た瞬間、ステマは『静寂の森』で言われた、花の精の言葉を思い出した。


――これさえあれば、病気も怪我も怖くありません。


「貸して」


 ステマは、アキから瓶を受け取ると、横たわった身体の口を無理やり開いた。そして、琥珀色に透き通った蜜を少し流し込んでみる。


 この蜜が効く保証なんてどこにもない。それでも、可能性があるならば信じてみたかった。


 その場にいる全員が、固唾を飲んでステマの身体を見つめている。少し経っても、特に変化は訪れなかった。


 本当に、もうダメなのかもしれない。そんな諦めムードが漂い始めた時、ステマの身体の傷口が、みるみるうちに塞がっていった。頬にも赤みが戻っていく。


 その場の空気に、張りが戻る。


 傷口が塞がっていくのと連動するように、ステマの意識は少しずつ薄れていった。軽いめまいがして、ステマはその場にしゃがみ込む。


 そして、一瞬目の前が真っ暗になった。


 ステマが目を開けると、覗き込んでいる皆の顔と目が合った。


 ステマは、ぱっと飛び起きて、自分の顔を触った。よく馴染んだ感触が、手に伝わってくる。


「ステマ――やり遂げたんだね」


 幼い頃からずっと見てきた笑顔を見た途端、ステマの目にさっきまでとは違う種類の涙が溢れてくる。


「シゲ!」


 ステマは、姉のように慕ってきたその胸に、幼い頃ぶりに飛び込んだ。


 ――チリン。


 美しい鈴の音が、軽やかに丘を駆け抜けた。


「僕は、そろそろ帰る時間みたいだ」


 カロイの身体は、少しずつ色が薄くなっていた。カロイは、自分を見つめる透き通ったガラス細工のような双眸に気が付くと、深々と頭を下げた。


「ここに連れてきて下さって、ありがとうございます。お陰で、最後に彼と向き合うことができました」


 ニャア。


 リンは、鈴を転がしたような声で鳴くと、風のように走り出した。白く美しい毛並みが線となって、岩の裏側へと消えていく。


「ありがとう。ソルディアス様」


 ステマは、その後ろ姿に向かって言った。


「ステマ……これから、色々やることがたくさんあるぞ」


 カロイは消えかけた身体で言う。


「私一人じゃ大変だから、しばらくは元気でいてよね、お父さん」


 ステマは蜜の入った瓶を掲げて言う。


「今、お父さんって――」


 カロイの身体は、そこで完全に消えた。ステマは、仲間たちと笑い合う。続きは、家に帰ってから聞いてあげよう。


「あ……見て」


 ラピスが雨の上がった空を指差す。


 そこには、満月の光に照らされて、淡く輝く虹がかかっていた。


 ステマは虹を、しっかりと目に焼き付ける。この空を、絶対に忘れるものか。ステマは、そう心に誓った。


 ピー!


 アキの肩から、シエルが嬉しそうに舞い上がる。その青く輝くシルエットが、星空を思いのままに駆け巡った。


 ――今こそ、飛翔の時だ。


(絶対に、この国の未来を明るくしてみせる)


新たな国の王女は、月虹の下で、そう決心する。


 ――ソルディアス王国の物語は、こうしてまた動き出したのだった。


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