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鏡の湖

 次の日、ややすっきりとしない曇り空の下で、ステマ、シゲ、アキの三人は『鏡の湖』に向けて、出発しようとしていた。


「お兄ちゃん……」


 寂しそうな様子のコウに、アキは「安心しろ。すぐ帰ってくるからな」と言って笑う。シエルもアキの肩から、ピイ! と声を上げた。


「何て言ってるの?」

「ボクがアキを守る! だってさ」


 アキが声を甲高くして言った。どうやら、シエルの真似らしい。ようやく、コウに笑顔が咲く。


「留守は任せろ」


 サンはアキに声をかける。アキはそれに頷いて応えた。


「行ってきます」


 アキは高らかに言う。彼の家族に見送られながら、三人はリンが歩く方向へ、一歩を踏み出した。


「ここから西に半日向かって歩くと、『鏡の湖』に着くな」


 シゲが地図を見て言う。この分だと、まだ日があるうちに辿り着きそうだ。


 ステマは、隣を歩くシゲとアキを見た。二人は、気軽にハイキングでも行くかのように談笑している。


 それが、ステマの心を揺らす。


(二人は不安じゃないの?)


 静寂の森では、魔石を見つけることができたが、残りの二つがどうなるかはわからない。それに、ステマは今、魔石を持っている。これだけは守らないといけないと思うと、心がずっしり重くなる。


(こんな重いことを、『自分のため』だけにやってしまっていいの?)


 ステマは、答えの出ない自問自答を続ける。


「え、二人って姉妹じゃなかったの?」

「うん。ステマのお母さんの店で、住み込みで働いてるの」


 二人はそんなことを話している。


 どうして、そんなに余裕なのだろう。そこまで考えて、ステマは一つの結論を出す。


 二人は、とっくに覚悟を決めていたのだと。


 国の未来のために行動する覚悟を。


 だから、ぶれないし、今更ジタバタすることもないのだ。そう思うと、二人が眩しく感じた。


「でも私たち、姉妹みたいなものだよね?」


 シゲが、ステマに問いかける。


「まあね。うんざりするほど、一緒にいるもん」


 ステマは、努めて明るく言う。二人には、不安を悟られたくなかった。


「ちょっと。うんざりって何よ。うんざりって」


 シゲは、大人気なく口を尖らせている。大丈夫。気付かれていない。


 ステマは安心すると同時に、少し寂しくも感じるのだった。


 三人は、話しながらも着実に歩みを進めていった。雲に覆われて白く霞んでいた空は、ほんのりと茜色に染まってきている。もう、結構な時間歩いていた。だけど、ステマは不思議とそんなに疲れを感じなかった。色々と考えてしまって、疲れを感じる暇がないのかもしれない。それか、単純に歩き慣れただけなのか。どちらにしても、疲れを感じないのは、ありがたいことだ。


 三人は、林の中に入る。この林を抜ければ、『鏡の湖』だ。一体、どんな危険がある場所なのだろう。そんな不安と共に、木々が視界の隅を駆け巡っていく。


そして、三人は林を抜けた。


「わぁ……」


 目の前に広がる光景を見て、ステマは思わず声を漏らした。


「本当に、『鏡の湖』なんだなぁ」


 アキも口が半開きになっている。それも無理はなかった。


 それほどに、美しい景色がそこにはあった。


 『鏡の湖』という名の通り、湖は波一つ立っていない。静かな水面は、曇り空をそっくりそのまま映している。湖の周りには、色とりどりの花が咲き乱れていて、こうして見ると、憂鬱な空も綺麗に見えた。


「現実の世界じゃないみたい」


 シゲがぽつりと呟く。


 三人は、しばらくただ、湖を前に立ち尽くしていた。


 ニャア!


 リンの鳴き声で、ステマは我に返る。


 リンは転がるように、湖に向かって走っている。まるで、湖に吸い寄せられているみたいだ。


 このままだと――落ちる。


「ダメ!」


 ステマは、慌ててリンを追いかける。湖はだいぶ深いように見えた。それが猫ならば、尚更だ。


「リン!」


 ステマは、必死にリンの身体を掴む。そのまま、柔らかな毛並みを抱き、ステマは草の上に倒れ込んだ。何とか、リンが湖に落ちるのを防ぐことに成功する。張りつめていたステマの気持ちが緩む。


「リン、危ないでしょ」


 ニャ。


 わかっているのかいないのか、リンはけろりとした顔つきだ。


「ステマ、大丈夫?」


 シゲの心配そうな声が聞こえてくる。ステマは「大丈夫!」と返事をして、リンを見る。


 リンは、ステマの腕の中で、湖を見つめ続けていた。


「もしかして、湖の中に魔石があるの?」


 ステマには、リンが微かに頷いたように見えた。


 後ろから、シゲとアキの気配を感じる。そろそろ立ち上がろうと、ステマは身を起こす。


 その時だった。


『大丈夫だよ』


 ステマの耳に、甘い少女の囁き声が聞こえたのは。


(誰――?)


 ステマは、周囲を見回す。しかし、視界に入るのはシゲとアキの姿だけだ。


「どうした?」


 アキがステマに尋ねる。シゲも、怪訝な顔をして、ステマを見ていた。


(二人には、聞こえなかったの……?)


 ステマは、体温が一気に下がったような気がした。


『怖くないよ。こっちにおいで』


 また囁き声が聞こえる。


「誰なの?」


 ステマは見えない相手に問いかける。そうせずにはいられなかった。


「ステマ? 誰と話してるの?」


 シゲがステマの顔を覗き込んでくる。


『私たちのところに来たら、楽しいよ。ずっとずぅっと、一緒に遊ぼ?』


 ステマには、その言葉はとても甘美なものに思えた。


 ――湖が呼んでる。


 ステマは、そう確信した。


 リンを地面に置いて、立ち上がる。そこからは、何も考えていなかった。


 ステマは、湖に向かって駆け出す。


「ステマ!」


 シゲが叫ぶ声が聞こえた時には、ステマは透き通った水の中に身を預けていた。


 耳元に、優しい歌声が聞こえる。ゆったりとした曲のメロディーと、ステマの意識がとろとろ溶け合っていく。とても心地よい。しばらくまどろんだ後、ステマは目を開ける。


 ステマは、柔らかなベッドの上に寝かされていた。床も天井も、汚れ一つなく真っ白だ。ベッドの周りには、ベールのような白いカーテンがふんわりとかけられている。実際には見たことがないけれど、城の寝室はこんな感じなのだろうと思わせるような雰囲気の部屋だった。


「起きた?」


 耳元に、甘い声が響く。声の方向に顔を向けると、そこにはステマよりやや幼い印象の少女がいた。見たところ、十五歳くらいだろうか。彼女はにっこり微笑む。野の花を思わせる、可憐な笑顔だ。


「私はラピス。あなたの名前は?」

「――ステマ」


 少女――ラピスからは、敵意が感じられない。ステマはなぜか、彼女を見ていると幸せな気分になっていった。


「怖かったね。不安だったね。でも、もう大丈夫だよ」


 ラピスは、ステマの髪を撫でる。人からこんなことをしてもらったのは、いつぶりだろうか?


「私たちの城へようこそ、ステマ」


 ラピスの言葉は、すんなりとステマの心に滑り込んでいった。


「ステマと一緒にいた二人も、ここに来てるよ」


 ラピスは、ステマの髪を撫でながら言う。


「それから、小鳥さんと猫ちゃんも。皆、ステマを追いかけて来たみたい」


 ラピスは、「いいなぁ」と呟く。その横顔は、どこか寂しそうだった。


「そろそろ皆も起きた頃かな。……ねぇ、ステマ。私と一緒に来て」


 ラピスの手が、ステマの手の中に滑り込んでくる。その感触が、何だか懐かしい。


 二人は、幼い少女のように手を繋ぎながら、寝室を出た。


 部屋の外には、白く長い廊下が真っ直ぐ伸びていた。廊下は塵一つ無く、艶やかに輝いている。


(長い廊下……)


 その廊下の先は、見通すことができなかった。それだけ、この城が大きいということだ。


「このお城、広くて綺麗でしょ」


 ラピスが歌うように言う。


「さ、行こう」


 ラピスに手を引かれるまま、ステマは走る。白い景色の中を駆け抜けていると、まるで雲の上を走っている気分になった。


 しばらく走って、ようやく行き止まりに辿り着く。ラピスは、目の前の窓を開いた。城の中に、涼しい風が吹き込んでくる。


「ほら、見てごらん」


 ラピスが、窓の前をステマに示す。ステマは、窓から外の景色を見てみる。


「何これ……! すごい……」


 城の外には、広大な花畑があった。淡い色合いの花々に囲まれて、たくさんの少女たちが思い思いに遊んでいる。その景色は、まるで水彩画を見ているようだった。


 ラピスは、窓枠に手を掛けると、窓から身を乗り出す。


「何してるの?」


 ステマが尋ねると、ラピスはにっこりと笑う。その表情は幼いいたずらっ子を思わせた。


「付いてきて」


 ラピスは、窓の外に身を投げる。ステマが慌てて下を覗き込むと、ラピスは空中に浮かびながら手を振っていた。


「ステマも早くおいでよ」


 ラピスの声が風に乗って聞こえてくる。ステマは思い切って、窓から飛び出した。


 ふわりと身体が軽くなる。風の一部になったような気分だ。


 ステマは、空中に浮かんでいた。下を見ると、地面が遠くに見える。


「下に下りるよ」


 ラピスがステマの方に手を伸ばしてくる。ステマは、その手を握った。すると、ゆっくりゆっくり、身体が地面に近付いていくのがわかった。


「ここは、夢の国。綺麗なものしかない世界なんだ」


 ラピスが言う。


 綺麗なものしかない世界。


 確かに、この場所はその言葉に相応しい。ステマはそう思った。


「あれ、新入りさん?」

「よろしくね!」

「ねえ、私たちと一緒にお花摘みしない?」


 地面に降り立った途端、ステマとラピスの周りにたくさんの少女が集まって来た。そして、それぞれが同時に話し始める。


「え、えっと……」


 次から次へと話しかけられて、ステマが戸惑っていると、ラピスが「ちょっと!」と少女たちの間に入ってくれた。


「一気に話し始めちゃダメよ」


 少女たちから「えー」と不満げな声が上がる。ラピスは、彼女たちを適当に諫めながら言う。


「ごめんね。この子たち、ステマが来たのが嬉しくて舞い上がってるのよ」

「気にしないで」


 ステマは小さく首を振る。


その時、少女たちの中によく知った顔を見つけた。


「シゲ!」

「ステマ……! 良かった、やっと会えた」


 二人は互いに駆け寄る。何だか、随分と久しぶりに会った気がした。


「アキは?」


 ステマが訊くと、シゲは「あっち」と言いながら後ろを見る。そこには、少女たちに囲まれてもじもじしているアキの姿があった。


「ねえ、シエルは何て言ってるの?」

「シエル、もう一回私に話しかけてみて」


 少女たちは、シエルに猫なで声を出している。


「アキ、人気者だね」

「皆シエル目当てでしょ。あんなに照れちゃってバカみたい」 


 シゲは呆れた様子だ。


(リンはどこにいったんだろう)


 ステマはふと、そう思う。そういえば、まだ魔石も探していない。どうして、こんなに大事なことを忘れていたのだろう。


「シゲ――」

「ねえ、あなたたちって知り合いなの?」


 魔石を探さないと。そう続けようとしたステマを遮り、少女のうちの一人が言った。


彼女には、表情が無かった。彼女だけじゃない。周りに集まっていた少女全員が、目の奥に闇を宿していた。


「私は一人で湖に沈んだのに」


 少女が暗い声で呟く。


(湖?)


 ステマは、はっとして周りを見回した。どうしていままで気にならなかったのだろう。


 ここは、どこなのかということが。


(湖のほとりで、声に導かれた私は水の中に飛び込んだ)


 ステマは、自分の行動を必死に思い出す。


 触れたら壊れてしまいそうな花々が咲く草原の真ん中に建つ、雪よりも白く大きな城。


 そして、本来空があるところでは、波一つない水面が煌めいていた。


「――ここは、湖の底」


 ステマは、やっとそれを理解した。


「そう。ここは、湖の底の楽園よ」


 ラピスが言う。


「私たち――死んでるの?」


 ステマはさっきから気になっていたことを口に出した。


「違う。私たちは、ちゃんと生きてるよ。ただ、特別な世界にいるだけ」

「特別な世界?」


 ステマはラピスに詳しく訊こうとした。しかし、少女たちの金切り声がそれを邪魔する。


「私はずっと、一人だった!」

「一緒に来てくれた人なんて……外の世界に味方なんて、いなかったの!」


 少女たちは、ステマたちにどっと押し寄せてくる。アキの方を見ると、彼の方も同じ状況だった。


 寂しい。


 悲しい。


 悔しい。


 少女たちからは、そんな感情が漂っているように見えた。


「やめて」


 ラピスが鋭い声で言う。それでも、少女たちは止まらない。


「やめなさい。この場所に――汚いものはいらない」


 彼女の顔に、さっきまでの笑顔は無かった。


 少女たちは、動きを止める。一瞬の沈黙の後、少女たちは口々に謝りだした。


「ごめんなさい」

「――心に汚いものを宿してしまいました」


 ラピスは、彼女たちの言葉を聞くと、満足気に微笑んだ。すっかり、元のラピスだ。まるで、彼女の中に二つの人格があるかのような変化だ。


「大丈夫。すぐに楽にしてあげるから」


 ラピスはそう言うと、そっと息を吸う。それから彼女は、透き通った声で歌い始めた。


「……!」


 隣にいるシゲが息を飲むのが、ステマにはわかった。


 天使の歌声。


 そう形容できる声を持つのは、きっと彼女しかいないに違いない。そう思わされるような歌声だった。


 その声は、しっとりと広がって、その場にいた全員を包み込んだ。


 透明なものが、皆の心に沁み込んでいく。


 そして、心に巣食う汚れが全て洗い流した。


 悲しみ、妬み、怒り、不安。


 全部が、消えていく。


 ラピスが歌うのをやめた時、ステマは何かから解き放たれたのを感じていた。こんなに心が軽いのは、随分と久しぶりな気がする。世界中の人に優しくしたい。心の底から、そう思えた。


(何かやらないといけないことがあった気がするけど……もうどうでもいいや)


 何もかも、外の世界のことは全部捨てよう。ステマはそう思った。


 綺麗な世界に、たくさんの仲間たち。


 ここにあるものが全てだ。


「ここは、ステマの居場所だよ」


 ラピスが耳元で囁く。シゲとアキも、恍惚とした表情を浮かべて城を眺めていた。


 ニャア。


 花の間を縫って、リンが走って来る。その姿が愛らしくて、ステマは思わずリンを抱き上げる。


「リン、どこに行ってたの?」


 リンはいつになく、激しく抵抗してステマの腕から抜け出ると、ステマを睨んだ。


「何怒ってるのよ」


 ステマが訊いてみても、リンは何か言いたげにステマを見つめるだけだった。


 湖の底での生活は、本当に〝楽園〟そのものだった。


 ステマ、シゲ、アキの三人は一日中少女たちと語らい、遊びに耽った。


 外の世界では食べたことがないような、美味しい食事。


 外の世界と違って、時間という概念がない一日。


 その全てが、新鮮で――抜け出しがたいものだった。


 ここに来てから、何日経っただろう。


 ステマは、それすらもどうでも良くなっていた。この日もシゲとアキ、それからラピスと何をするでもなく、ただ草の上に寝転んで過ごす。それしかしていなかった。


「今日は満月か」


 ステマは、湖の水面越しに見える月を見て言う。


「本当だ。……こうやったら、掴めそう」


 シゲは、月に向かって翳した手をぎゅっと握る。当たり前だけれど、月はシゲの手に収まることはなく、変わらず夜空に浮かんでいた。


「――私、満月って苦手なの」


 ラピスがぽつりと呟いた。


「どうして? 綺麗なのに」


 アキは怪訝な顔をして尋ねる。ステマも、今まで満月が苦手と言う人に出会ったことがなかったから、ラピスがどうしてそう思うのか不思議だった。


「だって、満月って後は欠けていくだけでしょう。そして、最後は真っ暗になっちゃうんだ」


 ラピスは震える声で続ける。


「外にあるものって、皆そう。どんなに綺麗に見えても、私の周りからはどんどん消えていく。誰も何も、私を助けてはくれなかった」


 ラピスは、ステマの方に顔を向けて言った。


「ステマは、ずっと私と一緒にいてくれる……?」


 ステマが答えようと、口を開きかけた時だった。


 ステマの隣で大人しくしていたリンが、突然ステマの手に爪を突き立てた。


「痛っ!」


 引っ掻かれた手の甲から、深紅の血が滲んでくる。


(こんなことしたことないのに、どうして?)


 ステマはリンの様子を伺う。いつもは静かなリンが、牙をむき出しにしながら何かを訴えかけるようにステマを見つめている。その青い瞳に、わずかに差し込む月の光が反射した。それを見た途端、ステマの胸にざわめきが起きる。


(私、ここにいちゃいけない気がする)


 ステマは、身を起こして頭を抱えた。


 何かが引っ掛かっている。


 忘れたらいけない何かを、忘れている。


「ステマ、大丈夫?」

「触らないで」


 ステマは、ラピスが伸ばしてきた手を払いのけてしまった。どうしてなのかはわからない。ただ、このまま彼女と関わり続けてはいけないと、肌で感じていた。


「どう……して」


 ラピスは、呆気にとられた様子でステマを見つめている。その姿に、ステマは胸が締め付けられる。


「ちょっと、ステマ。どうしたんだよ」

「心配してくれてるのに、今のはあんまりじゃない?」


 アキとシゲがステマを窘める。それは最もな意見だ。ラピスには何一つ、落ち度がないのだから。


 それでも、ステマは何だかラピスが――いや、この場所が怖かった。ここにいると、自分の中から色々なものが零れ落ちていく気がする。ついさっきまでそんなことは思いもしなかったのに、今は深い水の中に放り出されたような不安を感じていた。


(この違和感の正体は何?)


 ステマは、ぐるぐると同じことばかりを考えていた。


 ――チリン。


 微かに聞こえた鈴の音は、絡まったステマの思考を断ち切った。


 ステマは顔を上げる。すると、正面にいるリンと目が合った。



 ステマの頭の中に、子供のような甲高い声が響く。ステマには、リンが言葉を発したように見えたが、他の三人はリンのことなど見ていなかった。ステマは、この声が自分にしか聞こえなかったのだと直感する。


 在るべきところに在れ。


 ステマは、その言葉の意味を考える。きっとそこに、零れ落ちてしまったものがあるはずだ。


(在るべきところ……。私は、どこにあるべき?)


 ここじゃない。


 外の世界だ。


 外の世界で、やらなければいけないことがあるから、あっちに帰らなければ。


(私がやらないといけないこと――それは)


「魔石を探して、ゼドを封印すること!」


 ステマの声に、シゲとアキもはっとした顔をする。


「どうして俺、こんなに大事なこと忘れちゃってたんだろう」

「こんなことしてる場合じゃなかった。早く、魔石を探さないと」


 アキとシゲは、自分が信じられないという様子だ。それは、ステマも同じだった。


「ラピス」


 ステマは彼女の目を見て言う。


「私には、やらなきゃいけないことがある。だから……ずっと一緒にはいられない」


 ラピスに影が落ちる。


「やらなきゃいけないことって……?」

「魔石を探して、ゼドを封印する」


 ゼド、という言葉にラピスが反応する。


「ゼド、本当に復活してるの……? そんな……」


 ラピスの顔が一気に強張っていく。


「封印する? じゃあ、ステマたちは、外の世界に?」

「帰らないといけない」


 ステマが言った瞬間、ラピスは髪を掻きむしり始めた。


「ダメだよ。そんなの。外の世界は汚れでいっぱいで、幸せになんかなれないんだよ? それに、ゼドが復活してるなんて……そんなの、希望なんて無いよ。ここは綺麗なものしかなくて、全部がそろってるでしょう? それなのに、ステマたちはここを出て行くの?」


 ステマは、言葉に詰まってしまう。確かに、今の国は絶望に満ちている。リョウのように、自らの理想を語っただけでも、未来を奪われてしまうような状況だ。


(それに……強い意志がない私なんかに、封印なんてできるの?)


 ステマが不安になったのを見計らったように、ラピスが声を張り上げる。


「行かせないから! あんな欠けていくだけの世界になんて! せっかく……助けたんだから」


 ラピスは、目を閉じると歌い始めた。


 彼女が奏でる旋律は、悲壮感に溢れていて、聞いていると闇の中に引きずり込まれそうな感覚になる。


 その歌声に異常を感じたのか、さっきまではのんびり過ごしていた他の少女たちも、こちらを伺い始めた。


 嫌な予感が、ステマの胸を掠める。


「ねえ、あれ見て!」


 シゲが上を指差して叫んだ。


 それを見たステマは、言葉を失う。


 さっきまで、外の世界の夜空が透けて見えていた水面が、白く霞んで消えかけていた。唯一、この世界にいながら外を感じられた場所が消えようとしている。


(外の世界との繋がりを断とうとしてる……?)


 ステマはそれに気付き、慌ててラピスに呼びかける。


「やめて! 帰れなくなる!」


 それでも、ラピスは歌うことを止めずに、ステマを見た。彼女は目に喜々として光を灯していた。


 ――喜んでいるのだ。


 ステマたちが帰れなくなるのを。


 ステマたちが焦っている間にも、水面はもうほとんど見えないようなところまで存在を消し始めていた。それと同時に、ステマの心からも焦りが消えていく。


(これはこれで、良いのかもしれない。だって、ここにいれば穏やかな暮らしが送れるじゃない)


 ステマは、そんなことを思い始めた。シゲとアキも、さっきまではラピスを止めようと必死になっていたが、今はただ呆然と彼女を見ている。彼らも、ここでの魅力的な暮らしを手放し難いのだろう。


 ニャア!


 リンが、ステマの足に飛び付く。その衝撃で、ステマは一瞬、我に返る。その時を狙ったかのように、ステマの頭の中にあの歌が流れこんできた。


『二つ目、澄み渡る水の色

深い鏡の湖で

寂しい少女ら遊んでる

少女の遊びは終わらない

抜け出た者こそ、魔石の主だ』


(抜け出さないと!)


 ステマは、必死に想う。


 シゲやアキのように、真剣に国の未来を考えていたわけではない。


 サンやリョウのように、国のために行動したこともなかった。


 それでも、この運命の導きに従って、精いっぱい自らの役目を果たしたい。


 たとえ、きっかけが自分のためだったとしても。


「確かに、外の世界は汚くて暗い。欠けていく一方に見えるかもしれない。でも、月はまた、満ちていくの!」


 ステマは、ラピスに向けて言う。


「必ず魔石を全てそろえて、ゼドを封印する! ラピスみたいに国に絶望する人を、一人でも減らせるようにするから。私たちが、夜空を照らす最初の光になるから!」


 ラピスの瞳が揺れる。


「だから、私たちを外に行かせて」


 ラピスは、歌うのを止めた。途端に、ぼやけていた水面が輪郭を取り戻していく。


 ラピスは、涙を流していた。


 頬を伝うその雫は、この世界の悲しみを全て溶かし込んだような色をしていた。


『あなたたちは、ここにいるべきではないようですね』


 突然、辺り一面に透明な声が響き渡る。ステマは、周りを見回したが、声の主らしき人は見つからなかった。シゲとアキも、きょろきょろと視線を動かしていたが、どこから声が聞こえてくるのかはわからないようだ。


「あなたは誰ですか」


 シゲが思い切って尋ねると、声の主は言う。


『私は水の精です。今は――この世界そのものとなっています。あなたたちは、私の中にいるのです』


 ステマは、驚いて口をあんぐりと開けた。今立っているこの地面も、あの大きな城も、全て水の精だと言うのだ。驚かないなんて無理がある。


『この湖の底の世界は、外の世界の犠牲になった人々のために先代の水の精が作り上げたものなのです。……どうして、この場所を作ることになったのか、聞いていただけますか』


 そう言うと、水の精は静かな声で、長い話を始めた。


 水の精は、元々人間だったそうだ。


 彼女が人間として暮らしていたのは、封印される前のゼドが国を治めていた時代だった。厳しい税の取り立てに、安定しない政治。国に秩序などなく、上位の者はどんどん稼いだ代わりに、それ以外の者は貧困に喘ぐ。そんな時代だった。


 水の精の家も、酷く貧乏だったそうだ。税はおろか、その日に食べるものにも苦労していた。


『だから、私の両親は私を捨てたのです。いわゆる、口減らしですね。当時は珍しいことではありませんでした。それだけ、どこも大変だったのです』


 水の精は、三人兄妹の末っ子で、唯一の女の子だったそうだ。


彼女は当時、十六歳。十分に成長していたものの、二人の兄よりもやれる仕事が少なかった。だから、彼女が捨てられたのだ。


『湖に放り込まれた時、私は死を受け入れました。そうするほかないと思ったのです。しかし、先代の水の精は、自らを犠牲にして私を救って下さった』


 彼女が湖に沈んだ時、先代の水の精は自らの存在をこの世界へと変化させた。外の世界の影響を受けず、食べるものにも困らない世界。中にいれば、歳だって取らない。永遠に生きられるし、瑞々しい少女のままでいられる。先代の水の精が用意してくれた世界は、ある意味完璧だった。


 水の精は、一人でこの世界で暮らし始めた。しかし、少し経つと、また少女がこの世界にやってきたのだ。彼女もまた、口減らしのために湖に捨てられたのだった。


 時代が時代だったため、少女の数は着々と増えていき、一つの集団となった。


『でも、ここで問題が生じたのです。先代の力は、限界を迎えようとしていました。いくら精霊と言えども、万能なわけではありません。力を使い続ければ、いずれ消えてしまう。それに、先代は当時すでに高齢だった。この世界を作らなかったとしても、そこまで長く生きられる状態ではなかったのに、たくさんの力を使ってこの世界を守って下さっていた』


 水の精が消えれば、少女たちが暮らす世界も消えてしまう。そうなれば、彼女たちが生きていく場所が無くなってしまうということで、先代は水の精の世代交代を行うことにした。


 そこで、次世代水の精に選ばれたのが、現在の水の精だったという。


『水の精に選ばれた私は、すぐにこの世界を先代から引き継ぎました。それから数千年、責任持ってこの世界を守ってきたつもりです』


 水の精がこの世界を引き継いでしばらくすると、ソルディアスがゼドを封印し、湖にやって来る少女の数は随分減っていった。このまま、この場所が不要になれば良い。彼女はそう考えたが、実際にそうなることはなかった。


『二十四年前のことです。急に湖にやって来る少女の数が増えたのです。しかも、その増え方は尋常ではなくて……』 

「ゼドのせいよ」


 ラピスが鋭い声で言う。


「私は……二十四年前にゼドに捧げられた生贄の一人だった」


 『鏡の湖』の近くには、ゼドの信者たちが暮らす村がある。


 ゼド復活後は、国のあちこちに散っていったゼド信者たちだったが、ソルディアス王国時代は、その湖の近くの村でひっそり身を寄せ合って暮らしていたらしい。ソルディアスが神格化された社会の中では、ゼド信者は異端として扱われたからだ。ゼドの政治が酷かっただけに、ゼドの信者というだけで、国では差別の対象になっていた。


 ラピスは、そんなゼド信者の両親の元に生まれたらしい。


 両親は熱心な信者だった。毎日欠かさずゼドに祈りを捧げ、ソルディアスを罵る。そんな両親の姿を日常的に見ていたラピスも、いつしかゼドを信仰するようになっていった。


 そんな二十四年前のある日。


 村で「ゼドを復活させる方法が見つかった」と言いだす者が現れたらしい。


 そう言いだしたのはヤハンという当時十六歳の青年だった。


「彼は、『自分はゼド様からお告げを授かった』と言ったわ。彼が言うには、ゼドが復活するには大量の生贄が必要だから、すぐにたくさん用意しなければならないとのことだった」


 村はヤハンの話を信じる者と、信じない者で半分ずつに分かれたらしい。ラピスは、信じていない方だった。


「だって、ヤハンは子供の頃に人を殺したことがあるから。彼の目はいつも闇を湛えていて――私は怖かったの」


 ヤハンは、魔法の才能に溢れていた。幼い頃から、天才肌だったようだ。ただ、魔法以外のことは不器用だったという。だから、閉鎖的な村の中で上手く人間関係を築けず、いじめられるようになった。


 そんな時、事件は起きる。


 ヤハンは十歳の時、いじめっ子たちに向けて、怒りに任せて魔法を使った。ヤハンが放った火は、いじめっ子だけではなく、近くにあった家を三軒焼き尽くした。通常、十歳の子供がここまで強い魔法を使うことなどできない。元々天才肌だった上に、この頃の彼の魔力の成長が著しかったことが生んだ悲劇だった。


 この事件がきっかけで、ヤハンは恐れられ、更に孤立していった。


「私は得体が知れないヤハンのことを信用していなかったけど、両親は違ったの。ゼドが復活するなら、と喜んで私を生贄にした。単純にゼドが復活することも嬉しかったんだろうけど、ゼドがまた国を支配するようになれば、自分たちの立場が良くなるとも思ったんでしょうね。湖に沈みながら、私は思った。こんなのおかしい。私はもう、ゼドを信仰しないって。普通なら、そのまま生贄になっていたんだろうけど、私は水の精に助けられたから、こうして生きていられた」


 ラピスは涙を拭いながら言った。


「それにしても……またゼドが復活していたなんて」


 ラピスの顔が青ざめている。


「生贄になる前までは、信仰していたけど、今ならわかる。ゼドが支配し続けていたら、この国は壊れてしまう」

「だから、封印しに行くのよ」


 ステマが言うと、ラピスの目に光が戻る。


「私も行かせて。私も――また、世界が満ちるところを見たい」


 ステマは、ラピスに頷いてみせる。シゲとアキも、同じように頷いている。


(この仲間たちの輪の中が、私の在るべきところなんだよね)


 ステマは、心の中でリベロに話しかけた。


皆で何としてでも、国に光を取り戻さなければならない。ステマはそう、心に誓う。


『あなたはどこか、ソルディアス様に似ています』


 水の精にそう言われて、ステマは驚いてしまった。


「え、私がですか?」

『ええ。一度、彼は私に魔石を託しにいらっしゃったのですが……あなたの瞳を見て、彼の目の真っ直ぐさを思い出しました』


 自分とソルディアスが似ている。


 あまりに恐れ多いけれど、そう思ってくれる人がいるということが、ステマは誇らしかった。


『あなたに、魔石を授けましょう。……足元を見て下さい』


 水の精に言われ、ステマは足元を見る。すると、さっきまでは無かった花のつぼみがあった。つぼみはみるみる膨らんでいき、やがて花を咲かせた。


 その花弁に包まれるように、青い魔石が美しく輝いている。


 ステマは、魔石をそっと手に取る。


 二つ目の魔石が、見つかった。


「いよいよここまで来たな」 


 アキが魔石を見つめて言う。


 この旅に出なければ、彼ともラピスとも出会わなかったと思うと、運命というのは不思議なものだとステマは思う。


 ここまで、長かったようで、あっという間で。


 その全てが自分の一部なのだと、今は思えた。


『次の目的地はどこなのですか』

「『闇の丘』です」


 ステマは、真っ直ぐな声で答える。


 最後の目的地。


 そこがどんな場所なのかはわからない。それでも――進んでいくしかないのだ。


 その時、一瞬周囲の景色が白く霞んだ。湖の底の世界が眩い光を発したのだ。


 あまりの眩しさに、その場にいた全員が思わず目を瞑った。


 目を開けると、目の前には白い扉が立っていた。


 よく見ると、扉には繊細な模様が描かれている。


 この扉を開ければ、新たな世界に行けそうな気がした。


『この扉の向こうは、『闇の丘』に繋がっています』


 水の精はステマたちに言う。


『せめて、これくらいの協力はさせて下さい。――この国の未来を頼みます』

「はい……!」


 ステマは、水の精に精いっぱいの返事をする。


 それから、扉のノブに手を掛けた。この先に、最後の魔石が待っている。


 ステマは、緊張で手が震えるのがわかった。その手に、シゲが温かい手を重ねてくる。


「どんな時でも、私とステマの魂は結ばれてるから」


 彼女のその言葉が、ステマの背中を押す。


「ありがとう。――行ってきます」


 ステマは、小さく呟くと、扉を開ける。


 四人は、それぞれの想いを胸に、新たな一歩を踏み出した。


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