和は日常で聞き慣れない言葉をゆっくり言葉を咀嚼しようとしたが、常識が邪魔をする。早瀬がその様子に、続ける。
「つまり、いらした方が求める料理の作り手は、常世におられ……亡くなっているということです」
それを茜と澄が補足した。
「表にある『二見さん』は私が書いたんですよ」
「一度目のご来店で聞き取った料理を、二度目にお出しするんです」
二人とも、嘘をついている様子はない。だから和はもう一度反芻する。
「……現世と常世」
「人が生きている世界と、死者の世界です」
和も『古事記』や『日本書紀』で読んで知ってはいる。いるけれど、今この店がそうだ、と言われても戸惑うしかない。正常化バイアスが、今度は自動的に働こうとしていた。
……が。否定的な言葉を続けられない。何故なら店での「違和感が説明できてしまう」からで――だからより現実感のない結論に辿り着く。
和は確認のため、慎重に言葉を選んだ。
「聡子ちゃん、と呼んだのは。若い頃の祖母を皆さんご自身で見たことがある、ということは、つまり――」
和がためらいがちに、人間ではない、と続けようとした時だった。
「ご想像の通りです。人が神と呼ぶ存在、でしょうか。茜と澄は私の眷属、神の使いです」
それは先ほどよりずっと現実味のない単語だった。今まで見たことのある小さなひとは人目を避けていた。人間と同じ姿形で会話を交わし、店を開くなんて存在は初めてだ。
「そうですね、無理に理解する必要はありません。この店での記憶はすぐに夢のように薄れますし、願わなければ二度と来ることはありませんから」
「……もう店長、違いますよ。大事な記憶を思い出して、必要ないほど元気になってもらう、でしょう」
「ああ済みません、いつもの癖でつい直截すぎる物言いをしてしまって。……お祖母様にもよく注意されたんですよ」
隣で洗い物を手伝う澄の突っ込みを受けて言い直した早瀬は、苦笑を浮かべた。
それで和もまた、生前の祖母に食事のマナーや悪戯を注意されたことを思い出して、口元を緩めようとした。
和が状況を少しずつ受け入れようとしていたその時、突然、入り口の戸ががらりと開き、誰かが店内に足早に入ってきて場の目を奪った。茜が真っ先に駆け寄る。
「いらっしゃいませ! って斉藤さん、どうしたんですか? お約束は来週のはずじゃ……」
斉藤と呼ばれた一人のスーツ姿の男性は、年頃は三十を超えた頃か、ナイロン製の肩掛けビジネスバッグに革靴。細いフレームの四角い眼鏡が真面目そうな印象だった。
「そうなんですが、どうしても気になってしまって……」
眼鏡の奥で、誠実そうな焦げ茶色の眉と目尻が下がった。それがそのまま茜からスライドして和に突き当たり、慌てたように早口で頭をかく。
「あっ、済みません。他のお客さんがいるとは」
「大丈夫ですよ、別に予約制じゃないですから。まあ年中閑古鳥が鳴いているからなんですけど」
澄は苦笑いをしてから、どうぞとカウンターの椅子を勧めた。彼が席に着けば茜が給仕に動く。
早瀬は申し訳なさそうに「失礼します」と和に言葉と目線を送ってから、表情を改めた。棚の中から取り出した白い紙の折り目を開いてカウンターに丁寧に置く。
「お母様からは、熊笹に『かささぎの渡せる橋』と書いた結び文が返ってきました」
特に耳を澄まさなくとも、静かな室内によく声は通る。和は新しい来客に再び匙を動かしながら、つい窓際の熊笹に目を向けた。
平安時代、特に貴族は季節の花や模した作り物に手紙を結んで贈った。紙の色、香り、添えた植物にも言外の意図を込めたという。紫陽花にもよく見れば白い紙が結びつけてある。
「本当に? 以前に話していた川から、ですか?」
「ええ。斉藤さんは
「名前だけは」
「国土と多くの神を産んだ夫婦です。死んだ伊邪那美を伊邪那岐が黄泉の国に迎えに行くのですが、振り返るなという約束を破ったために叶えられませんでした」
一拍置いて、早瀬が話し始めたのは『古事記』に書かれた日本神話だった。
「地上に戻った伊邪那岐は川で禊を行い、罪穢れを落としました。それらは川に住む
和は先の説明を思い出す。斉藤もまた半信半疑といった面持ちではあるが耳を傾けている様子だった。
「今から結果をお見せしますね」
カウンターの上に、お盆ほどの大きさの陶器が置かれた。温かみのある白い縁が立っている。
「持ってきました」
澄が運んできた木の手桶から早瀬が柄杓で水を注ぐと、水盤ができあがる。静かで波紋一つ無いそれに、彼は習字で使う半紙の、半分ほどの大きさの手紙を重ねた。
一枚目は白の紙にびっしり並ぶ几帳面そうなボールペン字、もう一枚の「かささぎ」は毛筆だった。二枚の紙は見る間に水を吸い込み、文字を滲ませるかに思えた――が、そうはならなかった。
水の上へするりと文字が泳ぎだし、揺らぎ、重なっていく。そこからインクと墨が水煙になって立った。続いて白い米、茶色の煮物や黄色い卵らしき色が現れ、料理を構成していく。幅広の緑の色に乗せられた米の塊と素朴に置かれた黄色や茶色の具材……ただしもやがかかったように、はっきりしない。
早瀬はそのもやの端を空いた指で摘まむようにして、口に含んだ。味見をするように目がすっと細められる。
幻影は一分ほど宙を漂っていたかと思うと、再び煙となって水盤の上の文字になり、泳ぎ、元の紙に収まった。
早瀬の指が紙を掬い上げれば、摘ままれたのは浸す前と何一つ変わらない紙だった――水滴ひとつ零れない。
時間にして二、三分。斉藤と和は瞬きも忘れて見つめていた。
「……手紙に込められた記憶です。一方通行に読む絵巻物のようなもので、次第に染みができたり、古びて読めなくなっていきます。ですから通常二枚の記憶を重ねるのですが」
「と、いうことは」
「亡くなった日付が昔であればあるほど不明瞭な内容になります」
その言葉に、斉藤が息を呑む。それからややあって、口から乾いた声が漏れた。
「……そうですか。最後に母に会ったのは五歳で、真っ白い部屋だったのを覚えています。その後父に、離婚して遠くに行ったとだけ説明されたので……毎年、誕生日プレゼントも届いたので、つい、最近まで生きていたものかと」
和の耳に届いたか細い声は、自身を納得させるような響きがあった。きっと白い部屋は病室で、離婚したというのは父親の気遣いからの嘘。
和も、場の全員がそれを想像したのだろうか、沈黙が落ちる。
しかし、沈黙を破ったのも彼だった。
「それで、かささぎとは? 鳥は飼ったことありませんが」
「そうですね。和歌の解釈はあまり得意ではないのですが……」
「あの、『かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける』、百人一首に選ばれた大伴家持の和歌、ですよね。新古今和歌集の冬の歌に収められている」
和が迷う声に重ねたのは、きっと自分でも何か助けになれないかという出来心。現実味のないものを見たからか、つい声を上げてしまっていた。
次の瞬間、視線が集まる。やりすぎたかと弁解するより先に斉藤の切羽詰まった声が尋ねてきた。