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第四話 七夕伝説と口裂け女

「どんな意味なんですか?」

「七夕の日、織姫と彦星のため天の川にかささぎが連なって渡す橋。それに似た宮中の『はし』……階段におりた白い霜を見れば、夜が更けていたのに気付いた――冬の情景を描いた歌です。

 かささぎは見立ての技法で、実際に見たとは解釈されていません。というのは『日本書紀』に飛鳥時代に持ち込まれた記述はありますが断定できず、『源氏物語』でも写本によって鷺と書かれたり烏鷺、として表記のブレが……あっ」


 斉藤の顔に疑問符が浮かぶ。余計だったかと口を閉じた和に、助け船を出すように早瀬が主題を引き戻した。


「斉藤さんから伺っていたのは、普段のちらし寿司でしたね。まだ試作段階ですが、それで宜しければ」

「はい」

「和歌の意味と結んだ笹から、七夕と関連があるかと試行錯誤していたところなので、ヒントをいただければ嬉しいです」


 早瀬は斉藤が頷くのを確認してすぐ、背後の炊飯器から湯気を立てる米を桶に移し、寿司酢などを混ぜて酢飯を作っていった。 


「こちらを、先ほど見たようなちらし寿司にします。具は別にお出しします」


 カウンターの向こうはキッチンになっている。早瀬は手早く卵を割ると、菜箸の先を卵黄にぷつりと入れて手早くかき混ぜ、熱した四角いフライパンに流し入れた。

 同時に隣のコンロでは鍋に湯を沸かし、さやいんげんや下処理をした海老をさっと茹で上げる。まぐろのサクを切り、キュウリなどを刻む手際も手慣れている。

 冷蔵庫から作ってあったかんぴょうの煮物や桜でんぶなどを揃え、白い陶器の皿に酢飯と共に並べた。


「……如何でしょうか」


 目の前に置かれた皿を凝視していた斉藤は、箸で試すように酢飯の上に並べ、首をひねって口に運び――息を付く。嘆息。

 やがて箸を置いた彼の顔には諦念が見て取れた。


「多分、こんな感じだったと思います」


 そう言った彼の力ない微笑を見れば、妥協しているのは明らかだった。


「作り直しますので、少しお時間をいただけますか……一週間か、二週間ほど」


 早瀬の申し出に澄がそっと着物の袖を引けば、藍色の目に何故か傷ついたような色が浮かぶ。

 斉藤の視線は寿司に注がれたまま、カウンターに静かに声が落ちる。


「実は、約束より早く来た理由が、食べたいと言っていた父の具合が思わしくないからなんです。職場と病院の行き来で、ここに来る時間を作るのが難しい。一週間、二週間後にはどうなっているか」

「……申し訳ありません」

「そもそも、母親オリジナルの寿司だと思うので、再現なんて無理ですよね。……ありがとうございました」

「お力になれず申し訳ありません」


 斉藤の言葉は拒絶に近く、茜と澄の表情に焦りが浮かぶ。そして早瀬は、やはり傷ついたような顔のままだった。

 やりとりを見ていただけの和の胸も、重苦しくなる。

 神様だから何とかなる、などと無意識に思い込んでいたからだろう。そもそも日本の神は自然物に宿り、万能などではないのは知っていたはずだったのに。

 でも、だから――何故そんな彼が店を開いて、祖母が度々来て絵本の題材に描いたのか。助けられたのだったら、そして祖母だったら、できることをしたに違いない。


「――あ、あのっ」


 がたり。

 椅子の鳴る音と共に室内に響いた声の主は――和は自身の声が思ったより大きいことに驚く。再び注目を集め頬に熱が上るのを感じるが、お腹と胸の中はもう少しだけ温かかった。


「行事食は地域差が大きいです。お雑煮もうちの実家は四角い餅に醤油ですが、丸に白味噌、甘いあんこもあります。お母様のご出身は?」

「え? いや……北陸の方だとは聞いていますが、それ以上は」


 斉藤はいきなり口を出した客に戸惑いつつも、応じる。


「では、お母様から七夕の話を聞いたことはありませんか?」

「それは、何度もありますけど」

「ならきっとお母様の出身地が分かる、と思います」


 鞄からいつも持ち歩いている手帳を引っ張り出すと、空いたページにさらさらと日本地図を描き、上から等高線のような線を引く。


「そんなことできるんですか?」

「昔話には地域性があるんです。ええと、口裂け女ってご存じですか」

「ええ、はい。『私、綺麗?』と尋ねてきて、綺麗でないと答えると怒り、綺麗だと答えるとマスクを取る――」


 すると現れた口は裂けていて「これでも?」と聞くのが大筋だ。そして回答によっては鎌か包丁で口を裂かれてしまう。


「犬が苦手だとか、ポマードと唱えると逃げられる、とか聞いたことありませんか?」

「……ありますけど、それが何か?」

「全国に広まる過程、つまり地域と時間経過で話が付け足され、分化したんです。昔は伝播がゆっくりで、七夕は有名な話ですしよく採話さいわ……記録収集されてます。……お手伝いさせてもらえませんか」


 ――それは仕事で自信を失っていた自分の気持ちを紛らわせるためだったのかもしれない。

 それでもどうか、自分と祖母のお粥のように、彼にもレシピが渡れば良いと思った。彼がもし早瀬の言葉通り常世に迷い込みそうだというなら、両親を一度に失う瀬戸際にあるのだ。



 いくらかのやりとりの後、「七夕の話は思い出し次第電話します」と何とか笑顔を浮かべた斉藤を見送る。

 早瀬はそっと扉を閉めると、和に軽く頭を下げて微笑した。それは揺蕩う波紋のように静かで儚く、澄が後片付けをしながら送る視線も気遣わしげだ。


「本当にありがとうございます。斉藤さんからご連絡が来ましたら、お電話しますね」

「はい」

「済みません、お祖母様にもずいぶん助けて頂いたのに。あなたのお母様にはもう関わるなと、言われていたのに――」

「……え?」


 目を見開けば、はっとしたように彼は口を噤み、長い睫毛を伏せた。何のことか問い返そうとした時、


「早瀬さん、ちょっとこっち大変なの、手伝って!」


 いつの間にか框の奥に入っていた茜に呼ばれ、彼は会釈し着物の裾を翻して行ってしまった。

 和が一人店を出れば、微かな灯だけ残して店は闇に沈みかけている。湿度の高い空気がまとわりついてきた。

 何も問題は解決していないし、むしろ増えている。

 それでもお腹の中のお粥は。祖母のレシピ――そして久々に誰かが作ってくれた食事は、勇気づけてくれるようだった。


「私も、説得して、企画を元に戻してもらえるように頑張ろう」


 スニーカーが不器用に飛び石を踏めば、やがてリズミカルに足裏を叩き返してきた。

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