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第五話 苦い現実と神様の名前

 翌朝、和は久々に起床アラームが鳴る前に目覚めた。

 ほんの一瞬だけ、昨夜のことは夢だったのではないか、と頭を過りはした。けれど妄想にしては具体的で、祖母のメモはまだ食卓の上に、日本地図は手帳に残っていた。


「……頑張ろう」


 その日から和は「夜見」から連絡が来るまでの間、勤務時間外の殆どを上司の説得資料の作成と、七夕の調べ物に費やした。

 煎餅を奥歯で砕きながらパソコンに検索ワードを打ち込み、資料を積み上げて繰っては付箋を貼っていく。夜食を追加したのは企画の準備以来だ。

 そうして数日後の昼過ぎ、出先で早瀬から留守番電話で連絡を受けた。斉藤が聞いていた昔話の詳細と、明日彼が来店するという件だ。

 和は上司を避けるため残業もそこそこに、明日は定時で上がろうと帰宅後深夜までキーボードを打ち続け合間にエスプレッソをあおる。幾つか記事を抱えていたし、校正作業や写真に関する細かい打ち合わせもある。


 気が張り詰めていたのか、緩んでいたのか。翌朝起床アラームを二度ほど聞き流した和は、化粧もそこそこにアパートを飛び出した。

 しかし、不運は立て続けにやってくるものだ。息を切らしてホームに辿り着けば、電車は遅延で満員。余波で痴漢に遭っている女子高校生を発見し、警察に証言を求められる。

 会社に連絡をして昼過ぎに出社すれば、編集長はメールを見ていなかった。カチカチとマウスを鳴らし、呆れた表情を隠そうともしない。現実は甘くない。


「痴漢の証言ってさあ。家族が倒れました、くらいの方便使えないの? 知ってると思うけどうち、契約社員に半休認めてないんだよね。今日は帰ってよ、有休にしておくから」


 喉の奥に真綿が詰め込まれたので、和はそれで出かかっていた言葉を飲み下した。

 犯罪被害者を助けるのは良くないことですか。とか、編集長も出社したばかりですよね、なんて言っても状況が悪化するだけだ。


「申し訳ありません」


 勢いに任せて頭を下げると、パンツスーツと昨日出しておいたローヒールパンプスが目に入る。

 そうだ。今朝はちゃんと記事について話そうと思っていた。つま先から一息に顔を上げて、そのヒゲの残る顔を見つめる。


「あの、『神社巡り』の企画ですが、やはり事実と違う記事は訴訟の可能性を考えると控えたいと思います。それに近所の方々が大切にされていて、今後の取材交渉に禍根を残すと――」

「あれね、初回から数回、山中に記事を書いてもらうことになったから。手本にしてよ。ま、無理でも目立たなくなるしね」


 手本。その言葉に心臓がどくり、と音を立てた。企画を提出する前からしてきた準備は。神社をピックアップし、連絡先を確認し、現地の郷土史に目を通し……。


「でも山中さん、お忙しいのでは……」

「君が集めた資料とネット検索でどうにかなるでしょ」


 ならない、と即座に否定する声は頭の中に反響するだけだ。その代わり、胃の奥から苛立ちや何か苦いものがじわじわと染み出てきた。


「それと来週の綾白神社の取材、不安なんで一緒に行く許可を先方に取ったから」


 編集長の指が示すもらい物の卓上カレンダーの端にいる、西瓜らしきキャラクターの笑顔が歪んで見えた。

 そういえば早朝の気温は三十度を超えたのに、ろくに水分も取れていない。朝食抜きも良くなかったのかもしれない。


「ちゃんとスカートとヒールで来てよ? 先方に良い印象持ってもらいたいんでしょ?」


 今のパンプスは太いヒールの三センチ――じゃあ、求められたのは細い七センチ? 持っていない。買うべき? 欲しい新刊本を諦めて?


「どうしたの?」


 理解しているのに、和は即座にはい、と言えなかった。

 視線を床に落とす。くらくらして、苦いものは口や指先から溢れそうだった――いつもなら我慢できることなのに。

 きっと、執筆者としての自分は不要なのだと突きつけられたからだ。


「はい。分かりました。それから体調不良で……明日は有休を取らせてください」


 消え入りそうな声で答えた和は、置いたばかりの鞄を掴み足早に会社を出た。

 タクシーを捕まえて昨日の路地の前に着いた時には、時計は十三時を回っていた。顔色が悪い客を不安に思ったのか、ここで良いんですかと怪訝な顔をする運転手に頷く。

 木立のアーチにほっとして進めば、果たして、店は同じ場所にあった。


「戦うどころか、逃げてきちゃった」


 呟いた自嘲は自分への失望、語尾は震える。

 会社に求められる記事を書き、収益で得たお金をお米に変えて口に入れている。理解している。それでもと思うのは我が儘だろうか。


 ――斉藤さんに手伝うなんて言ったの、単なる現実逃避だけだったのかな。


 小さく息を吐いて顔を上げれば、川の流れが耳に入って熱を冷ます。

 昨日は夕暮れに隠れていたが、日光の下で見た店の周囲はよく手入れされた庭だった。赤紫の紫陽花や、色とりどりの花に囲まれた小道の奥に黒茶色の古い社のようなものが見える。せせらぎはそこから聞こえてくるようだ。

 近づけば、小さな流れの側にあったのは高床式の建物だった。中は六畳ほどの広さだろうか、扉は閉ざされており窺えない。

 脇に高札のような看板が立っており、掠れた崩し字がところどころ残っている。


「速……綾……白……?」

速瀬綾白主はやせのあやしろのぬし


 文字を辿っていた和が背後からの声に振り向くと、精悍な男性が立っていた。

 年齢は和と変わらないくらいだろうか、早瀬の身長は百七十センチと少しくらいに見えるが、彼よりも頭一つ高い。ポロシャツにジーンズというラフな服装で、抱えている段ボールからはネギや大根が飛び出していた。


「に、人間……?」


 早瀬たちとは違う雰囲気からつい口走ってしまうが、彼は気にした様子も無く人好きのする笑顔を浮かべた。


「そう、人間。いや、そんなこと聞いてくる人初めてだな。……もしかして君、早瀬さんの友達? 雨宮千尋です、初めまして」

「初めまして……稲葉和と申します。失礼しました」


 頭を下げると、雨宮は屈託無く笑う。


「いや別に。俺くらいだし、ここに昼間っから来る人間。祖父がここの宮司をやっている縁で、食材の手配とか、手続きとか雑用を手伝ってるんだ」

「……あ、確かに」


 確かに、経営者が神であろうが、住所は勿論電気ガス水道が通っているなら、税金その他を払っている可能性は高い。

 両手が塞がっている雨宮は、視線で店方を示してみせる。


「一緒に行こうか、ついでに扉叩いてもらってもいい?」

「あ、はい」


 雨宮は、友達という勘違いを訂正する隙を与えてくれなかった。

 和は拳を握ったまま、暖簾が掛かっていないことに少し躊躇う。が、ロールスクリーンが上がり、先日と違う枝振りの赤紫の紫陽花が見えた。


「中にいらっしゃいそうですね」

「うん、早瀬さんたちこの上に住んでるから」


 扉を軽く叩く。出ない。

 もう一度、二度と繰り返すが室内に何かの気配は感じられなかった。


「……電話してみますね」


 スマートフォンの電波が届いていることにほっとしつつ、和は教えて貰った電話番号にかけた。昨日見かけた黒電話の、鈴を鳴らすレトロな音が扉越しに聞こえてくる。

 しかし、出ない。音が反響して重なるごとに、不安も重なっていく。ふと脳裏に、突然倒れた祖母の姿と、消えそうな早瀬の微笑が浮かんだ。


「大丈夫ですか、早瀬さん、早瀬さ――わっ!?」


 突然扉が横にスライドした。

 距離にして数センチ。思ったよりも目と鼻の先に現れた早瀬の顔に、和は間抜けな声を出したまま硬直してしまう。

 陽光の下に晒された滑らかな白い肌が目に飛び込んでくる。

 距離と、勘違いに騒いだ自分と、荒れた肌に最低限の化粧をした自分との差につい俯きながら後ろに下がれば、右足の踵が段差に引っかかって、よろめく。


「……大丈夫ですか」


 近くで早瀬の声がして、腕が重力と反対側に引っ張られる。ふらつく足を敷石に立て直したとき、二の腕に感じるひんやりしたものが彼の手だと気付いた。

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