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第六話 紫陽花と二藍

 自分の体温が高かったせいだろうか、温度差と距離の近さに咄嗟に身を竦ませれば、早瀬の手が躊躇いがちに引かれた。


「……申し訳、ありません」

「あっ、いえ、驚いただけです! 助けていただきありがとうございます」

「こちらこそ驚きました。こんなに早く……本当にいらっしゃるとは」

「約束は守ります。あ、あと、時間はお知らせしておくべきでした」

「それも、そんな意味では。……どうも口下手で」


 和が慌てて顔を上げると、早瀬は気まずそうに目を泳がせてから、困ったように微笑した。


「どうも朝に弱くていけないですね。人と時間感覚が違うんです……この前斉藤さんに一週間、と言ってしまったのも、そのせいで」

「――何お辞儀合戦してるの。早く入れてくれよ」


 雨宮の呆れ声に和は早瀬から一歩距離を取る。

 早瀬は和の横に立つ彼にようやく気付いたように、目を軽く見開いた。


「……千尋さん、いたんですか?」

「まだ寝ぼけてる? 俺に今日は早めに持って来い、って言ったの忘れたのか?」

「普段よりずっと静かだったので。……食材は奥に運んで、ちょっとそのまま席を外していてもらえませんか」


 和と雨宮を店内に促した早瀬は、ずいぶん気安く、でもおっとりとした口調のまま告げた。

 雨宮は、段ボールを持ったまま靴を脱いで框を上がる。そちらに食料庫があるらしい。


「うわ、邪魔者扱い。……まあいいけど、早瀬さんに友達ができたんならね。しかも女の子の」

「? だったら千尋さんは何なんです」

「親戚のおじさんと子供? おむつ履いてた頃から知ってるし」


 所在なく立っていた和は、な、と雨宮に同意を求められて首を横に振った。


「……違います。あ、違うというのは友達でなく昨日お会いしたばかりで」

「彼女は聡子さんのお孫さんなんですよ」

「はい。今日は他のお客様の件で、お手伝いをしたくて来ました」

「へえ、真面目なんだ」


 真面目。何気ない言葉に和の胸がずきりと痛む。顔に出てしまったのか眉をひそめる千尋に、口が慌てて言い訳を探せば、


「褒めてるんだけど?」

「あ……」


 きょとんとされてしまって、和は悪いことをした気分になる。会社で言われた時は、融通が利かないとか社会人として不適当と同義だったから。


「千尋さん、だから生ものは早く冷蔵庫に入れてください」

「全く、寝てたくせに」


 雨宮がぼやけば、早瀬がレトロな救急箱から一枚の絆創膏を差し出してきた。


「稲葉さんはこちらを。足に怪我をされているでしょう?」

「え? あ、ありがとうございます」


 言われて初めて、鈍い痛みに気付く。体を捻れば右足首のストッキングが破けて血が滲んでいた。走ったから余計にパンプスの中で足が滑り、擦れたのだろう。

 パッケージを剥がしたところで、少しだけお待ちください、と早瀬の声がして動きを止める。

 突然視界の端に、水の流れが現れ小さな螺旋を描いたかと思うと足首を撫でた。滲んだ血と繊維とを洗い流せば、何事もなかったように消えてしまう。

 やっぱり、本当に神様なんだ。

 しばし見とれていた和は、渡されたペーパータオルに慌てて水気を拭い、ぺたりと絆創膏を貼る。自嘲の息がこぼれた。


「社会人なのに恥ずかしいですね」

「靴が合っていないだけでしょう? 文明開化の時は皆さん苦労されてたようですよ」


 早瀬が首を傾げたので、つい和は笑ってしまった。確かに、神様からすれば靴が普及した歴史の方が短い。


「そうそう、早瀬さんなんか実家にこもってばかりで新居まで放置してるからな、靴擦れしようがない」

「どこに住もうが私の勝手です」


 奥に消えながら雨宮が言えば、早瀬は意外にもむっとした、子供っぽい表情を返す。


「実家と新居ですか?」

「裏手の建物をご覧になりましたか? あれが千尋さんが言う実家です。徒歩二十分ほどの場所に明治時代に建った新しい神社があるんですが、店から出ませんので」


 和が尋ねると、眉を下げたその瞳に複雑な色が浮かんだ。和はそれを疑問に思うより先に、社に書かれていた名前を声に出す。


「早瀬……速瀬綾白主……まさか新居って綾白神社ですか?」

「ご存じなんですか?」

「先日、仕事の下調べに寄ったばかりです。綾白川の神へ感謝して建てられたとか」


 そしてまさに今、『祟り』をでっち上げられようとしている神社で――いや、その神様が目の前にいる。

 和が後ろめたい気持ちを抱えながら表情を伺えば、早瀬は普段通りの静かな口調で応じた。


「そう、私の実態はそこを流れる川です。いつしか『私』になった私は平安の世に神と呼ばれるようになりました。ただ殆ど埋め立てられ、今や名を覚えている人も殆どいませんけれどね。大した力もない、消えゆく神です」


 彼は小さな息を吐くと、業務用冷蔵庫から出した麦茶を湯飲みに注いだ。

 どうぞ、と置かれたカウンターを示され、和はそこでようやく腰掛ける。

 一口飲めばカラカラになっていた喉にゆっくり染みていく。麦茶を飲み干せば、早瀬はお替わりを注いでくれた。そのまま二杯目も空にすると、


「先ほどの言い訳をさせてください。早い来店に少しばかり驚いたのは事実です。千尋さんではありませんが、来店の意思がなければ店に辿り着けないですから。それとも、常世に紛れ込みたいほどに疲れているか」


 彼は湯飲みに三杯目を注ぎながら、


「単に斉藤さんが心配なだけなのか、それともお粥では不足な何かがあったのか、と思いまして」


 大丈夫ですか、と暗に聞かれた気がした。


「え、ええ、何とか――」


 ぐうううぅ……。

 和が取り繕おうとしたその時、ゴムボールから空気を押し出すような音が盛大に鳴った。発生地は勿論、和のお腹だ。


「す、済みません! 実は朝ご飯を食べそびれてしまって」

「せっかくですから何か召し上がりますか? お茶とデザートならすぐお出しできますよ」

「では温かい桃の煎茶と、きなこのシフォンケーキほうじ茶アイス添えを」


 この前メニューを見て、食べたいと思っていたものだ。

 早瀬はいいですね、と微笑した。

 程なく、急須と温かみのある粉引きの白い皿が運ばれてきた。きな粉の優しい色をしたケーキにホイップクリームとミントの葉、側にほうじ茶のアイスが丸く添えられている。

 早瀬が急須から耐熱グラスに鮮やかな緑を注ぐと、桃の香りが立った。

 和は、鼻腔に抜ける桃と緑茶の甘く爽やかな香りにほっとしつつ、自分がしようとしていることを思い出した――優しさに甘えてはいけない。


「……実は今、仕事のことで悩みがありまして」


 和は、「小さな神社巡り」についてかいつまんで話した。そして少し前にあった神社での事故――立ち入り禁止区域に入った男性が池で溺れて、怪我を負ったこと――が神の祟りだと書けと言われていること。


「神様のせいではないのに、そんな嘘、困りますよね」

「……まんざら嘘でもないですよ。あの神社が建ったのは、本当は荒ぶる神を鎮めるためですから」


 シフォンケーキの切れ端が口の中で溶けていった。

 和は、学生時代に習ったことを思い出す。日本の神は利益を与えてくれるだけではない。自然を体現し、災害をも起こす。神社とは祀ることで荒ぶる神を鎮めるためのものでもある、ということを。


「でも、神様はそんな風には……」

「早瀬でいいですよ。早瀬真白――昔友人に、名前があった方が便利だろうと貰ったんです。そうですね……少し面倒な話ですが、宜しいでしょうか」

「はい」

「明治政府ができて少し経った頃でした。丁度この時期でしたね。あの年は晴天続きで作物は実らず枯れていき、米の収穫にも影響が出るような状態でした。私にも雨を降らせる力はありますが、生憎、出雲に呼ばれていて――」


 しばらく間があった。口が開いては閉じ、それからまた開く。


「戻った後、雨を降らせすぎてしまい。……近隣の村をひとつ、押し流してしまいました」


 彼は窓際に視線を向けた。


「紫陽花が飾ってあるでしょう。私は毎夜あれを川に流して、殺してしまった友人からの返事を待っているのです。紫陽花に似た二藍は、友人が私に好きだと言った色でした。でもあの子はいつも茶か灰色を着て、二藍の着物を持っていなかったから」


 二藍。文字通り二つの藍色を使った色だ。ひとつは藍色。もうひとつは紅。昔は紅を呉藍くれあい、紅藍と転じて呼んでいた。二色を使ったので、実際には色に幅がある。若年は赤を、老年は青を濃くして着ていた。


「初めは青紫ばかり咲きましたね。人に相談したら、貝や石灰を撒いたら赤紫になると。……これも人の心の機微が分からない私の、無駄なあがきです」

「機微ですか?」

「実は、この店を開いたのはお祖母様――聡子さんの助言がきっかけなのです」


 和は意外な言葉に、早瀬の顔を見返した。


「『死者のレシピ』をお渡しする人からは、お金を頂きません。代わりにレシピにまつわる思い出をお話しして頂く――人の機微を知れば、あの子に添う手紙を書けるのではと思って。人にとって何がおかしいのか、私には分からないのです」


 遠くを見るような早瀬の目は、むしろ近くにあるからこそ見えない、理解し合えない苦悩を映しているようだった。

 和がなんと相槌を打てば良いか迷っていると、框から足音がした。


「――用事は済んだから俺はもう帰るよ」


 戻ってきた千尋は、潰した段ボールを脇に抱えていた。


「ありがとうございます、千尋さん」

「あと前に話した新居の祭り、本当に考えておいてくれよ。うちも経営が厳しいからさ、本殿を維持できなくなるし。……じゃあ稲葉さんも、またな」

「はい」


 勢いで頷けば、雨宮は片手をひらりと振って出て行く。扉ががらりと閉まると、一気に静寂が満ちた気がした。


「さて、昔話はこれくらいにして、斉藤さんのお話から、七夕のちらし寿司について考えましょうか」


 いつの間にか普段通り微笑んでいた早瀬に、和は溶けかけたアイスクリームを急いで口に運んだ。

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