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第七話 金平糖とかささぎ

 店内の丸い時計の針が十九時を過ぎた頃、斉藤が姿を現した。

 たった数日前に会ったばかりなのに目の下にクマが薄らと見えた。重い足取りでカウンター席に座った彼が、ビジネスバッグとは別に抱えた大きなボストンを隣の椅子に置く。和が、祖母の入院時に担いだ覚えのある大きさだ。

 和は鞄を挟んで座り、クリップで留めた資料をカウンターに置いた。


「これから会社に戻るつもりなので、時間があまり」

「なので早速始めますね……早瀬さん」


 ええ、とおっとり頷いた彼も、心なしか普段より少し動きが早い。

 和は一つ咳払いをすると、資料を捲りながら話し始めた。


「七夕は七月七日の夕方を指し、元々は中国の行事です。働くことを忘れた恋人達――牽牛星と織女星が天帝によって引き裂かれるも、年に一度だけ会うことを許された日です。織女にちなんで機織りや手芸の上達を願い、庭に祭壇を設けて布や糸などを供える乞巧奠きっこうでんという行事をしたそうです」


 漢字からかな文字ができたように、伝わった文物は日本化されていく。行事は管弦や詩歌の宴としても広まっていった。「たなばた」の読みは機織道具の棚機が由来とされる。


「日本の七夕の物語はこの話に、以前からある『天人女房譚』と組み合わさって各地に伝えられています。男が天女から羽衣を奪い、家に帰れなくなった天女を妻にする話ですね」


 羽衣もまた唐から伝わった女房装束、五節の舞姫などにも残る領巾ひれだ。


「その後、天女は羽衣を見付け天に帰りますが、この後、再会するため、また再会後に天女の両親に難題を課されたり、夫が失敗して二人の間に川が流れ七夕の由来になった、と続く場合があります」


 和は資料を広げた。一枚目は話を構成する要素を主に四つに分類したもので、二枚目は四要素のどんな組み合わせがどの県で確認されたかという論文の引用だ。

 続いて三枚目は、各要素のバリエーションの紹介。例えば主人公の職業、天女と出会った場所、難題の中身、登場する植物。特に乞巧奠の供え物でもある瓜が頻出するが、瓜を切ると水が溢れたとするパターンは多い。


「伺った昔話は四要素を全て兼ね備えている、珍しくないものでした。ただ、一つ目の要素中の『羽衣を箱に入れて土の中に隠す』、という話はあまりなかったんです」

「そうなんですか」

「それにもう一つ気になったのは、手紙が結ばれたのが七夕で使う笹竹でなく、熊笹だったことです。なので熊笹を使うか、笹竹を七夕に使わない地域を調べましたら、少数ですが見つかりました」


 もう一枚、資料をめくる。


「文化庁『日本民族地図』の年中行事の巻、一九六九年発刊ですが――によれば青森、新潟、岐阜、滋賀の四県。北陸ですと新潟県では笹を立てない例も多かったんです。そして先程の羽衣を土の中に隠す話は、長野に」


 和は資料の中の、異なる色で点描を打った日本地図の上を指でなぞる。


「だから新潟と長野の県境周辺を探したら、熊笹を使ったお寿司があったんです――笹寿司です」

「笹寿司……? 鱒や鯖の押し寿司なら食べたことがありますが」

「ええ、寿司の原型は、魚やタンパク質の保存に米を利用したものです。押し寿司も同様で、熊笹は昔から防腐作用が重用されました」


 繰り返す斉藤に、早瀬が説明する。


「笹寿司はこの熊笹の上にお米を盛り、ちらし寿司のように具を乗せたものです。生魚は殆ど使わず、ワラビなど山菜椎茸の煮物、しょうが、人参、味噌漬け、川魚の鮭のそぼろに、錦糸卵」


 皿の上に並べた鮮やかな緑、熊笹特有の大ぶりの葉一枚一枚に、早瀬は目の前で小さく酢飯を盛り、具を乗せていく。

 斉藤は緊張した面持ちで漆の塗り箸を取った。箸先を恐る恐る近づけてまず酢飯を口にし、喉を鳴らすともう一口、一口と口に含む。

 合っていただろうか、合っていればいい、と和の鼓動が早くなる。

 しかし少しずつ速くなるテンポは、やがて錦糸卵を食べた時にぴたりと止った。


「どうかされましたか?」

「記憶にあるものとほぼ同じです。もう少し、卵の味と黄色が濃かったような気もしますが」

「何でも仰ってください」


 早瀬の伺うような問いに、いえ、と彼はゆるゆると首を振る。静かで抑揚に欠けた声は疲労からではなかっただろう。


「子供の頃のことですから、きっと記憶違いでしょう」

「……ですが」

「神様と違っていくらでも時間があるわけではないんです。これ以上はあなたの自己満足です――いえ、申し訳、ありません」


 角度からして他の人から見えなかっただろう。だから証明できないが、和にはその時早瀬の顔が一瞬、苦痛に歪んだように見えた。

 斉藤は深く頭を下げると、荷物を掴むようにして店を出て行った。その表情もまた暗い。

 ピシャリ、と閉じられた扉の音が和の耳に痛い。そのまま店の中に静寂が訪れる。


「……そういうこともあるよ」


 残された水をさっとトレイに乗せて、茜がぽつりと呟くように励ますが、それがかえって早瀬の眉間に皺を作っていく。

 和が励ましの言葉を探そうとしたとき、彼は先に口を開いた。


「稲葉さんのお母様」

「え?」

「疎遠でしたが、稲葉さんが生まれてから一度だけご来店されました。人間は感情を学ぶための教材じゃない、と。もう我が家には関わるな、と」


 一瞬早瀬は目を伏せてから、寂しげに微笑む。

 和は、幼稚園の教諭だった母らしい言葉だったかもしれないと思った。

 そしてまた、人外に近づき和が傷付いたり、社会に馴染めなくなることを厭って。 

 卒園生には慕われて年賀状が届き、お茶に誘われる程度には理想的な教諭だったらしいが、身内には感情的になってもおかしくない。


「きっと、そういうことなのでしょう」

「……」

「そういえば、豆乳粥のレシピを渡し損ねていましたね。最後にお渡しできて良かったです」


 早瀬の諦めきった声にささやかな喜びが混じる。彼は戸棚から藍色のインクで書かれた紙を和の前にすい、と差し出した。

 貰ってしまえばきっと和と店の関わりは終わりだ。けれど、受け取らないという選択肢はなかった。おずおずと手にすれば、そこにはよく知っている材料とアレンジと、最後に隠し味――金平糖。


「こんぺい……とう……」


 祖母の家。日焼けをした畳。座布団を枕にして転がっていると、キラキラした星を詰めた瓶を持って、庭で小さな神様にあげていた祖母が一粒くれた。

 元気が出るおまじないよ、と言って。

 和がそれきり黙っていると、遠慮がちな小声で早瀬が付け足した。


「砂糖の代用としてあえて使う意味があるなら、何か想いがあったのかもしれませんね」

「……想い?」

「料理は食べる人のためだけでなく、作り手が願いを込めるものでもありますから」


 その言葉に。和のつま先が床に付く。


「そうです。正しくなくてもいいんです、食べてもらえるレシピなら」

「稲葉さん……?」


 声を背に踵が床を蹴り、手が引き戸を開ける。

 斉藤の背中は店の灯に照らされて、数メートル先に、思ったよりずっと近くにあった。


「斉藤さん、待ってください! もう一度だけお願いします」

「時間が」


 振り向いた彼の、拒絶の声は揺れている。嘘ではないが、本当でもないと和は直感した。

 彼の言葉は会社で仕事が残っているからか、渡したい人の残りの時間に向けてのものだったか。


「一つだけ、質問させてください。子供の頃、市販のお菓子を食べちゃいけないって言われてませんでしたか?」



 再度斉藤が席に着いたとき、作り直されたのはたったの一品だけ。それはきっと些細な、でも子供にとっては大きな違い。

 先ほどより黄色が強い錦糸卵を前に和は口を開く。


「卵アレルギー。成長につれて改善することも多いですけど、卵黄より卵白にアレルゲンが多いんです。だから黄身だけの錦糸卵だったんじゃないでしょうか」


 斉藤は箸を取り、鮮やかな黄色を口に運ぶ。


「それに、ハレの日の料理を普段から作るのは何故かと思ったんです。きっと、お母様は……かささぎが橋を渡してくれるようにまた会いたいと、どんなに遠くに離れていても会えるからと。そんな思いだったんじゃないでしょうか」


 ゆっくりと食べ終えた斉藤は箸を置き、目を伏せる。何かを堪えるように目頭が震えている。


「――ご馳走様でした」


 時間がないとは、もう言わなかった。

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