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第八話 神様はうまく泣けない

 斉藤を見送り終えた和は、扉を閉めた早瀬の背に声を掛けた。


「手紙が返ってきたら、お店は閉めるんですか? それとも、村への罪滅ぼしなんでしょうか」


 神様だから、人とこんな風に交わらなくとも、傷付かなくとも過ごせるはずだ。それなのに機微を知るためといって続ける様子は、和には自傷にも思えた。

 彼は襷に手をかけながら振り向く。その目はやはり、どこか傷ついているように見える。


「罪滅ぼし……そうですね、でもそれは少しです。何故ならあの子は川の氾濫で流されたのではありませんから」

「そうなんですか?」


 するりと襷が抜かれ、袖が落ちた。向き合えば思ったよりも彼の声ははっきりとして、目と裏腹にどこか冷たささえある。


「ええ、日照り続きで困り果てた村人は『思い付いた』のです。生け贄を捧げよう、と」

「そんな……」

「まだ十歳にも満たない少女をですよ。あなたのように見えないものが見え、よく私の社に遊びに来ていたから……悪いことにはならないだろうと村人は高を括ったんでしょうか。彼らは私を大して知りもしなかったのに」


 初めて、一瞬だけ浮かんだ嘲笑はすぐに罪悪感に取って代わられる。


「ぼちゃん、と自身の半身に落ちた感覚をまだ覚えています。でも、私は遠くにいて助けられなかった。私の体で殺してしまった」


 ――神様は、万能では、ない。

 和の耳に聞こえないはずの声が響く。


「私は泣きました。雨を降らせ、降らせて降らせて降らせて……」


 ひとつ村が流された。


「その後です、私を『鎮める』ために神社が造られたのを知って、我に返ったのは。けれど私は移らず、ここで手紙を送りたかった。私に裏切られたと、恨んで死んだかと聞きたかった」

「早瀬さんの責任じゃありません。日照りだって、誰の責任でも……」


 早瀬のひび割れていくような声音に、和は反射的に否定する。村人同様、いやもっと彼を知らない自分では白々しく思われるだろうか、とも思いつつ。


「それでも。私の幼い友人に、助けられなくて済まなかったと、届く言葉で伝えたかったのです」


 早瀬の端正な顔に苦笑が浮かぶ。それは決して彼女を厭っているようには見えなかった。だから和は口を開く。


「……口裂け女の話、うまく対応すれば逃げられる場合ができたってお話しましたよね」

「ええ」


 急に話が転換したので、早瀬は訝しんだ顔になる。


「他の説話にも幾つも例があります。逃げられるようになった、弱点があった――『笑話化』と呼びます。時間と共に恐怖を乗り越えるんです。神様はなかなか忘れられないから、辛いかもしれません。百年前のことが一年か、数ヶ月前に感じられるのか、神様が人間と共感しづらいように、私たちにだって神様のことが分からない。お互い様です」

「……そう、ですね」

「でも、二藍が赤紫から青紫に変わるみたいに、きっと時間をかけて変わっていけると思います――あ」

「どうしました?」


 そこまで口にして、和は気付いた。早瀬が纏う着物が、濃い二藍だということに。


「もし当時も着ていたなら、その子が好きなのもこの色ですよ。だって二藍が好きなんじゃなくて――早瀬さんの色が好きだったから」


***


 夕暮れ刻、青紫の二本の紫陽花に結びつけられた薄様を、細い指がほどいていく。薄暗闇が紗になって早瀬の横顔を覆い、表情は杳として知れない。


「現世における生き物の死は、肉体の滅び。では、血肉なき神の死は何によってもたらされるか、ご存じですか」


 和は定命の人間で、まだ四半世紀程度しか生きていない。平安から生きる神への答えは持っていない。沈黙を続ければ暗闇が店の周囲を覆い、目が慣れた。微笑と滲む涙は、いつから浮かべられたのか。

 手紙を見たときからだろう、と和は思う。


「ひとつは、他の神によって死がもたらされたとき。もうひとつは、実在を信じる人々がいなくなった時。ですが、死より恐ろしいのは――」


 そうして、庭に置いた水盤の上に、彼は白の薄様を浮かべた。柳のような墨の軌跡、友人への謝罪の言葉がするりと紙から浮かび上がり、水面に揺蕩う。


「自我を失った荒ぶる神となり、人に記憶されることです。――神は人の信仰に影響を受けます。あの時でさえ、氾濫はあの子の、千重の家も着物も一つ残さず流してしまいました。自我が消えれば、あの子や誰かが悲しむようなことを何度でもするでしょう」


 でも、と続ける。


「新しい神社が私への感謝のためとなれば、氾濫は勿論、生け贄になった千重のことも記録されない」


 ほんの一瞬だけ微笑が消え、また浮かべられる。


「千尋さんのお祖父さんが最後の宮司。氏子はなく、私を覚えている人もいなくなる」

「……」

「だからもう手紙が返ってこなくても、千尋さんの寿命と共に私は消える予定でした。もう二度と荒ぶることなく、忘れられた神になりたかった」


 早瀬の指がもう一枚、淡く黄色がかった鳥の子色の紙を重ねる。何も書かれていないのは、彼女の魂はもう、個のかたちを保つことはできなかったのだろうか。


「……なのに、お節介な人たちが度々現れるので、手紙をもらい、寿命も延びてしまいましたね。雨宮のお祖父さんに、聡子さんに千尋さんに、あなたに」


 二枚の手紙は重ねの色目のように水に濡れ、色を透かし、溶けてゆく。そしてまた、墨も。


「……氷重こおりがさね


 やがて静かな水盤だけが残った。

 いつしか二人して屈んだ隣の、薄い唇からぽつりと重ねの色目――冬の氷を表現した、二色を重ねた色の名が漏れる。

 きっと彼女の苦しみはもう溶けたのだ。そしてまた、彼に「同じであれ」と願ったのかもしれない。

 水盤をじっと見つめていた早瀬がしばらくして立ち上がったので、和もしびれる足を擦りながら倣えばまた、よろめいた。その肩を手のひらで支えられる。

 相変わらず冷たかったが、以前程には感じない。


「大丈夫ですか」

「早瀬さんこそ」

「もう、大丈夫です」


 浮かべられた微笑は自然で、そこにまだ生きようとする意思をほんの少し見付けたような気がして、和も微笑む。


「……なら私も寿命が来る前に、神社について、由来と川について正しく記録しますね。それから、綾白川の埋め立てですけど」


 一瞬だけ迷い確かめるために視線を合わせれば、彼は凪いでいた。だから続ける。


「人間にとっては治水工事でもあるんですよ。――だからちょっとくらい泣いても、大丈夫だと思います」


 藍色の目の底が揺らぐ。和は先に行きますね、と店の入り口に向かって歩き出した。



 その夜和は、雨が屋根を叩く音を聞いた。翌日からも雨は強くなる一方で、大雨は降って、降って、降り続いた。

 テレビのニュースが水害を心配し始めた頃、雨は止み、夏の暑さはその日、何処かに行ってしまったようだった。

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