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エピローグ 綾白神社のお祭り

 和が「夜見」を訪れれば、見頃を過ぎた庭の紫陽花は葉だけ茂らせ、窓際の花は小ぶりな向日葵になっていた。


「……退職しようかと思っています」


 休業中の札が掛かる店内、定位置になった窓際でほうじ茶パフェを頬張りながら、和はカウンターに立つ私服の――立て襟シャツに藍の着物姿の早瀬に報告する。


「実は上司は前の部署でもやらかしていて、様子見されてたそうなんです。この前の取材が決定打になりました」


 雨が降り始めた翌日が綾白神社への取材日だった。大雨を見越したレインコートとブーツ姿に顔をしかめた編集長は、何と取材はもう終わった、と言ったのだ。

「一緒に行くと決めた時に約束の時間を変更した。確認しないお前が悪い」

 明確な悪意に晒され、和は怒ると同時に呆れた。念のため確認を入れようと社務所に歩き出したところを、腕を捕まれた。

 そして引きずられそうになったその時、和の背後から大きな赤目の白蛇が現れた。編集長は水溜まりに尻餅をついた末に逃げ帰っていった。

 白蛇は呆然とする和の前で人の姿――茜に戻った。早瀬に頼まれて見守っていたらしい。

 宮司である千尋の祖父への取りなしもあり、無事に取材を終えて上司の上司に報告すれば、こんな結果になったのだ。


「以前の上司が会社を紹介してくれて、面接も決まりました。小さな歴史系の出版社です」

「受かると良いですね」

「はい」

「……そういえば、今日はどうして浴衣なんです?」


 頷けば、早瀬は和の恰好を遠慮がちに見回した。濃紺の浴衣に素足の足元は草履。折りよい質問に、和はスプーンを置いて満面の笑顔をつくる。


「新居の神社のお祭り、今夜からですよね。行きましょう」

「いえ、私は――」

「雨宮さんも茜ちゃんも澄くんも、もう準備終わって待ってますよ」

「……え?」


 早瀬が目を丸くして瞬けば、背後の框から同じく浴衣姿の三人が現れる。振り返った口元がいつの間に、と戦慄いた。


「早瀬さんはそのままでいいですよ」

「せっかく準備したんだからさ、主役がいなくてどうする」

「そうそう、千尋の言う通り。じゃあ、しゅっぱーつ!」


 三人で背を押すようにして早瀬を連れ出し、店を、路地を抜ける。

 アスファルトに草履を踏み出したとき、彼の顔には不安があった。けれど提灯の明かりが見えて、茜の足取りが、澄と雨宮の足取りもどんどん軽くなっていく。そんな彼らを眺める早瀬の顔もまた穏やかになっていく。

 それを見計らって、和は皆に尋ねた。


「宮司さんに伺いましたけど、池で溺れた話、半分本当だったんですね」

「火遊びしようとしたから、澄くんが尾を引っかけて池に落としたんだよね」


 綾白神社の境内に入る。以前訪れた時には静かだった場所も今日は久々に老人や親子連れが行き交い、どこか浮足立っているようだ。こんな時はうだるような暑さすら雰囲気があると思えるから不思議だ。


「澄くんは鯉なんだ――あ、りんご飴! 射的もある! 千尋、奢ってくれる?」

「はいはい。澄も何か食べるだろ?」

「勿論です! 僕は綿飴がいいなあ、あと――」


 雨宮は声を弾ませる二人を両脇に連れて、早速参道に並ぶ露店に向かっていく。和は早瀬と遅れて歩きながら、下生えに、浴衣を翻し鈴カステラを抱いて駆けていく小さなひとを見た気がした。


「暑いですね。早瀬さん、かき氷食べませんか」

「そうですね……あそこのブルーハワイって、外洋の味なんですか?」

「試してみましょうか……済みません、ブルーハワイとイチゴください」


 和は早速注文して、露店の男性から受け取った、ふわふわの氷にたっぷりシロップがかけられたカップをひとつ、早瀬に渡す。


「青いですね。こちら、頂いて良いのでしょうか?」

「勿論です。青いです。あと溶けないうちに食べるのがお勧めです、タイミングも大事――あっ、雨宮さん、たこ焼きばかりいっぱい買いましたね?」

「どこのたこ焼きが一番美味しいか早瀬さんに教えてやろうと思ってさ」

「自分が食べたいだけじゃないですか」


 一足先に戻ってきた雨宮がたこ焼きを三パックも抱えているのに早瀬が突っ込めば、彼は嬉しそうに笑った。


「だって来年も、美味い屋台を呼びたいだろ?」


 早瀬が息を呑むうちに、今度は澄と茜が駆け戻ってくる。澄は両手にチョコバナナやチュロス、腕にも綿あめの袋を提げて。茜はぬいぐるみを抱えていて、早瀬の手にお面を押しつけた。


「茜ちゃん、射的上手いんですよ」

「早瀬さんにはお面あげますね!」

「まあいいですが……澄くんはそんなに食べるんですか?」


 早瀬はこうですか、と不承不承、お面を頭の上に付けた。一昔前流行したアニメの猫のキャラクターだ。案外似合っているなと和は思った。


「新商品の研究も必要ですし。うち、目玉になるメニューがないでしょう。電話代払うのもカツカツなんですよ」

「重ねの色目の二色クリームソーダとかどうでしょう」

「いいですね、それ。映えそうです」


 和の提案に澄は目を輝かせる。

 そのまま石段を上っていけば、賑わいを抜けた本殿にもちらほら人がお参りしているのが見えた。皆、穏やかな笑顔だ。

 和が早瀬に目を向ければ、咄嗟に面を下げた、その目元が赤らんでいたように見えた。


「……雨、降りますかね」

「夜中には降るかも知れませんね」


 早く早く、と急かす三人を早瀬は追い、和はその背を少し遅れて、眺めながら歩む。

 沈みゆく太陽の下、ご神木の枝葉が水草のように揺れる。影が造る水面の底、ひらりと翻る濃紺の浴衣の上には赤い金魚。その一匹の尾のように、しじら織りの赤い兵児帯が、笑い声の波を泳いだ。

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