株式会社シプレス。その社長室にて。
安楽椅子に腰かけた女社長がカップを傾け、優雅に羽を伸ばしている。その傍らで、秘書と思しきスーツの男性が、おもむろに口を開いた。
「桧山社長。檜狐神社の御朱印RTAに新たな挑戦者が現れたそうですよ」
「あら、珍しいわね。それで、その挑戦者さんとやらのタイムはいかほどだったのかしら?」
桧山の問いを受け、秘書が手に持っていたタブレット端末を確認する。
「今、協会のサイト確認してみますね。えっと……『右足ハムストリングス完全断裂による歩行困難のため棄権』ってなってますね」
「あら……それは……お大事にしてほしいわね……」
桧山は苦笑いを浮かべながらティーカップをソーサーに戻すと、おもむろに立ち上がった。
「桧山社長? どこかにお出かけで?」
「ええ。久しぶりにまた走ってみようかしらと思って」
「では車を出しましょう」
「ええ、お願いするわ」
***
おお! 足がとてつもなく軽い!
あれからユリアによって乱暴に引きずられ、ボロ雑巾になりながらも研究所に戻った俺。その後さっそく、ハムストリングスの断裂した右足と、ついでになんともなっていない左足に対して、エレナによる無麻酔・無免許・無計画の3つの無を満たした安心・安全(?)の手術が行われた。そのあまりの痛みに速攻気絶し奇しくもセルフ麻酔でしのいだ形の手術だったが、目が覚めたら足はきれいさっぱり治っていた。
再び帰ってきた檜狐神社の鳥居前。ここまで歩いてくるのにも足取りが軽く、これならタイムも期待できそうだ。
「イチニツイテ、ヨウイ、ドン」
ユリアの棒読みコールに合わせ、クラウチングの体勢からスタートを切る。スタートダッシュは上々。まさに風を切るかのごときスピードで、体感速度は自転車なんかよりもよっぽど速い。
あとは御朱印受付への最短ルートを突っ走るのみだ。軌道上には障害物も、邪魔な参拝者の姿もない。このまま最高に高めた俺のフィールで、最強のタイムを手に入れてやるぜ!
すると、御朱印受付はもうすぐそこというところで、女が一人左側から走ってくる姿が視界の端に入りこんできた。このままでは衝突は避けられないだろうか? だが、ここで止まるのは素人のすること。俺は今、計測中なんだ。お前が止まれ。
しかし、生意気なことに女は止まるそぶりを見せない。まさか、俺に気づいていないのか?
まあいい。そうなれば、最後に物を言うのは重量の差だ。やはり、俺が止まってやる道理は無い。せいぜい派手に吹き飛ぶことだな。
「きゃああああ!!!」
飛び出してきた女の右脇側から渾身のダッシュタックルをお見舞いしてやる。すると、女の身体は派手に宙へと舞い上がり、放物線を描くように御朱印受付のカウンターをなぎ倒して、その内側へと突っ込んでいった。
「だ、大丈夫ですか!? お客様!?」
中でのびてしまった女を見て、巫女服の若い女が狼狽えている。
「いいから御朱印だ! 早くしろ!」
しかし、俺は容赦はしない。どうせバイトか何かだろうが、どんな状況でも己の仕事をまっとうするのがプロというものだろう。
「し、しかし……今はこちらの方の救護が……」
「そんな女より、お客様である俺の御朱印が優先だろ!」
崩れて斜めになったカウンターに五百円玉を叩きつけながら、たわけたことをぬかす巫女服を怒鳴りつける。
「ひっ・・・・・・! は、はい……どうぞ……」
すると、怯えた巫女服は震える手で御朱印を書き始めた。やればできるじゃないか。
書き上がった御朱印帳を奪い取るようにひったくり、ストップウォッチでタイムを計測していたユリアの方を向く。
「タイムはどうだ? ユリア」
しかし、ユリアはなぜだか、ゴミを見るような呆れた目線をこちらに向けていた。
「タイムもなにも、規約違反で失格だ。レギュレーションぐらいちゃんと確認してから走れ」
なん・・・・・・だと・・・・・・?
クソッ! 俺の努力と500円を返しやがれ!
***
痛たたたた……
全身を強く打ちつけた衝撃で、まだ頭がクラクラする。なんとか薄目を開くと、ようやくぼんやりと視界が戻ってきたところだった。
「……俺の御朱印が優先だろ!」
男の怒鳴り声が、あちこち痛む身体に響く。何をそんなに怒っているのか、尋常でない怒鳴りっぷりだ。
そしてこの声を私は聞いたことがある。……とてもとても忌まわしい記憶を掘り起こさせる声。
恐る恐る、ゆっくりとまぶたを開く。すると、できることなら二度と見たくなかった忌まわしきその男の顔が、残念ながらそこにはあった。
……佛雁穣二! 貴様がなぜ、こんなところに……!