かくして始まったブラックシダーでの勤務。
私は池袋支店の商品開発部へと配属され、日々男性用パンプスの開発・改良に勤しんでいた。
最初こそヤツからのアプローチが煩わしかったが、頑なに無視し続けていると、そのうちそれもなくなっていった。きっと、次のターゲットを見つけたのだろう。名前も知らない彼女には気の毒だが、私にとってはむしろ好都合だ。
しかし、迎えた三年目・・・・・・。
「池袋支店支店長になった佛雁だ。俺様のために馬車馬のように働けよ、カス共!」
私の所属する池袋支店の支店長が、まさかのヤツに代わったのだ。
初日の自己紹介がそれか……。こんなのが直属の上司になると思うと頭痛が止まらない。
まあとっくに飽きて捨てられたはずの身だ。波風を立てず、目立たないようにひっそりとやり過ごせばいい。この時はまだ、そんな風に思っていた。
***
「久しぶりだな、葉子。今夜また、どうだ?」
他に誰もいないタイミングを見計らって、ヤツは私のところへとやってきた。尻を撫でまわしながら、耳元で誘い文句を囁いてくる。気色悪いことこの上ない。
別に乗ってやる道理はない。無力な就活生だった頃の私とは違い、今の私は開発部でそれなりの結果を残している。こんな奴に媚びる必要はどこにもない・・・・・・はずだった。
しかし、現在私が進めているプロジェクトのことが脳裏にちらついた。アレが世に出回れば、おじいちゃんの足でもパンプスを履いて街を歩けるようになるはずだ。
だが、いまここでヤツを刺激したらどうなるだろう。常人相手なら杞憂に終わるであろうことだが、ホンモノ相手では何をしでかしてくるか分かったものじゃない。八つ当たりでプロジェクトを停止させられでもしたら……。
「分かりました。22時に例のホテルですね」
気が付いたら私は、そのように答えていた。
***
「もしもし……うん……もうじき発売だよ……」
待ち合わせまでの数時間。私は池袋の裏道を宛てもなくぶらつきながら、おじいちゃんへと電話をかけていた。膝が痛いだの腰が痛いだの言ってはいるが、声は元気そうで安心する。
「じゃあまた電話するね。ばいばい」
話に集中しすぎたのか、電話を切る頃には見たことのない神社の前まで来てしまっていた。
「えっと……檜狐神社……?」
鳥居に書かれた掠れかけの文字を読み上げてみる。やはり、聞いたこともない神社名だし、なんて読むのかも分からない。
「せっかくだし、参拝してみようかな」
どうせ、ヤツとの待ち合わせまでには、まだまだ時間が有り余っている。私は古びた石鳥居の前で一礼をし、中へと足を踏み入れることにした。
***
寂れてはいるが、意外と手入れが行き届いている。一通り参拝してみて、私が抱いた感想はそれだった。手水も活きた水だし、本堂も古いが清掃は行き届いている。
本堂へのお参りも済ませ、神社をあとにしようとしたところ……
「あれ、こんな時間なのに明かりが点いてる……? 御朱印受付……?」
もう20時過ぎだというのに「御朱印受付」と書かれた屋台のような仮設カウンターには明かりが点いており、中に巫女服を着た人の姿もあった。
確か御朱印帳は持ち歩いていたような……うん、あった。せっかくだから貰っていくことにしよう。
「あの、すみません……御朱印ってまだやってますか?」
恐る恐る、カウンター内の巫女さんへと声をかけてみる。
「おめでとうございます。
すると、巫女さんは唐突にクラッカーを鳴らし、謎のお祝いの言葉を口にした。その行動の割にすごい無表情なのが妙に気になるが・・・・・・。
「え? 御朱印……RTA……?」
思わず鳩が豆鉄砲くらったような反応になってしまう。いかんせん、祝われる心当たりなんてどこにもないから。
「ええ。当神社を盛り上げるため、今日から始めたイベントです。貴女様が記念すべき最初の走者でございますので、もれなく新記録の更新となります」
「は……はぁ……」
・・・・・・説明を聞いてなお、まったく意味が分からなかった。
私がどう返していいのか戸惑っていると、巫女さんは今度はおもむろに、野球ボール大の古い石の玉を取り出し、こちらへと手渡してくる。
「景品としてこちらを差し上げます。今は昔、平安の世を混沌の渦へと落としたとされる大妖「
「は、はぁ……。私がいただいてしまっても本当にいいんですか? そんな貴重……そうなものを」
「ええ、私共も処分に困っていましたのでぜひ」
別に私もいらないんだけど……。話の流れでついつい受け取ってしまった。
「ムカつく奴に呪いをかけるのに使える……かもしれませんよ」
ムカつく奴か……。玉を両手で包み込みながら、試しに目を閉じて、とある人物の顔を思い浮かべてみる。
「まさかね……って、アレ?」
目を開くと、巫女さんの姿はきれいさっぱり無くなっていた。
***
無駄に重くなったカバンを抱え、駅までの道のりを歩いて戻る。もうすぐ22時。足取りが重く感じるのは、神社で押し付けられた石の玉だけのせいではあるまい。
すると、ポケットの携帯電話が急に震えた。発信者名は……「佛雁穣二」。・・・・・・いったい何だ?
気が進まないながら、しぶしぶ通話を繋ぐ。
「あ、葉子か? すまん、会社を出ようとしたらタンスの角に小指を思い切りぶつけてしまって、痛すぎてとても歩けそうにない。今日は中止だ」
大声で一方的にまくし立てられ、すぐに通話は切られた。
「まさか……ね?」
私はカバンの中に突っ込んだ石の玉の存在を思い浮かべながら、小さく呟いた。