ビル街の隙間にある小さな公園。夜の街灯に照らされながら、紗英はベンチにひとり、うつむいて座っていた。
手元には何もない。荷物も財布の中身も、もうほとんど底をついていた。ただ、冷え切った風が、彼女の頬を容赦なく撫でていくだけだった。
「……どうしたの? こんな夜に」
ふいに、声をかけられた。
顔を上げると、スーツ姿の男が、缶コーヒーを二つ持って立っていた。
「よかったら、これ……」
男はやわらかく笑いながら、温かい缶コーヒーを紗英の前に差し出した。
紗英は一瞬、警戒しつつも、寒さに耐えかねて受け取った。
「……ありがとう、ございます」
缶を両手で包み込みながら、ようやくかすれた声を出す。
「こんな時間に、公園で女の子が一人で座ってるなんてさ。心配になるよ」
男はベンチの隣に腰掛け、どこか気さくに笑った。
「……帰る場所が、ないんです」
ぽつりと紗英は言った。
男は驚いたように眉を上げ、それからしばらく黙っていたが、やがて優しい声で言った。
「そっか。……俺も、ひとりなんだ」
「……え?」
「独り身でさ。こっちに来たばかり。知り合いもいないし、毎日つまんないんだよね」
…本当に独身か?でも……。
紗英は頭が回らなかった。ただ、温かい言葉に、すがりたくなった。
「行くところがないなら……今夜だけでも、うち来る?」
一瞬、鼓動が跳ねた。
けれど、紗英には断る理由も、断る元気もなかった。
「……お邪魔、してもいいですか」
か細く答えると、男はうれしそうに笑った。
タクシーに乗り、男のマンションへ向かう間、紗英はずっと窓の外を見ていた。夜のネオンが滲んで見える。ふいに、死産した赤ちゃんのことが頭をよぎったが、意識的にその記憶を押し込めた。
今は、生きることだけを考えなきゃ。それだけだった。
男の部屋は、きれいに整っていた。
独身というには、生活感がありすぎたが、紗英はそれ以上深く考えなかった。
シャワーを浴びさせてもらい、出てきたところで、男がビールを差し出した。
「飲める?」
「……はい」
アルコールに弱い体質だったが、断る理由もなかった。缶を開け、流し込む。
ふいに男の手が、紗英の肩に触れた。
「……大丈夫。怖がらないで」
その手の温もりが、妙に優しく思えた。
「俺、独りだし……寂しいんだ」
男の言葉に、紗英は心のどこかで警戒心を叫ばせた。けれど、同時に、あたたかさにすがりたかった。
「私も……ひとりだから」
そう呟いた瞬間、男の腕が彼女を強く抱き寄せた。
翌朝。
紗英が目を覚ますと、男の姿はなかった。
テーブルには置き手紙が残されていた。
《急な仕事が入った。鍵はポストに入れといて。タクシー代はないけど、なんとかして。》
紗英は茫然とした。
財布を探しても、小銭が数百円しかなかった。
しばらくして、部屋の奥に、男の荷物らしき段ボール箱を見つけた。
その側面には、マジックで小さくこう書かれていた。
《送り先 佐山祐介様
送り主 佐山明美
中身 夏物衣類》
一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。
でもすぐに、理解した。
──男は、“単身赴任中の既婚者”だったのだ。
胸の奥で、何かがまた崩れた。
昨夜抱き寄せられた腕も、優しい言葉も、すべて偽物だったのだ。
バッグ一つ抱え、紗英はまた夜の街へ歩き出した。
行くあても、帰る場所も、誰かを信じる心も、すべてどこかに落としてきた気がした。
「……私は、どこまで堕ちていくんだろう」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
朝の光が冷たく、空っぽの身体に突き刺さった。