日曜の昼下がり。
紗英は近くのベーカリーカフェのテラス席にいた。目の前には、ほんのり焼き目のついたメロンパンと、温かいカフェオレ。
「ここの、ほんとに美味しいんですよ。外カリ、中ふわ、って感じで」
と、笑顔で話すのは、児童館で知り合ったボランティアの青年、航平だった。
航平は30代半ば。物腰が柔らかく、いつも穏やかな空気をまとう人だった。
彼は紗英の絵本を読んでくれていて、「くまくん」の物語に深く共感してくれた数少ない読者の一人でもあった。
「“帰りみち”って、ただの道じゃないんですよね。あれって、気持ちのことなんだろうなって思いました」
「……え?」
紗英は驚いた。誰かが、そんな風に彼女の物語の“心の根っこ”に触れてくれたのは初めてだった。
「ぼく、しばらく実家を離れてたんです。いろいろあって。でも、“帰ってくる”って、案外難しくて。『くまくんの帰りみち』、読んでたら、自分のことを思い出しました」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「あの本を描いたとき、私も、ずっと帰りたかったのかもしれません。どこか“ちゃんとした場所”に」
「今は、見つかった?」
少し考えてから、紗英はうなずいた。
「まだ途中ですけど……でも、前より、ちゃんと足が地に着いてる気がします」
航平は微笑んだ。風が吹き、テラスのテーブルに落ちていたパンくずがひらりと舞った。
「じゃあ、その“帰りみち”、もう少し一緒に歩いてもいいですか?」
紗英の手元のカフェオレが、少し揺れた。けれど心の揺れは、かつてのような不安ではなく、やさしいときめきだった。
「……はい。ゆっくりなら」
ふたりの目が合い、どちらからともなく微笑みがこぼれた。
あの夜、公園のベンチで身を縮めていた自分。
ガールズバーで耐えるしかなかった夜。
冷たい病室の天井を見上げて泣いた日。
全部が、今この瞬間のためにあったのかもしれない。
紗英はそう思えた。