俺と成瀬さんは、会長室へと向かって歩いていた。
もちろん、俺たちのあとを追ってきたエリーもいる。
だが、俺はともかく成瀬さんはエリーの姿を認識できないでいた。
「ほ~れほ~れ、つんつんつんつん。きゃはははは、おもろいな。こいつホンマに全然気づかんわ」
エリーは自分の姿が見えないことをいいことに、さっきから成瀬さんの頬を突きまくっている。
それでも成瀬さんは顔色一つ変えない。
実際に皮膚を突かれているはずなのに、脳みそがエリーを認識できないでいるので皮膚の感触すらも感じ取れていないのだ。
さて、どうしたものか。
俺はエリーのことが見えているので悪戯を止めさせることはできる。
けれども妖精族の悪戯好きは並大抵のものではない。
しかも俺とエリーは向こうの世界で10年以上の付き合いがあったため、今さら俺の言うことをエリーが聞くはずないこともわかっていた。
とはいえ、このままだとエリーは成瀬さんに悪戯をし続けるだろう。
そうなるとこの悪戯を止める方法は成瀬さん自身がエリーに気づくしかなく、どうやって気づくかは【聖気練武】の〈聖眼〉を活用するしかない。
〈聖眼〉は練り上げた聖気を両目に集中させ、常人には見えない生物の生命エネルギーを明確に視認するという技だ。
しかし、その〈聖眼〉の技にはさらにもう一段階上の技が存在する。
それは〈聖眼〉だけではなかった。
他の【聖気練武】も一般的に知られている技よりもさらに一段階上の技に昇華できる。
〈聖眼〉ならば生物の生命エネルギーの
そうなれば
まあ、今の成瀬さんの実力だとほぼ無理だろうが。
俺は医務室からこの会長室に来るまでのことを思い出す。
ここへ来るまでにも多くの職員や探索者とすれ違ったものの、俺と成瀬さんの頭上で自由に騒いでいたエリーに気づいて驚く者は皆無だった。
それこそすれ違った探索者の中には【聖気練武】を使える上位探索者もいたが、エリーを視認できるほどの使い手は1人もいなかったのである。
やはりこの世界の【聖気練武】の使い手は、アースガルドにいる【聖気練武】の使い手と比べて圧倒的に弱い。
ただし成瀬会長だけは別だった。
成瀬会長ほどの
などと思っていると、俺と成瀬さんは会長室に到着した。
そして成瀬さんが会長室の扉をおもむろにノックする。
「どうぞ、お入りください」
室内から聞こえてきた声に俺は眉根をひそめた。
成瀬さんも俺に顔を向けてきて同じような表情をする。
成瀬会長の声ではない。
入室を許可したきたのは成瀬会長よりも若々しい声だ。
「し、失礼します」
成瀬さんはややどもりながらも扉を開けて部屋に入る。
俺も成瀬さんに続いて入室すると、エリーが入ってきたことをさりげなく確認してから扉を閉めた。
「お待ちしていました」
俺たちを出迎えてくれたのは成瀬会長ではなかった。
三木原飛呂彦。
元A級探索者で、今は協会の本部で研究職に就いている人物。
そして今年の探索者試験の担当官だった。
「どうして飛呂彦さんがここに?」
成瀬さんも知らなかったのだろう。
三木原さんの顔を見て少し動揺している。
そんな三木原さんに俺は言った。
「よかった。あんたも無事だったんだな」
そうである。
あのとき俺は三木原さんについて最悪な事態を想定した。
メタル・タートルが出現したあと、どこにも三木原さんの姿がなかった。
そのため、てっきり俺は三木原さんの身に何かあったと思ったのだ。
「ああ、おかげさまで何ともない。お恥ずかしながら、イレギュラーが何もない空間から現れたときの衝撃で気を失ってしまってね。だから、拳児くん。君には感謝している。よくぞ、あの強力なイレギュラーを倒してくれた。君は英雄だ」
「過分な評価をしてくれるのは嬉しいが、まさか俺を褒めるためだけにここいるわけじゃないんだろう?」
俺の予感は的中したらしく、成瀬会長は「その通りだ」とうなずいた。
「彼を呼んだのはわしだ。今回の一件で少々思うところがあってな」
そう言った成瀬会長の表情は少しばかり暗かった。
協会本部の敷地内にイレギュラーが出現したことで精神的な疲労が蓄積されたのだろう。
数日前に会ったときよりも顔から精気が失われている。
そんな成瀬会長はイレギュラーが現れたとき、環境庁のお偉いさんたちとの用事で地上世界に行っていたので不在だったと成瀬さんから聞いていた。
それが成瀬会長の元気のなさの原因かもしれない。
まあ、それはともかく。
「俺があのイレギュラーをこの協会内に転移させたかもしれない……そのことについてだな?」
「え?」と隣にいた成瀬さんが大きく目を見開かせる。
「まさか、自ら告白するのか? あのイレギュラーを手引きしたのは自分だと」
成瀬会長は俺をギロリと睨む。
三木原さんも同様に俺に鋭い視線を向けてくる。
どうやら俺の1つ目の予想が当たったようだ。
2人は俺があのイレギュラーをこの協会内に出現させた張本人だと疑っている。
「ちょっと待ってください」
不穏な空気が流れ始めた中、俺と2人の間に割って入った人物がいた。
成瀬さんである。
「お爺さまも飛呂彦さんもどうかしています。拳児くんがあのイレギュラーを協会内に手引きした? そんなことできるはずがありません」
「無理、とは言えないのですよ」
成瀬さんの意見に答えたのは三木原さんだ。
三木原さんはスーツのポケットから青色をした半月状の金属を取り出した。
その青色の半月状の金属には奇妙な模様が彫られている。
「ケン、あれは〈
俺の頭上を飛んでいたエリーが指をさす。
やっぱりな、と俺は思った。
〈転移鏡〉。
それは俺とエリーがいたアースガルドに存在する希少な魔道具の名だ。
鏡と命名されているが、実際には物を反射することはない。
その名とは裏腹に、〈転移鏡〉には生命体ならば遠く離れた場所に移動させる特殊な力があった。
やりかたはこうだ。
本来の〈転移鏡〉は右と左で赤色と青色をした円形をしていて、力を使う際には割り符のように青色の半分だけを割り、その青色の片方をどこかの場所に置くか埋めるかする。
そして残った赤色の片方を持って別の場所に移動し、半月状に残った赤色の〈転移鏡〉を割る。
すると力が発動して青色の〈転移鏡〉の場所に物体が一瞬で転移するのだ。
その力とはずばり転移能力に他ならない。
〈転移鏡〉自体に残された力にもよるが、まったく破損していない〈転移鏡〉を使った際には、赤色の部分の〈転移鏡〉を割った生命体を残りの青色の〈転移鏡〉の場所に移動できる。
人間だろうと魔物だろうと、だ。
その稀少な魔道具だった〈転移鏡〉を三木原さんが持っている。
ということは、このダンジョン内で発見されたのだろう。
アースガルドと繋がっていると思しき〈武蔵野ダンジョン〉の中で。
「これは私が過去にダンジョン内で発見したアイテムです。まだ名前は付けていませんが、このアイテムには不思議な力がある。それは――」
「物体を別の場所に転移させる力。そうだろう?」
俺は三木原さんの言葉を強引に繋いだ。
直後、俺とエリーを除いた3人が驚愕する。
「な、なぜそのことを君が知っているんです? ネットなどの憶測はともかく、これの存在は協会内でも会長と私を含めた一部の人間しか知らないことなのに」
初めに驚きの声を発したのは三木原さんだ。
無理もない。
そもそも地球には魔道具というアイテムが圧倒的に不足している。
アースガルドでは全大陸に様々な稀少アイテムが採れるダンジョンが多く存在していたが、この地球には希少なアイテムが採れるダンジョンは〈武蔵野ダンジョン〉しか存在していなかった。
なので地上世界では〈武蔵野ダンジョン〉について国家間の問題も多くあるというが、まあ今はそんなことは関係ない。
「俺がそのアイテムのことを知っている理由はただ1つ」
俺は力を使ったと思われる〈転移鏡〉の片割れを見つめる。
「それは俺がこの地球とは別な世界の人間だからだ。三木原さんが持っている〈転移鏡〉以外にも様々な力を発揮する、魔道具と魔法が存在するアースガルドと呼ばれる世界の住人」
3人の信じられないという表情を見ながら俺は答える。
「俺はあなたがたの言うところの異世界人だ」