い、異世界人?
今、拳児くんは自分のことを異世界人って言ったの?
成瀬伊織ことわたしは、隣にいる拳児くんの横顔を見ながら困惑した。
まさか、あの強大なイレギュラーと闘ったことで頭がおかしくなってしまったのだろうか。
などと思ったわたしだったが、すぐに心中で頭を振って否定する。
拳児くんは狂ってなどいない。
背筋はピンと伸びており、威風堂々としている様は正常な人間そのもの。
そうである。
探索者の中には凶悪な魔物と対峙することで精神が病んでしまう者も少なくなかったが、お爺さまと視線を交錯させている拳児くんは精神を病んでいる風にはとても見えない。
それどころか、2日振りに目覚めた拳児くんは別人のようになっていた。
見た目はまったく変わっていなかったものの、その言動は落ち着き払った大人のようになっていたのだ。
口調もそうだった。
これまで拳児くんは自分のことを「僕」と言っていたのに、この場にいる拳児くんは自分のことを「俺」と言っている。
何となく変えたのではないだろう。
それはわたしにもはっきりとわかった。
この場にいる拳児くんは今までとは別人だ。
なので口調が変わっても違和感がなかった。
むしろ自分のことを「俺」と言っている拳児くんが本来の拳児くんのような気さえしてくる。
そこでわたしはハッと気づいた。
なぜ、拳児くんが突然別人のようになったのか。
もしかすると逆なのかもしれない。
自分のことを「俺」と言っている拳児くんこそ本来の拳児くんだとしたら……
「ねえ、拳児くん。あなた、なくなっていた記憶が戻ったの?」
拳児くんはわたしのほうに顔を向けると、力強く「ああ」とうなずいた。
その顔を見てドキリとした。
返事をした拳児くんの顔があまりにも凛々しかったからだ。
その堂々たる返事は心の底から自信に満ち溢れ、艱難辛苦を乗り越えた20代後半か30代前半のような貫禄があった。
「拳児くん、聞かせてもらえまいか。今の君は一体何者なんだ?」
お爺さまも今の拳児くんが以前の拳児くんとは違うことを見抜いたのだろう。
そんなお爺さまの問いに、拳児くんは「お答えした通りです」と答えた。
「俺はあなたがたの言うところの異世界人で、本名はケン・ジーク・ブラフマンという。アースガルドでも全大陸の3分の1以上に信徒を持つ、クレスト聖教会の武闘僧だった」
そして拳児くんは話し始めた。
記憶を失う前のこと――この地球とは異なる世界で生きていたときのことを。
最初はわたしやお爺さま、三木原さんも話半分で聞いたのだが、途中からどんどん話に引き込まれて最後には絶句してしまった。
アースガルド。
そこは
これは拳児くんの妄想?
いや、違う。
要所だけをかいつまんで話していたにもかかわらず、拳児くんの言葉には断固たる説得力があった。
たかが16年しか生きていないわたしでも本能で感じた。
拳児くんは微塵たりとも嘘をついていない。
ただ、記憶を取り戻す前の人生を語っているだけだ。
それだけのことなのに、わたしは心臓をつかまれたような息苦しさを覚えた。
拳児くんの口から紡がれる言葉のすべてを聞き、わたしはまるで自分が拳児くんの人生を追体験しているような錯覚に陥ったのである。
わたしは脳内で想像した。
拳児くんが異世界アースガルドの空気を吸い、大地を踏みしめ、想像すらもできないほどの武術の修行を積み、並みのイレギュラーなど裸足で逃げ出すほどの魔物と死闘を繰り広げていた日々を。
やがて拳児くんは無言になった。
すべてを語り尽くしたのだろう。
わたしたちを見回して小さく息を吐く。
一方のわたしたちも無言になり、会長室はしんと静まえり返った。
当たり前だ。
この地球とは異なる世界のことを真剣に話されたのである。
正直なところ、これが拳児くん以外の人間の口から出た言葉ならここまで重く受け止めない。
相応の病院やカウンセリングを受けなさいで終わる。
けれども、拳児くんはこれまで2体もイレギュラーを倒した功績がある。
しかも2体目のイレギュラーは、下手をすれば協会本部を破壊していたかもしれないほど強大で凶悪なイレギュラーだった。
そんな功労者の口から飛び出た話は、たとえ普段なら一蹴してしまう異世界の話だろうと簡単には無下にはできない。
お爺さまもそう思ったのだろう。
「君が異世界人であるという証拠はあるのかね?」
だからこそ、お爺さまは真剣な表情で拳児くんにたずねた。
何も証拠がないのなら与太話として受け止めるが、もしも本当に異世界人だという証拠を示せるのなら迷宮協会のトップとして受け止めると。
でも、そんなことできるはずがない。
わたしはお爺さまと拳児くんを交互に見る。
拳児くんが異世界人であることを証明することなど不可能だ。
これが日本人である証拠を見せろということならば、戸籍謄本やパスポートの有無など身元を調べる手段などいくらでも存在する。
だが、異世界人であることなど誰にも証明できるはずがなかった。
それは2体のイレギュラーを倒した拳児くんにも言えることだ。
拳児くんの話によれば、異世界アースガルドには【聖気練武】の技も存在しているという。
似たような技ではない。
その技の名前や性質も同じく【聖気練武】というらしい。
これにはお爺さまも少なからず驚いていた。
なぜなら、【聖気練武】はお爺さまが若かりし頃に会得して発展させた技術だったからだ。
古来より中国や日本には〈気〉という概念があり、世界を構成する力として主に東洋の武術家の間で広く浸透していた。
その中で成瀬家は成瀬流古武術という武術の大家として、柔術や武器術と一緒に〈気〉の力を高める瞑想法や呼吸法も一子相伝として継承されていた。
もちろん、お爺さまも幼少の頃から曾祖父に武術と一緒に〈気〉の鍛錬も仕込まれたという。
やがてお爺さまは成瀬流古武術の技を10代で習得したのだが、武術の天才として生まれたお爺さまはさらに成瀬流古武術を進化させようと海外へと渡った。
向かった先は台湾だった。
最初は武術の本場である中国本土に行くつもりだったらしいが、文化大革命と共産主義革命によって当時の中国の文化や人命は蹂躙され尽くされていた。
そこでお爺さまは、中国本土から逃げのびた武術家や仙道士を求めて台湾へと渡ったという。
そんなお爺さまの決断は英断となった。
お爺さまは彼の地で本物の武術家や仙道士と出会い、教えを乞うて修行に修行を重ねた。
そして台湾で本物の仙術や気功を習得し、それを成瀬流古武術とミックスさせたことで人間の隠されていた力を引き出せる技術を創始した。
習得すれば
お爺さまはその技術に名前をつけた。
それが【聖気練武】である。
やがてお爺さまは日本に帰国すると、その【聖気練武】を才能に溢れた見込みある武術家たちに伝授を始めた。
もちろん、その普及にはお祖母さまの存在が欠かせなかった。
有名な宗教家の長女だったお祖母さまは、知る人ぞ知る達人だったお爺さまと出会って結婚。
2人は〈聖光神武教団〉という新興宗教を立ち上げ、気功によって医療では治らないとされていた難病の完治に取り組み、同時に武術によって心身の健康を保つ布教活動を始めた。
これにより多くの信徒や弟子が集まって〈聖光神武教団〉は規模を拡大させていったが、より決定的な信徒と弟子の増加があったのはあの大事件のあとである。
30年以上前、突如として武蔵野市に青白い光を発する〈門〉が出現した。
その〈門〉を通った先は広大な地下世界が広がっており、その全容を把握するべく投入された警察や自衛隊が魔物によって大量惨殺された事件。
その大事件を解決すべく当時の日本政府は各省庁や民間企業と協力して事態の収拾に努めたが、魔物相手に銃器が通用しなかったことで日本政府は戦争以上の辛酸を舐めた。
このとき、事態の収拾に動いたのがお爺さまたち〈聖光神武教団〉だった。
お爺さまは【聖気練武】を習得させた多くの弟子たちと地下世界に突入して、銃器が通用しなかった魔物を素手や武器で倒し、魔物が〈門〉を通って地上世界に出て来るのを未然に防いだ。
何でもお爺さまは修行をした台湾の山中で妖魔と呼ばれていた存在と遭遇し、その妖魔たちを【聖気練武】の技で倒していたらしい。
そんな経験を元にお爺さまたちは確固たる勝算を持って事に当たったところ、警察や自衛隊です泣き寝入りを強いられた魔物たちを打ち倒すことに成功した。
やがてお爺さまたち〈聖光神武教団〉は日本政府に認められ、国内で一大宗教団体となってからは国心党を立ち上げて連立政権にも参加。
政権与党であった政民党を表裏問わずバックアップする形で、現在の地上世界では連立政党として周知されている。
ただし、これはあくまでも地上世界の話だ。
その後、政党関係の仕事は地上世界でお祖母さまが担い、お爺さまは地下世界――世間的にはダンジョンと呼ばれている――で〈聖光神武教団〉を解体して〈日本迷宮探索協会〉を設立。
探索者制度を作り、迷宮内の魔物が地上世界に出ないように迷宮街と迷宮探索協会の本部を建設した。
現在では〈ダンジョン事変〉と呼ばれている出来事である。
なのでお爺さまに生温いイカサマや嘘など通用しない。
これまで歩んできた人生経験が桁違いなのだ。
そんなお爺さまに拳児くんはこくりとうなずいた。
「わかった。俺が異世界人であるということを証明して見せよう」
そう言うと拳児くんは静かに目を閉じた。
直後、わたしは息を呑んだ。
なぜなら――。