その建物は元は廃墟だったのだろう。それをどうやらアジトとして再利用しているらしいが……はっきり言って、その中の環境は最悪の一言に尽きた。
通路は凸凹で歩き難いことこの上なく、壁もところどころ穴が空いていたり、酷い場合はそもそも崩れてしまっている。そしてどこにいようが埃とカビの入り混じった臭いが鼻を突く。綺麗好きであるラグナにとって、この環境はあまりにも辛過ぎた。
──……今すぐここから出たい。
顔を顰めさせ、思わずこの建物から抜け出したい気持ちになるラグナ。しかしそうする訳にもいかず、心を気丈に保ち必死に我慢する。
そうして、ある程度進むと。ラグナを案内する男が、一つの扉の前に止まる。その扉からは複数のくぐもった男たちの声が聞こえており、何かの娯楽でもしているのか馬鹿みたいに騒がしい。
男が扉のノブを掴み、そして捻る────次の瞬間、ラグナは堪らず顔を歪めさせてしまった。
──うぐ……っ!
通路は埃とカビだったが、その部屋の中は酒と食べ物──そして男の臭いで充満し、溢れ返っていた。しかもどうやら窓がない部屋らしく、換気もろくにしていなかったらしい。扉を開けたことで唯一の空気の通り道ができ、結果そこへ室内の空気がその臭いを伴って一気に押し寄せた訳だ。
ラグナの前には案内の男が立っていたので、幸い直撃は免れたが……それでも十二分に強烈で。ラグナは無意識の内にもその場から半歩、退がってしまっていた。
──こ、こん中入んなきゃいけないってのか?
この部屋に足を踏み入れさせることに対して、ラグナは生理的嫌悪感と堪えようのない不快感を抱くラグナ。そんなラグナとは対照的に案内の男は然程気にする様子もなく、そのまま部屋の中へと進んで行ってしまう。
「…………
部屋の中にいる男共に聞こえぬよう、そう吐き捨て。ラグナは目を閉じ、深呼吸──したかったがここですると身体の具合が悪くなりそうなので断念し、覚悟を決め目を見開かせる。そして死地に飛び込むつもりで、重たい足を上げ────ラグナは遂に、部屋の中へ踏み入った。
部屋の中には十数人の男たちがおり、皆が皆それぞれのことをしていた。
飯を貪る者。酒を煽る者。下世話な話題で盛り上がる者たち。
それらを目の当たりにしたラグナは、率直に思う。
──くだらねえ。他にやることないのかよ。
そしてラグナは視線を彼から外し、案内の男の背中を追う。と、案内の男に別の男が横から声をかける。
「おいジョナス!お前ライザーさんに気に入られてるからって、抜け駆けすんじゃねえぞおい!絶対だからな!!」
「抜け駆けなんてするかよ。ライザーさんに殺されちまう」
だいぶ酒を飲んでご機嫌らしいその男は案内の男──ジョナスにそう汚らしく唾を飛ばして怒鳴りつけるが、対するジョナスは特に気にも留めず軽くあしらった。
しかし、ジョナスとその男の会話に、ラグナとしては聞き捨てならない発言があった。
──抜け駆け……?
一体何を指したことの抜け駆けなのか。それが妙に引っかかるラグナであったが、ジョナスの声がラグナを現実へ引き戻した。
「あちらです」
「あ?お、おう」
少し慌てて返事をし、見てみれば。ジョナスが指差すその先は奥の方で、そしてそこには扉があった。この部屋に入る時とは違い、その扉の向こうから物音らしい物音は聞こえず。ラグナにはそれが少し不気味に思えた。
「……この先にライザーがいんのか?」
ラグナはそう訊ねるが、ジョナスは何も答えず沈黙してしまう。そんな彼の態度をムッと不快に思うラグナであったが、今はそんなことを
「……わぁったよ。ここまで案内してくれてありがとな」
全く心の籠っていない感謝の言葉を述べて、ラグナが扉の元まで向かおうとした、その瞬間。唐突にラグナの背筋を悪寒が駆け抜けた。
──ッ……?
それはまるで、肌を舐め回されるような、そんな悍ましく気色悪い感覚で。そしてそれはラグナが生涯の中で今、初めて味わう感覚でもあった。
その未知の感覚に堪らず、一瞬にしてラグナは怖気立ってしまう。咄嗟に背後を振り返ると────そこにはジョナスが立っているだけだった。
「……どうかしましたか?」
ラグナの挙動を不審に思ったのか、ジョナスがそう訊ねる。
「な、何でもない」
その感覚を、自分の気の所為だと決めつけて。ラグナは慌てながらもまた扉の方へと向き直り、そして進み始めた。
だがしかし、ラグナは気づいていなかった。気づけなかった。
ジョナスの後ろで男共が、皆顔を見合わせ下卑た笑みを浮かべていたことを。そしてジョナスが憐憫の表情で、こちらの背中を見送っていたことを。
扉は何の変哲もない、至って普通の扉で。別に鍵がかかっている訳でもないそれは、呆気なくも開くことができた。
そして扉を開けたラグナを出迎えたのは────
「まさかこんなところに、それもたった一人でお越しくださるとは、ついぞ思いもしてませんでしたよ」
────という、口調自体は敬意を払いつつもその声音は何処か鬱屈としている言葉だった。
狭く、窮屈な印象を抱く部屋だった。これといった家具もなく、唯一あったのは一つの小さな
遠目からでも目立つ、派手な金髪。長身で、腰かけているというのに立っているラグナよりも少し高い位置に頭がある。
「ようこそ。俺の隠れ家へ」
そう言って、その男は──ライザー=アシュヴァツグフは俯かせていたその顔を上げた。
ライザーを一言で表すのなら、獣────獅子という言葉がよく当てはまる。別にやたら毛深いだとか、顔つきが濃いという訳ではない。むしろライザーの場合は全くの逆で、クラハと似た部類の好青年である。
……ただ、その雰囲気はクラハとは似ても似つかなかった。彼のは温厚柔和で誰でも気軽に接せられる雰囲気ならば、ライザーのは常に周囲を威圧しているかのような、雄々しく荒々しい雰囲気である。
それはまさに獰猛な肉食獣────百獣の王たる獅子が如きで。また髪と同じ色をした双眸も鋭く、宿る眼光は内に秘める獣性を隠せないでいた。
凶暴で危険で、接し難く近づき難い一人の男────否、雄。だからこそ、多くの女性を────雌を彼は意識せずとも本能的に惹きつけてしまうのだろう。まだ『
「それで、ここに……いや、俺に一体何の用ですか?別に世間話をしに、わざわざこんなところに来た訳ではないんでしょう?」
試すようにこちらのことを見据えながら、依然気取ったような、わざとらしい口調で訊ねるライザー。それに対してラグナは、彼の眼光に僅かにも臆することなく、毅然とした態度で答える。
「ああ、当然。……お前に一つ、言いたいことがあんだよ」
ライザーがそうするのと同じように、ラグナもまた彼のことを見据える。真紅の双眸に強かな意志を、決意の光を宿らせて。キッと彼を睨みつける。
「……俺に、言いたいこと?」
胡乱げにそう言うライザー。そこでラグナは深呼吸を挟んだ。瞳を閉じて、息を吸い、吐き出し────そして瞳を見開かせて、ライザーに聞こえるよう一字一句、はっきりと言った。
「クラハに謝れ、ライザー」