「…………ん……?」
唐突に、ラグナの意識は呼び起こされた。まだ重たい瞼を苦しげに開けると、薄く滲んでぼやけた視界が広がる。
──俺、いつの間にか寝ちまってたのか……?
寝起き直後特有の、霧がかかったようにぼんやりとして上手く回らない頭の中で、ラグナは呆然とそう呟き。それから自分が眠りに落ちるまでの記憶を、徐々に思い出していく。
──確か、俺は今……ライザーの奴に会いに……。
しかし、その途中。ラグナが無意識の内に、腰を動かしたその瞬間。
ぐちゅ、と。およそラグナにしか聞き取れない程に小さく、粘度のある水音がして。それと同時にラグナの股座を、異様な冷たさが襲った。
「ッ……!?」
思わず喉奥から飛び出しかけた悲鳴を既のところで押し止め、けれどその不快感に堪らずラグナは己の身体を震わせる。
──な、何だっ?何で股の間がこんなに冷えてんだっ?
しかもただ冷えている訳ではなく、何故か……濡れている。その現実を受け入れ、その事実を認めるのにラグナは数秒を要し────さあぁっと、その顔を青褪めさせた。
──ま、まさか俺寝てる間に漏らしっ……!?
羞恥と焦燥。その二つに駆られながら、ラグナは大慌てで布団や
──よ、良かった……俺、やらかしてなんかなかった……。
だがしかし、今確認した通り布団やシーツは濡れてはいないが、股座が濡れて冷えていることは確かで。しかもそれだけではなく、自分の気の所為でなければ……ぬるぬると、している気もする。
──気持ち悪りぃな、これ……っ!
ただでさえ股座が冷たいだけでもかなり不快だというのに、その上ぬるついてもいる。その二つが相乗して引き起こす不快感と気持ち悪さは、ラグナにとって初めての、未知のもので。それから逃れようと、ラグナは迷わずショートパンツに手をかけ、そして穿いている
「……う、わ」
ラグナは見てしまった。その光景────否、ラグナにとっては理解し難い、どろどろの惨状を。
目が離せない。見たくない、と。真っ白になった頭の中ではそう思っているのに、視線は無視してそれに囚われてしまう。
ショートパンツごと引っ張り上げた下着の中で、それは。ねとぉと、淫靡に糸を引いて。
──…………あ。
瞬間、真っ白だったラグナの頭を、その
『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に』
つい先程ばかり、この身で受けた数々の陵辱。人の理性からは遠くかけ離れた、獣としての本能に限りなく近い、薄汚れた浅ましい欲望の仕打ち。
それら全ての記憶を振り返る、その途中で。ラグナはこの一言を脳裏に反芻させる。
『アンタは気持ち良くなっちまったっていう、紛うことなき証なんだぜ、それはよ。……ハハッ!ハハハッ!!』
証。証明。ライザーの言う、自分が気持ち良くなった動かざる明白な、証拠。それが今、ラグナの眼下に広がっている。それも淫らに、卑猥に。
そのことにラグナは困惑し、混乱する。この上なく動揺しながら、それでも。
──違ッ……!
決定的なそれを突きつけられてなお、否定しようとした。その、瞬間────
「違うッ!」
────聞き覚えのある声が、鋭く部屋に響き渡った。その声に、堪らずビクッとラグナは肩を跳ね上げさせてしまう。
──な、何でっ……!?
ここに、こんなところにいるはずのない後輩の名を、ラグナは呟いて。そして、声がした方へと咄嗟に顔を向ければ。
いた。確かに、そこに立っていた。
「違わねえッ!」
つい先程ばかりに、自分に対して陵辱の限りを働き、こちらの尊厳をこれでもかと踏み躙った、張本人と対峙して。
「往生際が悪いんだよ、もういいからさっさと認めろよ。いくら否定したって、お前が今日やったことは覆せない事実として、紛れもない真実として、変えようがない歴史として。一生、生涯……お前の中に永遠と残って消えることなんてないからさぁあああッ!!!」
「黙れ!黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!!」
二人は取っ組み合いながら、言葉をぶつけ合う。その光景はこの上なく異様で、異常で。だがそれ以上に、ラグナは愕然としていた。
──何だよ……何でだよ。
信じられない面持ちで、ラグナは切実に呟く。
「何でお前がそんな顔してんだよ、クラハ……!」
そんな顔を、ラグナは一度見たことがある。一年前に、ラグナは見たのだ。
『わかったな!?──────クラハァッ!!!』
まるで声がそっくりそのまま、そこに表れているかのような。人を憎み、人を恨み。憎悪を掻き立て怨恨を募らせた────そんな、顔。
それを今、クラハが浮かべている。普段から人の好い穏やかな、悪く言ってしまえば優男のような笑顔を浮かべている、彼が。
ラグナはそれが信じられなかった。クラハとの付き合いは短くない。ラグナは彼が子供の頃から接している。そんなラグナですら、クラハのそんな顔は見たことがなかった。
だからこそ、信じられなかった。信じられなくて、そして────堪らなく嫌だった。
──お前がそんな顔しちゃ、駄目だろ……。
今すぐにでも止めさせなければ。すぐにでも、その顔を元に戻さなければ。普段通りの、
そう思い、ラグナは口を開こうとするが。
「俺は何度でも言ってやる。お前は俺と同じだ。同じ穴の狢さ。……お互いに、己のかけがえのない大切で大事な夢と憧れを否定して汚した、全くもって救い難く救いようもない、最低最悪の同類になるんだよ」
その前に、歓喜と狂気が滅茶苦茶に入り乱れた笑みを浮かべるライザーが言い。対して、クラハはその表情をさらに悪化させて、叫んだ。
「…………黙れぇぇぇええええええッッッ!!!!」
──ッ……!!
堪らず、ラグナは身を竦ませた。その叫びに含まれている、クラハの怒り。クラハの激怒。クラハの憤怒。その全てを敏感にも感じ取ってしまい、固まってしまったのだ。
寝台からラグナが見ているとも知らずに、クラハとライザーの二人は殴り合い、蹴り合い、暴力を振るい合う。そんな接し方しか知らない、相手を傷つけることでしか触れ合うことのできない、哀しき獣のように。
そしてそれを、ラグナはただ黙って見つめることしかできない。
──止め、なきゃ。
頭ではわかっているのに。
──止めなきゃ。早く、クラハを止めなきゃ……!
頭では理解しているのに。
──このままじゃ、クラハが……ッ!
だけど、思考に反してラグナの身体は上手く動いてくれない。恐怖に囚われ、怯えに縛られた身体が動かせない。
そして、遂に。
「ライザァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」
「クラハァァァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!」
クラハとライザーの二人が互いの名を叫び合い、互いに握り締めたその拳を振り上げる。それを眺めながら、ラグナは──────
──クラハがクラハじゃなくなっちまうッ!!
──────その口を、開かせた。
ゴチャッ────直後、ラグナが見ているその前で。それぞれの拳は交差し、それぞれの頬に突き刺さった。
──……ぁ。
真紅の瞳を見開かせるラグナの目の前で、まずはクラハの拳がライザーの頬から、ズルリとずり下がり、宙へ滑り落ちて。遅れて、ライザーの拳もまたクラハの頬から、宙に滑り落ちる。それから彼はその場から数歩後ろによろめていて、浮かべているその笑みを勝ち誇ったようなものに変貌させて、クラハに向かって何か呟く。流石にその内容までは、ラグナには聞き取れなかったが。
そうしてライザーは勝ち誇ったような笑みを浮かべたまま、前のめりになって床に倒れた。
「…………」
クラハは、その場から動かない。倒れたライザーを見下ろしたまま、微動だにしない。
その姿と様子に、ラグナは。開いたその口から、掠れた声を絞り出す。
「クラ、ハ……?」
だがその声は、ラグナの意志とは裏腹に。恐怖、怯え、そして────不安に塗れていて。
そんなラグナの声に、無言で佇んでいたクラハが。