「クラ、ハ……?」
その声は、恐怖と怯えと、不安に塗れていた。こちらに声をかけることに対して、何処か躊躇いがあるように感じ取れた。
虚脱感と喪失感の狭間に立たされながら、僕はゆっくりと
その姿を、その顔を見た僕は。何故という、一つの疑問を抱く。
──どうして、そんな……不安そうな表情を浮かべているんですか……?
先輩は僕のことを見ていた。不安そうな表情で。心配そうな眼差しで。それが僕にはわからなかった。理解できなかった。
だってそうだろう。見ての通りライザーは床に伏している。ライザーの仲間たちも全員叩き潰して、叩きのめした。もう先輩を脅かすような輩など、この廃墟にはいない。
……だというのに、何故先輩はそんな表情をしているのだろう。何故そんなにも不安と、恐怖と怯えが入り混じった表情を僕に向けるのだろう。
わからない。理解できない。僕は、先輩を迎えに来ただけなのに。先輩を、助けに来たのに。
なのに、どうして。
──どうしてあなたはそんな顔を、そんな表情を僕に向けるんですか……?
そのことに対して哀愁にも似た感情を抱き────瞬間、僕の心が黒い翳りのようなもので徐々に覆われていくのを、呆然と感じた。
だから、僕は今どうすればいいのかわからなくて。どんな行動に移れば、どんな選択を取るのが正解なのか、それがわからなくて。ただ、その場に立ち尽くす。
そんな僕のことを見兼ねてか。先輩は戸惑うように、躊躇うように。一瞬だけ視線を泳がした後、寝台から降りる。ライザーが気を失ったからか、先輩の手足を拘束していた鎖はいつの間にか解けていた。
そうして。ゆっくりと、先輩は僕の前にまでやって来た。少しの間を置いて、先輩がその口を開かせる。
「よ、よお。よくわかったな、この場所。その……俺を助けに、来てくれたのか?……クラハ」
申し訳なさそうに言って、それから少し照れたように、先輩ははにかんで。そんな先輩に、僕は上着として羽織っていたコートを脱ぎ、黙ってそれを羽織らせた。
「あ……」
突然僕にコートを羽織らされ、先輩は困惑の声を漏らす。……恐らく、というか十中八九ほぼライザーの仕業と見て間違いないだろうが。先輩の服はその
結果、先輩の胸元があまりにも開放的になっていて。隠されるべき豊かでたわわなその中身が、丸出しと言っても過言ではない程大胆に外気に曝け出されてしまっている訳で。そのことを先輩自身は特に気にしていないようだったが、僕は到底それを看過することはできなかった。
……いや。これは違う。看過できないというのは、僕のつまらない言い訳だ。本当は────
「……あ、あんがと」
先輩のことを思った訳ではない、僕のその気遣いを。だが僕に信頼を寄せている先輩は、若干複雑そうにしながらも素直に受け取って、礼を述べてくれる。……その感謝が、僕の心を苛むとも知らずに。
「えっと、それで……さ。ま、まあ訳を話すとそれなりに長くなるんだけど、さ。あー……うん。どっから話せばいいんかな。あは、ははは……」
そう言って、先輩は似合わない、慣れない苦笑いを浮かべる。……その態度が、僕の心をささくれ立たせるとも知らずに。
──…………あれ……?
そこで唐突に、僕は気づく。どうして、こんなにも。よりにもよって、自分は。
恐らくそれは、この人と知り合って始まった八年という、決して短くはない月日の最中で。僕が、初めて抱くもので。
それは憤慨なのか、それとも憐憫なのか。その両方であり、またはそのどちらでもないのかもしれない。とにかく形容のし難い、負の感情としか言い表せないモノを、僕は今この人に対して向けている。それだけは、確かだった。
そしてそれを、こうして。自覚してしまった瞬間──────僕の心を徐々に覆っていた翳りが、一瞬にして広がり、包み込んだ。
「……クラハ?」
そんな僕の、昏く淀んだ心情を機敏にも感じ取ってくれたのだろう。心配そうに先輩が僕の名前を呼び、顔を覗き込んでくる。
……だが、それが
何よりも────その瞳が許せない。元の輝きをそこに宿しておきながら、それ以外の何もかもが違う。身体も、髪も、顔も。全部、全部全部全部違う。
違う癖に、どうしてそう
「な、なあ。どうしてお前、さっきから黙ったままなんだ?何か……言ってくれよ」
深紅の瞳に宿す輝きは元々のままの、それ以外の全てが違う目の前の先輩は。決して他人などに、否僕なんかに見せることはなかっただろう、心配と不安に満ちた表情を浮かべて言う。
それを目の当たりにした瞬間、遂に僕は堪えられなくなった。
「…………先輩」
今の今まで口を閉ざし、保っていた長い沈黙を破る為に。喉奥から絞り出した僕のその声は、自分でも意外だと思うくらいに、低かった。
「一つ、教えてください」
「お、おう。いいぞ」
続いたその声も、依然低く。だからか、先輩は僅かに動揺して、けれど頷き了承の意を僕に示してくれる。
……だから、僕は遠慮せず。そして容赦なく、訊ねた。
「ライザーの奴に、何を……どんなことを、されたんですか」
僕の声が部屋に響いてから数秒、静寂は続いて。その後、目を丸くし呆気に取られていた先輩が、呆然としたように声を漏らす。
「え……?」
恐らく、僕がそれを訊くとは思いもしていなかったのだろう。……僕だって、訊きたくはなかった。けれど、今はそれを訊かずには、どうしたっていられなかった。
「どんなことされたって……そりゃあ、その……」
それを言うのは流石に気が憚れるのか、先輩はらしくもなく
「い、色々された。身体じっくりジロジロ見られたり、胸触られたり揉まれたり……あ、ああでもそんくらいだぞ?ライザーにされたのは本当にそんくらいのことで、別に殴られたり蹴られたりはされてねえし、だから俺は見ての通り何ともない!だ、だからクラハが気にすることなんて、何もないんだぞ?」
……先輩は、人の感情や心情というものに対して、昔から人一倍、誰よりも敏感だった。
だから、きっと。ライザーの仕打ちの内容を聞かされ、ドス黒く静かに煮え滾る、僕のこの怒りも。先輩は感じ取り、見透かし。慌ててライザーの奴を弁明するかのような戯言を、加えてしまったのだろう。
だがそれは、それだけは間違いだった。絶対に犯してほしくはなかった、最悪の間違いだった。
「どうしてですか、先輩。先輩はどうして、こんな場所に一人で乗り込んだんですか?一体どうしてこんな無茶をしたんですか?」
到底抑えられない衝動のままに、まるで縋るように僕は先輩に詰問する。僕自身、もう訳がわからなかった。僕の心の中で、激情が渦巻いて、こうして口に吐き出さなければどうしようもなかった。
「そ、それは……」
だというのに、目の前の先輩は肝心なところで。また吃り、目を逸らし、躊躇する。その態度が焦ったくて、煩わしくて。
ガッ──だから僕は、その華奢な両肩を掴んだ。
「ク、クラハっ?」
僕がこんな乱暴な真似をするとは、先輩は思いもしていなかったのだろう。僕だって、咄嗟のことだった。気がついたら、こうしていた。
先輩が驚きの声を上げたが、しかしそれに構える余裕など僕にはない。動揺の色が見え隠れする深紅の瞳を覗き込むようにして、僕は必死になって先輩に訴えかける。
「そもそも先輩がこんなところに来なければ、ライザーの奴に酷い目に遭わされることなんてなかった。それだけじゃない。きっとろくでなしのあいつは、仲間を使って先輩をもっと酷い目に遭わせようとしたはずです。こんな無茶をしなければ……先輩の身には何も起こらなかったんですよ?」
僕の訴えに対して、先輩は黙り込んでいた。そんな先輩に、僕は再度、切実に問うた。
「だから、教えてくださいよ。どうしてこんなことをしたんですか……ラグナ先輩」
「……」
それでもまだ、先輩は沈黙を保っており。その深紅の瞳には、迷っているように揺れている。
長い、本当に長い沈黙の後。遂に、先輩は。その瞳を伏せて、未だ動揺が抜け切っていない震えた声で。僕が待っていた答えを、その口から出した。
「お前の、為。俺が一人でここに乗り込んだのは、お前の為だ」
それが、先輩の答えだった。それを聞いた僕は──────
──は……?
──────堪らず、絶句した。
「僕の、為……?」
遅れて、呆然とそう呟く僕に対し。先輩はコクリと小さく、まるで躊躇うかのように頷く。
先輩の肩を掴んだ手を、ズルリと滑り落として。僕は愕然としながら、先輩に言った。
「つまり……
「…………は、はぁっ?」
僕の言葉に対して、先輩は目を白黒させながら、まるで意味がわからないと声を上げた。すぐさま、先輩が言葉を続ける。
「ちょ、ちょっと待てよクラハ。別に俺はそうとは言ってねえだろうが。何でそうなるんだよ?」
「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか」
「はあぁっ!?だから違えって!どうしてそうなっちまうんだ!確かにここに乗り込んだのはクラハの為だけど、それは……!」
先輩は必死になって、言葉を繋ごうとする。けれど、そんな先輩に対して、僕ははっきりと告げた。
「止めてくださいよ。僕を
瞬間、先輩は止まった。深紅の瞳を見開かせて、止まって固まってしまった。
「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです」
淡々と、僕は言葉を並べる。止まって固まって言い返せない先輩相手に、遠慮容赦なく。無慈悲に、大人気なく。
「だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ」
それを最後に、僕は口を閉ざした。先輩はしばらくそのままだったが、やがて徐々にその顔を俯かせて。肩を小さく震わせながら、またその口を開かせた。
「言い訳……ああ、そうだな。クラハの言う通りだ。俺はお前を使って、言い訳してた。……でも、な」
弱々しく震える声でそう言って、先輩は俯かせたその顔をまた上げた。
「こんな
必死に、まるでこちらに追い縋るかのように。言葉を
とても悲しそうで、とても淋しそうな笑顔があった。
それを目の当たりにした僕は、一瞬だけ目を見開かせて。それから顔を逸らし────
「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
────突き放すように、そう返した。
この部屋に、もう何度目かなんて数えるのが煩わしい静寂が訪れて。しかしそれはすぐさま、小さな足音によって破られる。
その足音はやがて僕のすぐ隣で止んで。少し遅れて、もはや震えてなどいない声で、
「助けに来てくれて、あんがと。……じゃあな」
その感謝に対して、僕は。
「……はい。さようなら、
まだ知り合って間もなかった頃の呼び方を、もはや今さら使う機会など訪れることはないと思っていたその呼び方を。何の感情も感慨もなくただ淡々と。戸惑わず、躊躇わずに使った。
終わりはいつも、いつだって唐突で、突然に訪れる。例外なく、全てに等しく。そう、平等に。
だから、八年続いたこの関係もまた唐突に、突然に。経た月日と重ねた年月に見合わず、こうして呆気なく、あっさりと──────その終わりを告げたのだった。