「それにしても驚いちゃったわ。急にこんな時間に、それもまさかあなたがこうして訪ねて来るなんて、ね」
「……悪い」
「別に気にしなくていいのよ。一応私とだってそれなりに長い付き合いでしょ?それとお湯加減はどう?熱くない?」
「……大丈夫」
「そう。ならよかった」
「……」
そうして、二人の────メルネとクラハの会話は一旦の終わりを告げ。そこから先は、シャワーから流れる温水が、浴室のタイルを叩く音だけが、静かに響き続けた。
ラグナが扉の外に立っていた──────その現実を確と認識し、受け止めたメルネは。とりあえず、扉を開いた。
メルネとラグナ。こうして直に対面した二人は、数秒互いを見つめ合う。無言が織り成すその静寂の最中、まず最初にその口を開かせたのは。
「こんな時間に悪い。他に当てがなくて、さ……」
ラグナ、であった。申し訳なさそうに、ばつが悪そうに言うラグナに、慌ててメルネも口を開き、言葉を返す。
「べ、別にそんなの気にすることないわ。立ち話もなんだし、まあ中に入りなさい」
そうして、メルネはラグナを自宅へと迎え入れた。
──当て……?
そのラグナの言葉に、妙な引っかかりを覚えつつも。
……しかし。そうして迎え入れたはいいものの、そこからメルネは困惑と戸惑いに囚われることとなる。何故なら、ラグナの様子があまりにもおかしく、そして今発しているその雰囲気は、およそメルネが知るものとは遠くかけ離れていた為だ。
一体どうしたというのか。何があったのか────こんな深夜に突然訪ねて来たことも含め、それらをメルネは問い質そうとした。
だが、自宅に迎え入れられてからはまた口を固く閉ざし、ほんの一言すら発さないラグナの沈黙を前にしてしまっては、それも上手くできそうにない
──……困ったわねぇ。
会話もできず、ただ無意味に時間だけが過ぎていく。そうは言ってもまだ、たかだか数分のことなのだが。
──よし。こうなったら……。
これ以上貴重な時間を無駄に過ごす訳にもいかない。ただでさえ今は深夜で、こちらには今日の早朝から仕事が控えているのだ。ラグナには少し悪いと思いつつも、そういった個人的な理由から、メルネは行動に打って出ることにした。
──とは言っても、どうしましょ……?
その行動に移る為の
そうして、ラグナの格好を眺めたメルネは。一つの単語を頭に思い浮かべた。
「えっと、とりあえずお風呂……そうねお風呂に入りましょ、ラグナ。その髪で一人は大変だと思うから、一緒に……ね?」
言ってから、自分は一体何を言っているんだろうと、メルネは思った。自分は既に寝巻き姿だというのに。
妙なことを口走ってしまったとメルネが後悔する最中、少し遅れて。やや遠慮気味に、こくり、と。小さく、ラグナが頷いた。
──……あら?
──私が言ったことだけども、まさかこうして本当に一緒に入ることになるだなんて。
まるで燃え盛る炎をそのまま流し込んだような、鮮烈な紅蓮の赤髪を。湯で濡らし、指先で優しく丁寧に梳きながら、メルネは微笑む。
──本当に綺麗な髪。手入れとか特にしてないんだろうけど、正直これは妬いちゃうなあ。
しかしすぐさま、そんなメルネの微笑みに、複雑なものが微かに混じる。
そう、手入れなどされているはずがない。そんなことを気にする訳がない。
だって、元々ラグナは男だったのだから。こんな綺麗な髪も、汚れ一つない肌も、元々ラグナは持っていなかったのだから。
──……ラグナ、本当に女の子になっちゃったんだ。
とっくのとうに、『世界
しかし、それも無理はない。確かにラグナは赤髪の少女となってしまった。けれど、それはあくまでも外見だけだった。その傍若無人な性格や大胆不敵な立ち振る舞い、その天真爛漫な性根は何処も変わっていなかった。ちっとも、ほんの少しの変化だってなかった。
だからこそ、メルネは
だがそれは、やはり勝手な思い違いだったのだと。メルネは痛感させられた。周知の事実となったその現実を、今。彼女はこのような形で受け止め、ようやっと受け入れたのだ。
──……だからこそ、なのよ。
ラグナの赤髪を梳くその指先に余計な力が入らぬよう、メルネは沸々と激しく、されど静かに。己の内で怒りを滾らせる。
ラグナは何も話してくれなかった。何故、あの黒い
そして何故────ラグナはそんなにも気を沈ませ、昏く落ち込んでしまっているのか。玄関で他に当てがなかったと言われたことといい、メルネの頭の中では疑問符が右往左往に飛び交っている。
だけど、ラグナは何も話さない。一体何があったのか、何も話してくれない。その似合わない無言と沈黙が、これ以上になく、どうしようもなくメルネの心を騒つかせてしまう。
だが、しかし。それを解消できる手っ取り早い方法はある。それは単純明快────自分がラグナから訊き出せばいい。一体何があったのかと、問い詰めればいい。ただ、それだけだ。
ただ、それだけのことだというのに。
──……難しい、なあ。
メルネはそれができない。その一歩を、踏み出せない。確かに、明らかに尋常ではないラグナの雰囲気に気圧されている自分がいる。普段とは似ても似つかないその雰囲気に、気を憚れてしまう自分がいる。それは、自覚している。
だがそうではないのだ。そういうことでは、ないのだ。もし、仮にもし。今日、ラグナが酷い目に遭って────否、
そのことについて詳しく訊ねるということは、ラグナにその酷い目に関して自ら話させるということ。負ったその傷を、自分から抉れと言っているのと、同じことだとメルネは思っている。
説明しなければ何もわからないし、何も始まらない。そんなことはメルネとてわかっているし、理解している。……それでも。
──私はラグナを傷つけたくない。……傷つけてしまうことが、堪らなく怖い。
だからメルネはラグナを問い質すことができない。その思いが、邪魔をしてしまうから。
……それに、ラグナから話を聞かずとも。おおよそ何があったのかは、察しはつく。メルネとて、伊達に歳を重ねていない訳ではない。
というより、
嫌な予感程、よく当たる────捧げた祈りは天に届かなかったことを知り、己の第六感を恨みながら。メルネは黙ってラグナの髪を梳き続ける。
しかし、思わぬ形でメルネの望みは成就することになる。ラグナの髪も洗い終えたので、もう自分がいる必要はないだろうと、浴室から出る為にメルネがラグナに一声かけようとした、その時。
「……なあ、メルネ」
黙っていたラグナが、その口を開かせた。不意のことで、ほんの僅かに肩を跳ねさせながらも、落ち着いた声音でメルネは返事をする。
「ん、どうかしたの?ラグナ」
しかし、ラグナが言葉を続けることはなく。それからまた少しの沈黙が続いたかと思うと、メルネに背を向けたまま、ラグナは。
「俺って、何なのかな」
そう、静かに呟いた。
──え……。
自分とは何なのか。そんな哲学めいた言葉が、それもラグナの口から出たことに。メルネは堪らず動揺し、戸惑ってしまう。それが彼女の言葉を濁らせ、口を鈍らせ。結果、返事をするのが遅れて。
しかし、それを気にしたようなことはなさそうに。さっきとは打って変わって、ラグナは言葉を続ける。
「俺はただ、何かしたかった。先輩として、後輩の為になることを、してやりたかった……ただ、それだけだったんだ」
その華奢な肩を微かに震わせながら、それと同様の声音で。
「悔しかったから。ずっと、ずっと……あの時は見てることだけしかできなくて、助けを呼ぶくらいしかできなくて、助け、られなくて。それがずっとずっと悔しかったんだ。だから、こんな今の俺でもしてやれることを、したかっただけなんだよ」
やがて、震えるだけに留まらず。徐々に、ラグナの声音は濡れていく。
「なあメルネ……教えてくれ」
予想だにしない状況下に置かれて、声も出せずただ固まる他ないでいるメルネに。弱々しく震える濡れた声で、縋るかのようにそう言って。そしてようやっと────ラグナは振り向いた。
「
──ラグナ……。
その時見た、顔を。表情を。この生涯の中で忘れることはないだろうと、心の中で切実にラグナの名を呟きながら、メルネはそう思う。そして彼女は何も言わず、何も言えず。
腕を振り上げ────そっと、ラグナを引き寄せて。その小さな身体を、優しく抱き締めた。
「…………言われ、たく、なかっ……た」
メルネに抱き締められながら、彼女の胸元に顔を埋めさせながら。嗚咽混じりに、ラグナが言葉を零す。
「あんなこと、クラハだけには言われたくなかったぁぁぁぁ……っ!」
そこから先、ラグナは泣いた。ずっと、泣き続けた。メルネの前で、恥も外聞もかなぐり捨てて。
浴室に響き渡る、その悲しさと辛さと淋しさに満ち溢れた慟哭を聴きながら。それを止めることができない、無力な己の不甲斐なさを歯痒く思いながら。ただ、メルネはそれを受け止め続けた。それがラグナの為にできる、唯一のことだから。
──……大丈夫。大丈夫よ、ラグナ。きっと、大丈夫だから。
メルネは知っている。ラグナの問いかけに答えるべき者を。
メルネは知っている。失意のどん底に落ち、絶望の最中に独り取り残されたラグナに。手を差し伸べ、そこから連れ出せる者を。
だから、どれだけ苦しくても、どれだけ辛くても。メルネは何も答えられない。何もできない。
何故ならば、知っているから。自分がそうではないことを。自分には、その資格がないことを。
その役目を、果たさなければならない者を。