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狂源追想(その二)

「きゃああぁぁっ!!」


 ダッ──静寂で満ちるこの森を、女性の悲鳴が痛々しく貫くとほぼ同時に。俺はその場から咄嗟に駆け出していた。


 ──方角はこっちか……!


 今、己が出せる全力の全速で。俺は森の中を駆け抜ける。地面に這っている木の根に足を取られないよう、注意を配りながら。


 そうして、腰に差す剣の柄を握り締めながら、俺は目の前の茂みから飛び出す。


 瞬間、バッと動かした俺の視界に映り込んだのは────


「いや……来ないでぇ……!」


 ────と、完全に恐怖に呑み込まれ、埋め尽くされた声を。掠れさせながらも懸命に、その喉奥から絞り出して口に出す女性。彼女は地面に尻をついてしまっており、上手く立ち上がることができないようだった。


 そして、そんな女性にジリジリと迫っている数匹の魔物モンスター。そいつらに視線を向け、俺は思わずハッとする。


 ──こいつらは……。


 魔狼まろう。野生動物の狼が何らかの要因で大量の魔素まそを浴びることで変異した、〝有害級〟の魔物。


 数奇な巡り合わせ、とでも言うべきなのか。今襲われて女性と同じように、俺も六年前に魔狼たちに襲われた。そして、助けられた。


 ──……今度は俺の番って訳だな。


 あの時の記憶えいぞうを、あの時助けてくれたシュトゥルムさんの背中を脳裏に過らせながら、俺は剣の柄を握り込んでいる手に力を入れ、鞘から一息に抜いた。


「死にたくない、私まだ死にたくないっ!」


 地面に尻をつけたまま、迫る死の恐怖から必死に逃れようと。生への渇望をこれでもかと込めて、女性がそう叫ぶのと、魔狼の一匹が彼女に襲いかかるのはほぼ同時のことで。




 ザンッ──が、しかし。魔狼の牙が女性の喉笛を噛み千切ってしまうよりも、間合いを詰め、振るった俺の剣がその首を斬り飛ばすことの方が断然先だった。




 ゴトン、と。斬り飛ばされた魔狼の首が地面に落下し、ほんの少しの距離を転がる。それを流し見ながら、俺は女性に飛びかかった首失き胴体をやや乱暴に蹴っ飛ばす。


 一拍遅れて、胴体は吹っ飛びながら首の切断面から赤黒い血を噴かし、宙を真っ赤に染め上げる。幸運にも、その血が女性に降りかかることはなかった。


「六年ぶりってとこだな。……まあ、お前らはあの時とは違う別の魔狼共なんだろうけど」


 今まさに自分に襲いかかろうとしていた魔狼の首が斬り落とされたかと思えば、その胴体は蹴り飛ばされ。そしてそれら一連の行動を起こした張本人たる俺が。こうして自分の目の前に立ち、突然の闖入者に固まらざるを得ない残りの魔狼たちに、新鮮な血で濡れた剣の切先を突きつけている──────恐らくこれは、この女性が今までの人生の中で初めて体験する、驚嘆愕然の現実だったのだろう。


 その髪と全く同じ色をした、白金色の綺麗な瞳だった。その瞳を見開かせていたかと思えば、グラリと女性は身体を揺らして。そして、そのまますぐ背後にあった木の幹にもたれかかり、瞳を閉ざしてしまった。


 卒倒してしまったのだ。それも無理はない。常人であれば、誰だってそうなるはずだ。


 ──まあ、ここから先の光景はキツいだろうし、都合が良いか。


 一瞬だけ女性を一瞥した俺は迅速に判断を下し。こちらに対し魔物特有の、野生味に溢れた殺気を放つ魔狼たちを、俺は射殺すつもりで見据え。静かに、剣を構える。


「今の俺は、六年前とはもう違う……試すのには丁度良いか」


 俺がそう呟くと、こちらの出方を窺っていた魔狼たちは動き出した。一匹が吠え、それに応えるように残る二匹が同時に前に飛び出す。


 飛び出したその二匹が、俺に襲いかかることはなく。それぞれが左右に分かれたかと思うと、そのまま俺の周りをグルグルと駆け始める。


 流石は魔物化した狼。二匹共走るその速度をどんどん増していっている。一般人は当然として、並大抵の冒険者ランカーでは到底、その姿を捉えることはできないだろう。


「…………」


 風を激しく切る音を聴きながら、俺は微動だにせず、無言で。ただ剣を構えたままでいた。


 そして、遂にその時は訪れる。


「バウッ!」


「ガウッ!」


 二匹の魔狼は吠えたかと思うと、駆けていた勢いそのままに、左右それぞれの方向から同時に、俺に飛びかかった。


 ……だが、それも。それ以外の全ても。俺にとっては


「ギャウッ!?」


 左手を振り上げ、俺は瞬時に左側の魔狼の首を掴み。それと全く同時に右手が握り締める剣を速く鋭く、そして躊躇いなく振るった。


 ザシュッ──振るわれた俺の剣の刃が宙を滑り、右側の魔狼の腹下と衝突し、そのまま何の抵抗もなく刃は進み、魔狼の背中までを通過する。


 下から上へ、魔狼の身体を通り抜けた刃は赤く血濡れていて。遅れて、俺に飛びかからんとしていた右側の魔狼から血飛沫が飛び、宙で上半身と下半身が分たれて地面に落下した。


 ドチャッ、という。妙に生々しく嫌な音を聴きながら、俺は左手で掴んだ魔狼を見やる。


「ガ……ガゥン……!」


 首を掴まれ持ち上げられている魔狼は情けなく鳴いて、宙でその四肢をじたばたともがき、足掻く。そんな意味のない無駄な抵抗を眺めていた俺は、その首を掴んだまま。思い切り、魔狼を地面に叩きつけた。


 ゴキャ──そんな鈍く重い音と共に、地面に叩きつけられた魔狼の首が直角に曲がる。直後、魔狼の身体から力が抜け、その口からだらんと舌が伸び、はみ出た。


 誰の目から見ても、絶命したことがわかる魔狼の死体から。俺は視線を外し、正面へと向ける。残すは、一匹。


 筆頭リーダー格だろうその魔狼は、低く唸りながらもジリジリと、慎重に観察しなければわからない程細かく小さく、その場から後退を始めている。


 敵と接触した獣が取れる行動は二つ。迎撃か、撤退。それだけだ。そしてあの魔狼は後者を選んだらしい。


 そのことを冷静に判断しながら、俺は掴んでいた魔狼を離し、一歩踏み出す────その直前。


 ダッ──俺が見据えている中で、魔狼は瞬時に踵を返し、その場から駆け出した。一気に加速し、あっという間に魔狼の後ろ姿が小さくなっていく。


 ──……。


 勝手に逃げてくれるのであれば、無理にこちらから追う必要はない。さっきの二匹で試した通り、もはや今の俺にとって魔狼は大した敵にはなり得ない。まあ、流石に十数単位の群れで襲われたのなら話は別だが。


「けどそれは、あくまでもだ」


 握り締めている剣の柄に力を込めながら、俺は魔狼の後ろ姿を見る。今から追いかけても、流石に追いつけはしないだろう。


 だが、まだ──────そう判断した俺は、真っ先に柄を握る右手に、そして右腕全体に己の魔力を走らせた。


 ──【強化ブースト】。


 それは、初歩中の初歩に位置する魔法の一つ。故に極め易く、そして極め難い魔法の一つ。


【強化】した右腕を振り上げ、俺は狙いをしっかりと定め。一時的に増加し倍増した腕力膂力の全てを、余すことなく絶妙に、完璧に乗せて。




 ビュウッ──握っていた剣を、投擲した。




 ──った。


 俺がそう確信するのと、投擲された俺の剣が魔狼に追いつき、そのまま魔狼を通り抜けるのは全く同時のことだった。俺の剣は止まらず赤い尾を引きながら、宙を疾駆し駆け抜けて。その遠く先にあった大木のド真ん中に、剣身全てが埋まる程深々と突き刺さる。


 遅れて、剣の射線上にいた魔狼の身体から血飛沫が上がり、両断されたその身体は左右に分かれて地面に倒れた。


 その最期をきちんと見届けて、とりあえず俺は一息吐いた。


 ──人間を襲う魔物モンスターを、自分は平気だからって見逃す訳にはいかないよな。


 それから俺は背後を振り向き、女性を見やる。彼女は依然として気を失ったままで、その身体を力なく木の幹に任せていた。


「…………」


 こうして眺めているだけでもわかる。女性の意識が戻るには、まだ当分の時間を要するだろう。


 ──どうしたものか……。


 こちらは先を急いでいる身、その意識を取り戻すまで待っている訳にはいかない。だからとて、このまま放置しておくことなど論外である。


 木漏れ日を受け、美麗に輝く白金色の髪を眺めつつ。俺は少しの間考え込み。そして、ため息を一つ吐いた。


「まあ、仕方ないよな……」


 そう呟き、俺はゆっくりと女性に歩み寄り。そっと、腕を伸ばした。

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