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狂源追想(その三)

「…………」


 目的の街であるオールティアを目指し、街の近くにあるこの森の中を、俺はただ黙って。ひたすらに無言を貫いて、歩く。歩き続ける。


 ──確か、この先をこのまま真っ直ぐ進んで行けば、辿り着ける……はず。


 先程、数分の時間を費やして脳裏に刻み込んだ地図を想起させながら、俺は心の中でそう呟く。


 ……そんなことをしなくとも、現物があるのだからそれを見ればいいではないか、と。俺のこの旅路に同行者がいたのなら、きっとそう指摘していたことだろう。だがしかし、生憎今の俺の状況下ではそうすることはできない。


 何故ならば────己の背に、一人の女性をおぶっているのだから。


 ──他に方法がなかったから仕方なかったとはいえ、まさか見ず知らずの、しかも年頃の女をおぶる日が来ようとは……。


 と、俺は苦心の面持ちで声に出さずぼやく。そうでもしなければ、やっていられないというか、なんというか……。


 腰辺りにまで伸ばされた白金色の髪と、それと全く同じ色をした瞳。その顔立ちは凛としていて、美しかった。


「……チッ、なっさけねえ……」


 記憶を基に思い描いた地図の傍らに、今自分がおぶっているこの女性の顔を浮かべて、俺は少し……ほんの少しだけ、僅かばかりに顔を熱くさせてしまうのを否応にも自覚する。


 本当に情けない話、生まれてこの方まともな女付き合いというものをしたことがない。オトィウス家の屋敷には歳上の侍女メイドたちしかいなかったし、そもそも俺はまだ子供ガキだった。


 ……まあ、十三になった頃に、一回だけ。父から俺がオトィウス家の次期当主になった際に、後々世継ぎを残さねばならない義務のことを説明され、その教育の一環として父が選りすぐった数人の侍女の一人を宛てがわれて、をさせられそうになったことはあるのだが。無論、それは全力で断らせてもらった。




『今はまだこちらも無理強いするつもりはない。だがもしお前がになったのなら、その時は拒否せず相手しろと話はしてある。……が、よく覚えておけ。十五までには絶対に経験させてやるからな。女の味というものを』




 という、断った後にかけられた父の言葉は、未だにどうやっても忘れられそうにない。


 ──誰が好き好んで親に用意された女を抱くかっての。俺にだって、相手を選ぶ権利っていうものがあるんだぞ。


 別に純情という柄を主張アピールする訳でもしたい訳でもないが、俺は意中の相手でもない女と、そう気軽に肌を重ねたくはない。子供ながらもそういう意思を持っていたから、断ったというのに。それをあの父は全く理解してくれなかった。だから平然とあんなことを言えたのだろう。


 そして屋敷を飛び出し、シュトゥルムさんに拾われた後の六年間に女っ気はほぼほぼ皆無であった。シュトゥルムさんは森の奥で簡易な小屋で一人で暮らしていたし、強いて言うならたまに、森の一番近くにある村に食材や日常生活に必要なものを買い出しに訪れ、その時によく顔を合わせていた歳の近い村娘とのささやかな交流くらいだ。


 ──……そういや、あの子元気にやってんのかな……。


 その村は、お世辞にも裕福とは呼べない、貧しい村だった。いつ魔物モンスターの群れに襲われても不思議ではない、そんな村だった。けれど村人たちは互いのことを励まし合い助け合い、一丸となって日々を懸命に過ごしていた。そしてそれは、村娘も同じことだった。


 毎度毎度、いつも屈託のない明るげで眩しい笑顔を浮かべていた。きっと、彼女の笑顔に活力を分けられていた村人も少なくはないだろう。


 旅に発つ際に村に立ち寄り、俺は村人一人一人に世話になった礼と、別れの挨拶を告げた。もちろんその村娘にも。




『元気でね、ライザー君。私、ライザー君の夢が叶うって、きっとその夢は現実になるんだって、絶対の絶対に信じてるから!』




 最後は涙混りに切なく震える、掠れ声でその村娘は俺にそう言ってくれた。この言葉も、どうやったって忘れられそうにない。


 そんなところで、聞くにつまらない俺の自分語りはここまでになる。そんな訳で、こうして二十歳の大の男になったにも関わらず、俺は未だにろくな女性経験をしてこなかったんだ。必然、女性に対する免疫というのもまあ、皆無な訳で。


 だからこうしてこの女性をおぶっている間────俺は全身の肌から嫌な汗を滲ませる、堪え難い緊張感に包まれ苛まれていた。


 ──せめて上か下……どっちでもいいから歳が離れていれば良かったのに……!


 声に出さず、心の中で俺は苦しげな文句を呟く。そう、歳が近いからこそ、異性として意識せざるを得なくなってしまうのだ。


 背中越しに伝わる体温も、柔らかな身体の感触も、一定の間隔で打たれる鼓動も。その何もかもを、俺は意識してしまう。


 その上、今女性に意識はない。意識がないから、文字通り俺の背中にその身体を預けている訳で。遠慮容赦なく、何の躊躇いもなしに、そんな年頃の肉体を男である俺の背中に。無防備にも惜しげなく、密着させている訳でもあって。


 そうなると当然、女性の中でも一際柔らかな部位の感触が、俺の背中に当たって潰れて広がって。それがさらに、俺の緊張に拍車をかけていた。


 ──というか、服の上からじゃいまいちわからなかったが、意外とご立派な代物をお持ちのようで……。


 女性が着ていたのは、身体のラインがあまり出ない、全体的にゆったりとしたワンピース。そのおかげで、格好だけでは判断できなかった。


 恐らく、世の男からすれば今俺が置かれているこの状況は、さぞ羨ましいことこの上ない、まさに役得という奴だろう。……まあ、確かに俺だって別に嬉しくない訳でも、ましてや嫌っていう訳でもない。正直に白状してしまえば、高揚している自分がいるのもまた事実だ。


 けれど、それ以上に緊張と焦燥が勝ってしまう。今にでも自分の背中から女性の身体を剥がさなければ、妙な気を起こしてしまいそうで。それこそ、俺は嫌だった。


 ──こ、これは修行だ修行。一時の感情に流されないようにする、強靭な精神力と忍耐力を養う為の、少しばかり強引な修行。そう思い込め、ライザー=アシュヴァツグフ。


 もっともらしい理屈を捏ねて、情けなく不甲斐ない己を俺は律する。そうして一分でも、一秒でも早くこの状況から抜け出す為に、ひたすら前へ進む。


 が、丁度その時であった。




「…………ん……」




 と、不意にすぐ耳元で声が囁かれ。僅かに漏れた吐息が俺の耳を無遠慮にも擽る。瞬間、ゾクゾクとした感覚が背筋を駆け上がり、俺は堪らず肩を一瞬だけ跳ねさせてしまったが、危うく飛び出そうになった声はなんとか我慢することができた。


「ここ、は……?」


 続け様、声がそう言う。その言葉に対し、俺は咄嗟に答えた。


「おっ、起きたかっ!?こ、これについては誤解しないでくれ!君は意識を失ってて、でも俺は先を急いでて、けどだからって君のことを放置する訳にもいかなくて!だから君を俺の背中におぶってるのは致し方ないことというか仕方のないことというか不可抗力というかなんというか、ぶっちゃけこうするしか他に手段がなかったんだ!ああ、うん!」


 ……それは、自分でも流石にどうかと思う、苦し紛れの言い訳と弁明の数々だった。そんな、咄嗟の咄嗟に吐き出され、そして垂れ流された俺の言葉を、その女性は。


「…………」


 これまた、黙って聞いていた。自然と俺の足は止まり、その場を無言の沈黙が漂う。


 それは十数秒のことだったのかもしれない。もしくは、数分かもしれなかった。どちらにせよ、その沈黙が織り成す静寂の間に、先に堪えられなくなったのは────案の定俺だった。


 恐る恐る、と。徐々に、ゆっくりと俺は口を開き、喉奥から振り絞った、引き攣って掠れ気味の声を。呻くかのようにぎこちなく吐き出す。


「や、疾しい気持ちとかは持ち合わせていない……それは本当、だから……その、どうか信じてほしい」


 俺の言葉に対して、依然女性は無言だった。果たしてそれは怒っているからか、それとも悲しんでいるからなのか。それを判断できる程、俺は人の心情に聡くはない。


 そうしてまた数秒の沈黙が続き────しかし、それを先に破ったのは。




「……ふふ、あはははっ!」




 何の裏表もない、ひたすらに明るく可愛げのある女性の笑い声であった。それに対し、俺は堪らず混乱と困惑に包まれざるを得なかった。


 ──わ、笑ってる……?いや笑われてる、のか……?


 こちらとしては精々、怒鳴られるか泣き出されるかと簡単に予想していたのだが。まさか、笑うとは微塵にも思わなかった。何故ならば、今の状況でこの女性が笑い出してしまうような要素など、皆無のはずである。なのに、何故?


 それがわからず、理解できず。だから俺は、無意識の内に女性の方に顔を向けてしまった。


 そして、思わず目を見開き、息を呑んだ。


「あは、はははっ!」


 女性の笑顔は、まるで咲いた花のようだった。そんな素敵で、魅力的な表情から。俺は目が離せない。視線を、逸らすことができない。


 それは、今までの人生の中で感じたことのない、正体不明で未知の感情。その笑顔をこうして間近で見ているだけで、心が洗われるというか癒されるというか────とにかく、はっきりとした表現こそできないものの、この女性の笑顔には、何か不思議な力があることだけは、辛うじてわかり、理解できていた。


「あはははっ……ご、ごめんなさい。だって、私だって何がなんだかわからないのに、あなたがあんまりにもおかしなことを、あんまりにもおかしな様子で言うものだから、つい……あー、こんなに笑っちゃったのいつぶりかなぁ」


 と、振り向いた俺の顔を見て、慌てて申し訳なさそうに女性が言う。そんな彼女に対して、俺は未だかつて感じたことのない、この奇妙で不可思議な感情に踊らされ翻弄されつつ、決して声を上擦らせないよう言葉を零す。


「そうか……いやこっちこそ、他に冴えた方法が思い浮かばなくて、その……すまなかった」


 俺がそう言った直後、一度は落ち着きかけた女性はまたもや吹き出し、俺の背中で笑い出す。


 ──え?俺何か変なこと言ったか?ただ、謝っただけだぞ……?


 女性の笑いのツボがいまいちわからず、当惑する俺に対して。女性は依然笑いながらも、その両腕を俺の首に絡ませて、優しく穏やかな声音でこう言う。


「えっと、実は私足が痛くて……私は気にしませんから、どうかこのままおぶっていてくれませんか?」


「えっ?い、いやっ……そ、そうか。足を痛めてるなら、仕方ない。仕方ない、よな……わかった」


「ありがとうございます。では遠慮なく、この広くて逞しい背中に頼らせてもらいますね」


「あ、ああ……」


 そうして、俺と女性はほんの短い、ごく僅かながらの期間ではあるが。この先に待つ街、オールティアへ共に目指すことになった。

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