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できること

『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のなんかが』


 その言葉だけが、頭の中を回っていた。ぐるぐると、ずっと。回って、回り続けていた。


『……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のなんかが』


 その所為で、頭が変になって。おかしくなってしまいそうで。痛くて、辛くて、苦しくて。それが、堪えられなくて。だから忘れようとした。何度も、何度も。


『今のなんかが』


 でも、忘れられなかった。忘れようと、そう思う度に。まるでそれが許されず、糾弾されているかのように。記憶に深く、より深く。鮮明に刻み込まれては残されていった。


 自分は否定された。自分は拒絶された。絶対と言っても過言ではない信頼と信用を抱いていた、唯一の存在ひとに。その現実に押し潰され、その事実に擦り潰され────どうにかなりそうだった。


 ……今になって思えば、もういっそのことどうにかなって。そしてそれはもう派手に壊れてしまっていた方が。事態がここまで拗れることなどなくて、色々と楽になっていたのかもしれない。


 けれど、選べなかった。その選択を自分は────ラグナ=アルティ=ブレイズは選べなかった。


 何故か?どうしてか?その理由は簡単だ。。壊れてしまうことが、堪らなく。どうしようもなく、ラグナは怖かった。


 確信している訳ではない。ぼんやりとした漠然さで、しかし。もし今の自分が一度壊れたのなら、たぶんもう元に戻ることができないという。根拠も何もない思いだけがあった。


 痛くて辛くて苦しくて堪えられない。壊れて楽になることも選べない────────ラグナはもう、どうすればいいのかわからなくなっていた。


 わからないまま、走り出した。逃げ出した。行く当てなど全く考えもせず。ただ、ひたすらに。遮二無二に我武者羅に。滅茶苦茶に、無茶苦茶に。


 今にでも街道の路面に倒れそうになりながら、今にでも限界に達して気を失いそうにながら、それでも。ラグナは走った。逃げた。走り続けて、逃げ続けた。


 そしてその末に────気がつけば、ラグナはとある家の前に立っていた。


「……ここ」


 ラグナ自身、これは無意識の内のことだった。別に最初からここを目指していた訳ではない。けれど、気がついた時には自分はこの家の前で、こうして立ち尽くしてしまっていた。


 呆然と家を見上げ、ラグナは表情を強張らせる。今が深夜だということは、ラグナとて重々承知していた。


 ……しかし、それでも。




『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のなんかが』




 ふとした拍子の隙を突いて、まるでこちらのことを追い詰めるかのように。その言葉が頭の中をグチャグチャに掻き回しながら、ひっきりなしに響き渡って。それが嫌で嫌で嫌で気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて。とてもではないけど、やっぱり堪えられそうになくて。


 それを紛らわそうと。それを誤魔化そうと。遠去けようと、逃げようと。ラグナはそうしようとして、また気がつけばその場から一歩二歩と進んで。


 リリーン──そして、この家の呼び鈴チャイムを鳴らしてしまっていた。


 ハッと、鳴らした後からラグナは後悔する。後悔して、あたふたして、とりあえずその場から消えようとして。


 ガチャ──しかし、ラグナがそうこうしている内に。扉は開かれてしまった。


 開かれた扉の向こうに立っていたのは言うまでもなく────メルネ=クリスタ。当然だろう、何故ならばこの家は彼女のものなのだから。


 全て無意識の内に行動を起こしてしまい、その結果自分でもどうすればいいのかわからずに立ち尽くすラグナ。突然の来訪者に驚き、今一いまいちこの状況が飲み込めないでいるメルネ。そんな二人は互いの顔を見つめ合い、数秒の静寂を漂わせ。


 そんな最中、とにかくこの状況をどうにかする為に。ラグナは口を開き、メルネにこう言った。


「こんな時間に悪い。他に当てがなくて、さ……」


 ……自分でも、何を言っているのかよくわからなかった。けれど、自分でもよくわからないこんな言葉に対しても、そんな自分に対しても、メルネは。


「べ、別にそんなの気にすることないわ。立ち話もなんだし、まあ中に入りなさい」


 多少戸惑いながらも微笑んで、そう言ってくれた。そして彼女はラグナのことを快く、自宅の中へと迎え入れてくれたのだった。


 こうしてメルネの自宅に迎え入れられたラグナであったが、やはりどうしてればいいのかわからず。結果、メルネに事情もろくに話せず、彼女を前にしてラグナは黙り込んでいることしかできないでしまっていた。


 ……とは言っても、一体どうしたのかと。何があってここへ来たのかと、そうメルネに訊ねられたところで────




『今のアンタにわからせてやる。理解させてやる……その身体と、そして心に。そうすれば、その瞳だってきっと


『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のなんかが』




 ────こんな経緯を平気な顔で説明できる程の勇気を、ラグナは持ち合わせていないのだが。


 ともあれ、またしても再びラグナとメルネの二人の間に気まずい静寂が流れてしまった訳で。しかし流石にこのまま黙り込んでいる訳にもいかないと、ラグナがそう思った直後のことだった。


「えっと、とりあえずお風呂……そうねお風呂に入りましょ、ラグナ。その髪で一人は大変だと思うから、一緒に……ね?」


 ……などと。メルネは唐突な提案をラグナに投げかけた。ちなみに彼女は既に薄布の寝間着ネグリジェ姿で。その格好から、入浴などもうとっくのとうに済ませていると容易に察することができる。その上で、彼女はラグナと一緒に入浴しようと提案してくれているのだ。


 最初、ラグナはどう返すべきか迷った。ただでさえ深夜に突然自宅を訪ねて、上がり込んで、メルネには迷惑をかけてしまっているのだ。なのに、その上入浴など……と。そう考えるラグナであったが、しかし。


 そんな己の思いとは裏腹に、こくり、と。メルネの提案にラグナは小さく頷いていた。


 まあそうして、いざ入浴せんと浴室に向かった二人だが。この時ラグナが羽織る、男物の黒の外套コートの下が。およそ衆人環視の最中では決して晒せない格好であったとメルネに知られて(というより見られて)、大いに彼女を驚愕させ、動揺させてしまった。


 だが、それでも。こちらの為と思ってのことなのか、メルネがラグナに事情を問い質すことも、何かしら訊ねることもなかった。彼女はあくまでもラグナのことを受け入れ、接するだけだった。


 ……だからだろう。


「……なあ、メルネ」


 優しい指先で梳かれ、髪を洗われる最中。ラグナは不意にメルネの名を呟く。


「ん、どうかしたの?ラグナ」


 メルネの声は落ち着いていた。彼女の声音は日常いつも通りの、変わらぬ平常なものだった。


 依然として言葉は響いていた。痛かった。苦しかった。辛かった。


 遠去けたかった。逃げたかった。……もう、どうしようもなかった。


 だから────────




「俺って、何なのかな」




 ────────頼ってしまった。甘えてしまった。こんな自分とは違って、日常通りで何も変わらないメルネに。彼女の優しさに。


「俺はただ、何かしたかった。先輩として、後輩の為になることを、してやりたかった……ただ、それだけだったんだ」


 と、メルネの返事も待たずに。ラグナはそう言葉を続ける。


「悔しかったから。ずっと、ずっと……あの時は見てることだけしかできなくて、助けを呼ぶくらいしかできなくて、助け、られなくて。それがずっとずっと悔しかったんだ。だから、こんな今の俺でもしてやれることを、したかっただけなんだよ」


 そんな、あんまりにもあんまりで長ったらしい言い訳を、メルネ相手に身勝手に続けて、そして。


「なあメルネ……教えてくれ」


 そう言うや否や、ラグナはメルネの方へと振り向いた。


俺って、一体何なんだ……?」


 …………酷かったんだろうなあ、と。今の自分はそれはもう、酷い顔をしていたんだろうなあ、と。まるで何処かの他人事のようにラグナは思う。そしてそんな顔を向けてしまっているメルネに、申し訳が立たないでいる。


 失望されてもおかしくない。諦められても不思議じゃない。ああ、こいつはもう駄目なんだと思われても仕方がない。。それが今の自分。今のラグナ=アルティ=ブレイズ。


 そんな自分に。こんな有様の自分に対して、メルネは腕を振り上げたかと思えば。その腕でこちらの身をそっと引き寄せて────抱き締めてくれた。彼女は優しく、抱き締めてくれたのだ。


 ラグナにとって、それは予想だにしない行動だった。それ故に、ラグナは困惑した。戸惑った。


 錯綜する思考の最中、ただ唯一確かにわかったのは。メルネの体温、彼女の優しい優しい温かさ。


 それを感じ取ったその瞬間────ラグナはどうしようもなくなった。


「…………言われ、たく、なかっ……た」


 思い出したくない今日の出来事、思い出す度心を深く抉られ傷つけられるその記憶と共に。訳のわからない、ラグナには説明のできない想いが胸の内から止め処なく溢れ出してしまって。どうしようもなくなって、堪らなくなってしまったラグナは、気がつけば口を開き、そう言葉を零してしまい。


「あんなこと、クラハだけには言われたくなかったぁぁぁぁ……っ!」


 そして、とうとう遂に。今の今まで懸命に繋ぎ止め、必死に抑え込んでいたその本音を、ラグナはメルネへ吐露してしまったのだった。





















「……その、ごめん。変なとこ、見せちまって」


「ふふ。散々泣きに泣いて、スッキリできた?」


「…………まあ、うん」


「なら別にいいじゃない。あんなの一々いちいち気にすることないわよ、ラグナ」


 胸元に顔を埋めさせ、気が済むまで泣きついてしまったことを。恥ずかしそうに縮こまりながら謝るラグナに。対するメルネは特に気にした様子もなく、微笑みを浮かべながらラグナへそう言葉を返す。


 平気な風を装って。堪えてないと我慢して。けれど、本当は駄目だった。我慢できなかった。嫌なものは、嫌だった。


 正直に白状してしまうと、溜め込んでいたのを吐き出したことで。気分はいくらかマシになった。ずっとひた隠していた本音と本心をぶちにぶち撒けて、素直になったら楽になれた。


 ……でも、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。


「まあそれはそうとして。本当にそろそろ寝ないとだわ。これ以上起きてたら、明日に響いちゃう」


 それに女の夜更かしは肌とか、色々駄目にしちゃうしね────と、そう付け加えるメルネ。そんな彼女のことを、ラグナは見つめる。




『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のなんかが』




 ……相も変わらず、その言葉は頭の中で響き渡る。ふとした拍子に。こちらの隙を突くように。


 ──今の俺が、できること……。


 そう心の中で呟いた、その直後だった。それは、ほぼ無意識の内のことだった。


「……メルネ」


 寝室へ向かおうとしていたメルネを呼び止め、ラグナは彼女にこう訊ねる。


「何か、あんのかな。今の俺ができることって、なんだろうな」


 そしてその言葉が────『大翼の不死鳥フェニシオン』新人受付嬢、ラグナ=アルティ=ブレイズの始まりとなった。

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